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第4章-高専はモデルにあらず!(2)モデルの揺らぎと矛盾ー

  せっかく『モデル』のような高専内部者に登場頂いたので、これが高専の入り口(入試)と出口(教育効果)について、どのような評価を下しているか、これを見た後、その矛盾を指摘しておきたい。ちなみに、ここで言われていることは、高専関係者のみならず他の教育機関関係者からさえ、矛盾を指摘されている事実である。揶揄するものさえある。

1.高専入学者の学力は低くない-

 『モデル』88頁では、「入学者の学力は地元トップの進学校より少し低い」ぐらいで、優秀とされている。特に地方の高専には、このような傾向があり、これは、否定できない。むしろ、比較的優秀であるため、高専問題が発生するのである。

 ただし、高専の入試問題が、当地の公立高校入試問題と異なるため、単純な比較は出来ない面もあると考える。これと近時の志願倍率の低下の事実を併せると、実際は、高専の当地における見かけの偏差値に比べてかなり学力の低い者も相当に入学している、という推測はなりたたないであろうか。年次ごとに様々な調査があり一概には言えないが、入るのが簡単とはいえず、まあ秀才が入る学校ではあるが、玉石混交の面があり、近時は石の方もかなり多くなってきた・・・という感覚であろうか。

2.技術者採用の大学院修士課程修了者へのシフトー高専側も知る事実-

 『モデル』89頁では、「これからの技術者の採用は、次第に大学院」修了者に移っていく」と素直に認めている(というよりは、既に移っている)。高専としても、これに、対応する必要があるという。一方、就職者数は、(『モデル』の著者が所属する学校では)「状況がよいながら、少ない」としている。

 高専は一応5年の課程で教育を終え、一般的な高専の卒業生の6割程度は、何らかの技術職として就職することを前提としていることからすると、彼らへの教育効果と処遇をもっと分析して見せるべきであった。ところが、『モデル』89頁では、「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」として、これを放棄している。技術職が大学院修了者に移っているというならば、当の高専卒の処遇はどのように扱われているのであろうか。確かに、このテーマは高専側の最重要テーマであって、いくつか調査がなされてきた。しかし、高専側はこの『モデル』の著者のように、高専は大学工学部レベル(たとえば、現在では「専門的能力は大卒とほぼ同じ」という表現を使うが、中学生を含む普通の人なら、能力が同じなら仕事や待遇も同じと考えるであろう。また、かつては、“高専卒の仕事内容や待遇は大卒と同じ”であるとパンフレットや入学説明会で言われていたのは間違いない)という趣旨の宣伝を事実上継続する一方、現在は技術者に院卒が増えたのに対応して進学機能も充実化しているとして、一見矛盾した言動を見せるのである。つまり、高専卒の処遇問題を問題としては強く意識しつつ、進学率でカムフラージュしている。

3.早期専門教育の問題点 

 高専の進学機能(大学工学部編入学又は専攻科終了後、最終的には、大学院修士修了に向かう)が高まっているというならば、高専5年の課程とは、どのような理念・意味があるのであろうか。むしろ、基礎科学や教養教育に重点を置かず、形式的に専門教育を施すことで青少年の柔軟な思考を奪ってはいないだろうか。第2章・3章に見たように、幅広く、ものの考え方の根本を学ぶ方が伸びしろが付くのではないか。教育の本義は潜在能力を認めこれを高めることにあるとすれば、高専はこれと逆のベクトルを有してはいないか。例えば、高専からの大学編入学生をして、問題を「柔軟、あるいは複眼的にとらえる」ことがに難があり「研究姿勢が硬直的」という指摘がなされることがある(鈴木浩平「高等専門学校からの編入学制度について考える」『日本機械学会誌』No.960)。一般の「早期教育」というのは、あまり功を奏しないものであったり、逆に、個性をつぶす、伸び代がなくなる、あるいは、下手をすると、その分野を嫌いになるという効果をもたらす弊害も指摘されている。もちろん、効果的な早期教育もあるのかもしれないが、こと工学でも同様なのではないか、ということはよく考えるべきである。早期の専門教育も効果があるのかも知れない。しかし、この考えを打ち砕いてくれたのは、戦後生まれの日本人ノーベル賞受賞者であり、かつ、エンジニアでもあった彼らの経歴であった。彼らは、早期の専門教育など受けなくても専門家たりえ、しかも「実験の鬼」たりえた。さらには、実践の名のもとに基礎原理の理解を疎かにすると、逆に実践さえも頭打ちになる場合がある。彼らは、無理にでもやった物理学や化学の理解のもとに、実験の鬼となり、独創的なものを創り、作り上げたのである。「エンジニア」で、しかも、「神がかり的な秀才」達じゃないことがポイントである。高専卒からもノーベル賞が出るかも知れないが、筆者は、逆に、早期専門教育などはしなくても、実践的な部分も含めて専門分野の能力は無限に伸びることが確認できたことの意味合いは極めて大きいと思う(もちろん、彼らのうち一人の方が言う、大学入試や大学教養部の問題にはよく耳を傾けるべきだ。もっとも、もう一人の方は文句も言わず、大学で外国語の単位をおとしちゃいました、と動じず平然としておられることも頭に入れておきたい。それぞれの方に真があると思う。結局、筆者は入試を軽視すべきではないし、入試が個人の能力を潰すとは言えないと考える。センター試験的な全般的・一般的な学力を”最低限”確保しつつ、特に理系志望者には過度の暗記競争がないよう、そして、才能をはかるようしてやるべきだとは思う。教養課程も無くすべきとは考えないが、同氏が在籍していた頃は硬直的・形式的に過ぎたと思うし大いに反省しなければならない。・・・・・しかし、それでも、”最低限”が保証されていない、教養教育の基盤さえもない高専とは次元の異なる問題であることは念を押しておく)

 ところで、アメリカの大学生や大学院生は、早期に専門科目を「組み込んで」いるから、創造力があるのであろうか、専門分野に長じているのであろうか。このことは、アメリカにおける高校・大学の峻別、そして理念上離れているものをいかにうまく「接続」(つまり、高専のように接着・同質化・混合化するのではない!しかも高専のように中卒後の話ではない!)させるべきかが問題となる単線型教育制度の下で、一部の早熟者への飛び級措置、これからその分野を学ぼうとする「高校生」があくまで「意欲」喚起と円滑な「移行」のために大学分野における学習を先行させようとする措置とは次元が異なる。先のリベラルアーツカレッジの例が思い出されるのであるが、このリベラルアーツカレッジは早期に専門教育を組み込むことが、たとえ「意欲」喚起や円滑な「移行」になる場合があるとしても、「専門」分野における能力を「顕在化」させるとは考えていない。ましてや、「かすがい」的(かつ楔形に)に組み込もうなどとは考えていない。bridgeを架けて欲しいところに、clampを打ち付ける必要はないのだ。

 もちろん、高専出身者にもベンチャー企業を興したり、そこに勤めようとする者もいる。しかし、システムそのものへの再考を迫るような思考やその実践に至ろうとする、社会を巻き込んで自分の技術を問おうとする、大企業を積極的に飛び出して、何かやってやろうという者は、やはり、高専出身者あるいは高専経由の大学出身者には割合的に少ないように見える。これにはやはり、高専の教育目標と早期の専門教育導入が影響していると考える。そもそも、最近では、高専生の気質や能力そのものが、どこか大企業に勤められれば・・・というふうになっている面もある。高専と比較する対象群の選定を誤っているのかも知れない・・・。

 それにしても、高専が専門科目や実験を学生に早期に施している一方、高校生のうちはせいぜいクラブ活動の科学部でちょっとした機器をいじっていた程度で、受験勉強を経て大学に入って、しかも、専門課程が本格的に始まるのは、まだ先だったという連中の方に、先に述べた“システムへの挑戦”“社会を巻き込んで”“大企業の枠に囚われず”何かやってやろうというアグレッシブな連中が目立つのはどういう訳か。もちろん、高専出身者にもそういう連中がいるのは否定しないが、やはり、割合的に少ない。

 逆に言うと、高専の教育というのは、大学とは制度も性質も異なり、特定分野における定型的・ノウハウ的能力を伸ばすのであって、そのような人材育成に徹し進学は予定していないというのであれば、社会や生徒に誤解を与えることもなかったであろう。ちなみに、高専生が「論理的思考」はたまた「創造的思考」において劣るという評価は、結構なされている。

 ところで、高専生が大学工学部に編入学するようになってからは、大学工学部教員になる者も増えてきた。工学専攻者の1割が高専出身者だとして、さらにその高専生の4割が専攻科又は大学に進学するとすれば、その比率ぐらいの割合、つまり、3パーセントから多ければ5パーセントぐらいの割合で、私学を含む全大学工学部教員の割合を占めてはいるだろう。しかし、高専出身者が高等学校からの一般入試を経た大学工学部生より優れているというならば、工学科目を一度履修したうえ大学で重ね塗りして、高専側の論理によれば「優秀」であるはずの彼らのこの比率が圧倒的でなければならないが、そうでもない(仮に、本当に仮の話だが、大学の工学者の1割が高専卒だとしても、一応、「工学」専攻者に占める高専卒の割合は1割いるから、比率的に「多い」などとは断じて言えない)。逆に言うと、先の例と同様、大学工学部の研究者の圧倒的多数は高校生のときに特に工学において顕在化された能力を伸ばしたわけではない。むしろ、潜在能力を伸ばす方向にあったのだ。もちろん、この一部の高専出身者が専攻分野においてすこぶる業績があることは素直に認めなければなるまいし、中には、世界的研究者になった人もいるだろう。また、技科大は地方国立大学を中心に多くの大学工学部に人材を輩出している。その価値を貶めようというものではない。しかし、結局は、大学教育を経由した結果であることを忘れてはならない。そして、特に高専経由の大学出身者の主である技科大については、技科大に、これが設立後一定期間、全国の高専の学科トップが殺到していた時期があったことも考慮せねばなるまい。つまり、技科大は、ある時期まで、地方の秀才である高専トップの生徒を独占していたという背景がある(本来、地方の進学高校の工学系志望トップクラスは、いわゆる旧帝大をはじめとす難関大学を目指し、進学先も全国の大学にばらけるはずだなのだが、高専生は一部を除いて技科大しかないという状態だったのである。また国側の配慮で、平均的な地方国立大学より早くから博士課程が設置されていた)。

 そもそも彼らも最初から普通に高校・大学と行っておればよかったことである。なるほど、企業はどうか別として、工学研究者の世界は実力評価の社会である。どこどこの高校とか高専であるか等は、しかるべき研究者はあまり見ておらず「高専卒だからスゴイ」という見方などしないのだ(但し、高専からの大学進学者が極めて少なかった時期は、マイナーなはずの高専出身者が優秀ぶりに驚いたはずだし、評価して見せた大学教員もいた。また以上の技科大の例もある)。このことは、少なくとも工学部の世界で「○○高校はやはり数学に強い」とか「スゴイ」などと言わないことを考えればわかるだろう。どうせそうなら、最終的に同じ程度の専門科目を学ぶのであれば、むしろ、受験という試練、文理双方の広いもモノの見方を身につける、異なるものの考え方をする人と接する、環境を変える等をした方が、長いスパンで考えて、その人間にとってはいいのではあるまいか。以上にも少し触れたが、青年のうちは、たとえ受験を通じてであれ、数学や語学分野の基礎学力と潜在能力を伸ばした方がよい。優秀であればこそ、そうして欲しい。そして、筆者は、一歩踏み込んで高専の存在意義と結局は大学教育を経由している彼らが高専教育独自の成果なのかを問うているのである。高専出身者が大学研究室に一定割合でいるというのは、大学・大学院進学を許された高専の学生割合からは当然の割合であって特筆すべきことではない。旧帝大や独立大学院大学の大学院に全体の学生比率・割合よりやや多くの高専専攻科出身者が在籍するのは、地方国立大学の大学院が博士課程まで充実化してそこの出身者が昔のように他流試合をしなくなっている面も強いと聞いたことがある。また、高専専攻科卒ではハクが付かないという隠れた理由もあるだろう。技科大についても、技科大が高専学力低下に巻き込まれ、あるいは、高専トップを独占できなくなってくると、技科大出身者の大学教員を含めた研究職はその割合を減じてくる可能性がある。

 最後に、厳し言い方だが、“大学教員になる人もいる”などと言う前に、一人の工学者を作るために、一人の優秀なはずの退学者、一人の優秀なはずの下級技術者を生み出していることも考えてほしい。また、工学専攻者には、企業研究者や開発従事者というもう一つの優秀層の山があることも忘れてはならない。歴史的には、高専は大学とは異なる独自の教育機関であると標榜しながら、結局今となっては、“大学教員になる人もいる”と居直るのだから、開いた口が塞がらない。

4.賃金は大卒・院卒と異なる。下級技術者化する高専卒。しかし、「一部」には優れた最終学歴「高専卒」もいる

 『モデル』氏の「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」という問題意識の低さはさておき、以上の点を含む高専教育の位置づけと成果については、野村正實『日本的雇用慣行』及び同HPから厳しく問題を指摘されている。『モデル』の著者は高専の「存在意義」が問われるこの問題提起にどう答えるつもりなのであろうか。重要な指摘だが、あえて我流の引用をしない。是非、野村氏の本書を確認して頂きたい(賃金は大卒と高卒の中間、下級技術者化する高専卒、独自の高専教育において人材を社会に供給しているとは言いにくい等)。

 ちなみ、高専問題を問題として的確に認識しながら、現在では大卒がインフレ化しているので、高専卒の実践的な能力が高く評価されていくのではないかという者もあるかもしれない。しかし、①野村氏が前掲書で指摘するように、高専卒の地位が相対的にに低くなったのは、大学工学部の定員増加や増設があったこともひつとの理由で、この大卒郡には、旧帝大・名門私学理工系・地方国立大学の他に、大量の中堅上位の工科系大学出身者も含まれていることを忘れてはならない。それらに比べてもなお、(当時の秀才であった)高専卒は、下位に扱われたのである。②また、同書によれば、依然として、大企業は学歴主義的な人員配置をしていることが示されている。③さらに、現在、ネット上では、大企業における特に若手の待遇は「高卒並み」との指摘もあり、この実態をHPに暴いているものもある。これは、あながちウソに見えない。つまり、このような“高専卒が見直されていく”という意見は、高専卒は、中堅大学に増設された大学工学部卒業者や中堅理工系大学卒業者に比べても不遇を買ってきたが、今日に至って本格的に、下級技術者として処遇されるようになったということを、言い直しているに過ぎないのである。大卒インフレ問題は、なるほど下位大学理工系において進んでいるかもしれないが(下位文系ならなおさらだろう)、中堅以上の大学特に理工系では進んでいないと考える。

 同様に、高専卒を、大企業におけるリーダー的高卒現業職になぞらえ、この高卒現業職も研鑽を積めば、将来大卒を指導していけるなどという、いかにも大企業における現場道徳な価値観を持ち出す者もあるかもしれない。しかし、これは、大企業高卒現業職が全体の就業者の中でそんなに多くはなく、仮ににその恩恵に預かれるとしたらごく一部の伝統的な工業高校の中のさらに一部の生徒であり、しかも、採用数が偶然的要素(団塊世代では、とにかく都心部に出ていけば、大企業の工場労働にあやかれたのである。今はちょうど、その団塊世代が完全引退して、その波が来ている。しかし、このわずか前には、地元の古い工業高校を出れば得られていたはずの、地元進出大企業工場への就職がシュリンクしたのを思い出したまえ)決まっていることを忘れている。しかも、当の高専出身者自体が、(工業)高校卒では単純労働にしかつけないと考えて、高専を選んでいるのを忘れいてる。高卒で会社に入ったベテランが、“一時的に”大卒に仕事を指導するなどという例は、どこの会社のどの時代にもあったことである。ちなみ、私筆者は、学歴はないが「素手で」日本の製造業を支えてきた、中小零細・下請けの職人・技能労働者への尊敬を忘れたことはない。待遇が抑えられ不況になれば真っ先に泥をかぶる彼らと大企業内の非正規労働者の犠牲のもとに、大企業現業職の待遇は支えられているのである。あるいは、中小企業の開発力には目を見張るものがあるが、これと、大企業中堅下級技術者との関係についても同様であろう。確かに、大企業から技術度や熟練度の低い業務が外部化される傾向はあるだろうし、大企業内に熟練度や専門度の高い労働者がいるだろう。しかし、高い技術力や熟練度を持った者が、所属する企業規模が小さいというだけで待遇が低い、逆に、能力一般や技能面で下層に位置する大企業単純労務職の方が待遇がよい(と当人らは思っているが、経営側はそうしたいと考えているだろうか?)という面もあるわけである。たとえば、部品産業で神業ともいえる技術や技能をもっているのは中小企業なのであるが、これらが正当に処遇されてきただろうか。また、特異な技術をもった中小企業や数人で起こしたベンチャー企業が対等にコラボレーションする事例も見られる。このような労働問題や産業構造あるいは企業自体の採用動機への視点を忘れて、工業高専から大企業下級技術職、工業高校から大企業現業職についた者を、その教育がすばらしいからそのような企業に入れるのだと宣伝するのは、いかにも視野が狭い。

 以上で上げた2つの例は、そんなことをいう人がいるのかとイブカシがられるかも知れない。しかし、意外に、地方や非学歴保持層ではよく見られる、悪く言えばいかにも通俗的な考え方である。

 筆者も、高専出身者が全て「下級技術者」に過ぎないなどというつもりはない。中には資質を認められて、中核的・中心的技術者になるものもいる。国立高等専門学校機構『目指せ!プロフェッショナルエンジニアーわれら高専パワー全開』にはそれが表れている。ところが、この本に出てくる面々、特に研究職や大企業開発職にあるのは、年代的にはほとんど初期生以降の7期8期生ぐらいまで(もちろん年齢的に中心的存在になるという要素もある)、また若手の学歴は最終的には理工系大学に編入学した大卒・院卒以上がほとんどであるということである(また、なぜか、高専は「中堅技術者」「臨床的技術者」を養成すると標榜してきた割には、そのとおりに生産管理等の部門に配属された者の紹介が少ない)。非常な優秀者が高専に入学してくる、あるいは、高専卒で大企業開発職に抜擢される者があるというのは、大学進学率や社会意識などの「時代性」があるのである。また、現在では大学に進学しないと開発職には就きにくい時代になっているのである。若手でも、能力や専攻分野次第では高専卒の肩書で院卒に優るとも劣らない仕事をしている者もあろうし、また、場合によっては「転換試験」で上級技術職に就く場合もあるだろう。しかし、その実数がどんどん減ってきている、無くなりつつあるというのが多くの高専卒の人たちの実感であるはずだ。また、この面々もそれを知っているはずだ。心を鬼にして申し上げておく。こういう本と同様の「美辞麗句」を高専は繰り返してきたのである。彼らがなくてはならない存在であることと、高専がなくてはならない存在かは、別問題である。ほかの個所でも述べるが、彼らは時代が時代なら条件が揃っているなら「高校」「大学」でよかった人たちなのである。また、この面々の裏に優秀でありながら不遇を買った者、あるいは複雑な心境・状況におかれた者も限りなく存在するのである。全国高専の選りすぐりを集めたこの本と同じ論理で、”工業高校生も昔は凄かった””技術職に就きたかったら工業高校に行きましょう”という本が出来るであろう。

  野村正實『学歴主義と労働社会』108頁は、学歴社会は「1960年代後半」あたりを学歴社会が成立した時期としている。一方、筆者は、「7・8期あたりまでは集団としても凄く優秀だった」という高専教員の述懐を聞いたことがある。高専7・8期の入学時期は1970年前後である。あたかも、1960年半ば以降1970年半ばまでは、大学進学率が急上昇している時期であるのはよく知られる事実である。逆に言うと、1970年頃は、まだ学歴主義を内面化できずあるいは「大学進学」を視野に入れない層が、地方を中心に厚く存在・混在していたと言えるのではないだろうか。1970年のこの時期、高専の入試倍率はまだ3~4倍を保っており、1973年頃には2倍程度に落ちていった。

 科学技術振興機構『科学者になる方法』には、ある高専生が、高専に入ったものの、工場見学で先輩が中堅研究者や中堅技術者という位置付けで働いているのを見て、もっと自分の能力を発揮できる道を選ぼうと考え、高専を中退して旧帝大理学部に入り直した話が出ている。この高専生は、年齢的には高専7・8期あたりである。この人は高専の教育「内容」に文句は何も言っていない。逆に満足していたかもしれない。しかし、自身も優秀でありながら、初期高専生たる先輩たちの姿を見てきた7・8期生の肖像として興味深い。

5.偽りの言葉

 狭い範囲で通用する道徳的な教訓には、もちろん真実が含まれている場合も多いが、高専に限ってはそうではない。下記の言葉は、パンフレットに出てきたり、筆者がこの耳で聞いたことがある言葉である。ここまでくると、洗脳である。

①「進学校では遊んでしまうので、国立大学工学部へ入れない」

 信じがたい話だが、国立大学工学部学生の大部分が進学高校出身者であることを忘れて、このようなことを言う教員や学生がいた。なるほど有名進学校でも落ちこぼれてどこの大学にも入れないということは結構見られる例であるが、高校生が受験で必死になっているときに、高専生は遊んで留年退学・・・お家芸である。

②「大学生は理論ばかりやっているので実験が出来ない」

 理論ばかりやっている大学生はいるにはいるが、大学生も学部終盤になると、基本的な実験作法を身につけている。というより、明治時代からそうしてきている。有名なところでも後発の私立大学工学部では学生実験がままならないところがあるが、地方国立大学では少人数で学生実験が出来るから、そちらに進学しなさいと、進学高校の先生がアドバイスするくらいである。だいたい、理論ばかりのその学生も勉強するだけ全然マシである。日本では東京理科大学が理学中心でありながら、実験精神をも伴っているだろう。名門私学にも古くから工学部は設置されてきているし、旧制専門学校を前身にもつものも数多く、実学・実技・実践教育を標榜してきた。高専の場合、工業高校と同様カリキュラム上実験実習が早くから導入されているが、実技・実習教育の淵源は明治時代にさかのぼることができる先輩の学校がちゃんと存在するのだ。しかも、その高専の実験施設は貧弱である(ただ、これには同情すべき点がある)。先輩面っていうやつだ。ただ、地方国立大学・新制大学工学部でも、これが出来た頃、旧制専門学校・高等工業時代と異なり形式的に一般教養課程を導入したので、実践力が落ちた“時期”があったことは、他の章でも触れる予定である。また、大学院までを見越した教育や、大学院生との研究・実験まで考慮に入れれば、高専の方が実技・実習が充実しているとか高度などとは到底言えない。

 その他、今日に至っても、大学工学部では「設計製図」をやらないとか、大学工学部の専門科目の時間数は高専の半分以下、という尾びれのついた話を信じている者さえいる。

③「高専生は4年5年の時に実験実習に追われるが、大学生は教養課程で遊んでいる」

 なるほど一見そうである。ところが、ちゃんとした大学の工学部生は、まず、受験の段階で大変な努力をしているが、高専生はそれをしていない。一般教養で遊ぶ人もあるが、専門課程に入ったときの忙しさは配属先によっては高専の比ではない。そもそも一般教養が削られていることを何とも思っていない時点でどうであろうか。かつては、企業側や大学教員側も同様のことを言う場合もあったが、教養部改革と工学教育の主流が大学院修士に移ったため、それは当てはまらなくなった。

④「あなたがたは学生です」

 これは、高専生は、高等教育機関に属しているのであるから自立心・自律心をもって行動すべき、という意味で設立当初から使われている言葉である(但し、筆者はこのブログではあえて「生徒」と呼んでいる)。ところが、これを逆用して、あるいは逆に作用して、高校生の年代でピアス・茶髪・喫煙、あるいはもっとヒドい非行に走るものが結構多い。これはネットの罵詈雑言を取り上げたものではない。現実に高専の紀要等でも取り上げられる厳然たる事実である。また、バイクや自動車事故もかなり多い。それだけなら、一部の有名私立高校や放任型名門高校でもありうるが、5年間受験あるいは就職活動がないので自制心が働かず、また、男子生徒が圧倒的多数で、しかも、これが「長期」にわたることから学校やクラスの雰囲気が退廃的になってしまうことも相まって、そのまま単なる不良の集まりみたいになることが多い。中学時代に比較的成績が良かった者が(も)入学する学校としては異常な事態である。逆に設立当初は、学業と気質の面で生徒の質が今より格段に上だったにもかかわらず、管理教育を行っていたと聞く。ちなみに筆者は、パチンコ屋に高校生の年代の高専生が出入りするため、教員が厚生指導のためパチンコ屋を巡回していたのを見たことがある。おそらくどこの高専でも似たような事例は頻発しているだろう。しかし、これら結構な割合で存在する素行不良者(中には、どうしようもない、クズやカスもいた)の中に混じって、一部の優秀層が在学している(これには「専門」さえやっていればいいのだから高専が天国という者の割合が大きい。あるいは、家が貧しいからここで学ぶしかないという者もある。筆者も貧乏の出だったから、こういう言い方をするのを許してほしい。しかし、貧乏でも優秀なら大学生活ぐらい何とかなるというのも事実である)という奇妙な雰囲気は、内部の人間でなければわからないであろうし、逆に高専生や教員はこれを何とも思っていない。また、教員も若年生徒への厚生指導や生活指導の経験が浅いためか、あまりタッチしようとしないケースが多い。

⑤「大学に行ったら就職がない」

 当の高専は最近は進学を売りにしておきながら、「大学に行ったら職がない、中小企業にしか入れない」等と"豪語"する者もいる。高専生は視野が狭いあるいはそのように仕向けられるので、ちゃんとした大学ならしかるべき就職先があることが分かっていないのである。例えば、小規模ながら伝統のある化学メーカー、コンサルティング会社、特化型の基盤部品産業、試験研究・調査型企業に一流大学・国立大学の工学部や理学部出身者が入る例は結構あり、彼らはその企業で中心的立場に立つ。一般には聞いたことがない企業でも、伝統と実績があり実は東証一部に上場しており、あるいは非上場であっても、その業界では知る人ぞ知る世界的にも有名な企業が日本には非常に多いのであるが、一応は工学分野にあるはずの高専生はあまりそれらの企業群が視野に入っていない。もちろん、これは高専出身者が就く職種や職階、高専側の宣伝にも関係している微妙な問題でもあるが、その構造はこのブログ全体を読んでもられば理解できると思う。但し、専攻科修了生を大卒並みに評価する一部の上場中堅企業や中小企業も存在するので、その企業群まで見込んで就職活動をすると、「知る人ぞ知る」企業に目が向く場合もあるだろう。もっとも、専攻科が大卒並みに扱われる場合があったところで、高専問題はそれはそれで残る。

 もちろん、大学進学率50%を超えた今日、その半分にその学歴に応じた仕事がないということは当然起こっている。しかし、以下に述べるように、時には勝手に国立大学工学部と比較しておいて、就職のときだけ、都合よくFランク校と比べるという論法は、高専関係者がよく行う。

⑥勝手に国立大学工学部と比べる

 高専関係者は、同じ「国立」というだけで、勝手に高専を国立大学工学部と「同等の教育内容」「準じる」「その割合中、いくらかは・・・」等とやり、眉唾ものの怪しい数字を出すこともあるが、ちょっと待ってほしい。他の個所でも述べたが、日本には、結構な数の私立大学理工系があり、これには、戦前からの伝統がある大学も多く、実力を蓄え就職も悪くない。伝統私学に工学部が新設される例もあったが、これが高専の後輩ということはなく、すぐに大学院課程が設けられた。新興の理工系大学についても。学生の質に問題があっても、教員は学位をもっており学位も授与でき、実験設備も大学としての体を保っているし、選ばなければどこかのメーカーに就職自体はできるだろう。高専関係者は、高専の存在を生徒や社会へのアピールのために、私学の存在を無視することが多いのである。これには、高専の校長が当地の国立大学工学部教授出身者ということも大きく影響している。特に地方では、私学の工学部がない、あるいは大都市圏の私学への進学が一般的でない地域もあることも影響しているだろう。ところが、日本全体でみたときに、勝手に「国立」枠で括って何を言いたいのであろうか?そんな括り方をしていいなら、地方では大体、各県に国立大学工学部1つと国立高専1校があるのであるから、どうとでも言えてしまうではないか(「国立」工学系学生の4分の1は高専卒等・・)。ちなみに、高専卒が、高専卒で就職したときに、入社時に驚くのは、東大京大等のとてつもなく頭のいい連中に出会うことと、それまで高専生が眼中においていなかった私立理工系出身者の数に圧倒されることである。地方国立大学工学部卒ももちろん根を張っている。これらには、実は、大したことはない連中もいることもあるわけだが、頭から私立理工系を無視するのは全く不当であり、誤解を与える。

 他にも、「一般教科の授業時間数は、普通高校の理系コースから大学工学部の2年までに学ぶ類似科目の時間数とほぼ同じ」というデタラメ・嘘八百や、「確かに一般科目は少ないが、受験がないので効率的に学べる」という伝統的な虚栄を張っている高専も数多い。いつまでそんなことを言い続けるのか?誠に罪深い限りである。逆に、受験がないから英語が出来ない、効率的に学ぶというより手っ取り早く済ます=軽視する風潮を生んでいるのである。

 まだまだあるが、これ以上は止めておく。やや、俗な言葉で語ってきたが、彼らの言葉の背後にあることを炙り出すために、あえてそうした次第である。真面目な学生もいることは否定しないが、真面目だからこそ、世間の常識からかけ離れた論理を信じてしまう場合がある。

 

 

 

 

 

 

第3章-高専はモデルにあらず!(1)数学力と英語力の欠如-

1.ある小論から 

 かつて、学力低下と「ゆとり」教育批判の文脈で、西村和雄ほか編『分数ができない大学生』が話題となった。この時代の、これらの問題提起は、その後の教育政策にも影響を及ぼした。

 ところで、同じく西村氏が編者となった『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』という本に、実は、高専とはどういうものであるか、を示した小論がおさめられれている。それが、ある高専教員による小論「モデルは高専にあり」である(以下、『モデル』)。この小論で述べられている、著者本人があげる高専についての「事実」は、第一に、高専とはどの程度のものかを示している。第二に、これらの著者本人が美点と思って挙げている「事実」は、よく事情を知った者や教育についての一定の知見、一定の知性を持った者なら、高専の美点ではなくて「欠点」であるに過ぎない、あるいは、なぜそのような高専についての事実が美点であるかの論理的説明が欠如している。そもそも、せっかく西村氏らが本質をとらえた問題提起をしているのに、ここで述べられている一編の高専教育論に限っては、学力低下という教育問題を問題として論じていないのではないだろうか。これまで高専教育に向けられてきた批判を一切理解していないのではないか。創立以来ジワジワ学力が低下している当の高専が、学力低下にかこつけて、高専こそモデルあるというのもいかがなものか。この小論を題材に、教養問題のほかに、高専およびその学生の学力問題を扱っていく。

 ちなみに、この『モデル』が書かれた年次は2001年と新しいものではないが、よく、高専教育の内容をよく表しており、また、書籍におさめられているという便利さもあって、あえて、題材にした次第である。現在の高専教育の実情は、(わたくし筆者が批判した価値的部分を除き)この本の内容とそんなに変わらないと考えている。

2.高専の一般科目は、高校理数系の半分の時間数。数学でさえ危ない!

 『モデル』91頁では、一般科目が、高校理数系102単位(当時)に対して、高専66単位であることを素直に認めている。普通の人なら、「たったの半分」という事実に驚愕するであろう。ところが著者はオカマナイなしに、高専では、数学だけは「同じく18単位」で、高校の内容を「二年生までにすべて学習し」、三年次には大学1年生が学ぶ内容を学ぶことを強調している。さらに、95頁では、物理などについて、大学受験の勉強を差し引いても、「少ない」ことを認めている。『モデル』では述べられていないが、化学については、物理以下である。

 以上の内容だけでも、高専とはどういうものか、どうも高専教員の問題意識は低いのではないか、ということはわかるのであるが、さらに、高専の実態に即して述べていこう。

 ゆとり教育で揺らいだ時期があったとはいえ、国立大理工系入試では、多くの場合、理科を2科目選択させられる。さらに多くは物理か化学は必須、物理・化学両方選択もありうる。大学工学部で物理と化学の理解を欠如すれば、学ぶ資格がないというわけで、入試によってその学力を担保しているわけである。そして、入試問題も、センター試験の基礎から二次試験の応用まで決して易しい水準ではない。名門私学の理工系でも理系科目については同様に難しい。ところが、高専では、そもそも、単位数が少なく、高校生が入試によって事実上時間を確保されている、演習時間さえもないのである。能力担保は、授業さえ聞いていれば何とかなる学内試験のみである。

 さて、数学力である。まず、高校生で国立大学工学部や名門私立大学工学部や中堅私立理工系大学に入学しようとする者は、数学Ⅰから数学Ⅲまで必須であり、その入学試験内容は、上記で述べた物理や化学同様、高い学力水準を要求している。したがって、しかるべき水準以上の高校生は、教科書だけでは足らず分厚い受験参考書で勉強しているのである。ところが、ここからが、物理や化学と若干違うところであるが、高専の場合、なるほど、3年生までに扱う範囲は高校よりも多いが、演習が少なく数学そのものの勉強の深度が浅い。つまり、高専の数学は工学科目に間に合わせるため、表面を高速でなぞっていくというのが実情なのである。物理や化学の入試問題を解くことは、数学よも技術的側面が強いが、数学で、このような勉強スタイルでよいのであろうか。筆者などが言うに及ばず、理工学の問題は、最後は数学の問題である。さらに、数学そのもので養われた抽象的思考は、理工学分野の応用問題を考える際の大きな武器になる。ところが、高専ではカリキュラム時間の関係上であろうか、それとも、そういう「思想」なのであろうか、あまりに、数学で養われる潜在能力や応用的展開に顧慮を払っていない。そして、ついには、企業側の評価でも、高専出身者(転換試験などを経て、あるいは編入学を経て大学院修了したものでさえ)が研究開発部門に抜擢された場合でも、彼らは「解析(微分積分)力が劣る」部分があるなどと評価されているケースがあるのである。なるほど、分数や小数が出来ない大学生はいるかもしれないがが、逆に、高専出身者では大学入試センター試験や二次試験の数学の問題を解けないものがほとんどである(そういうトレーニングを受けていないから、やむをない、というのは理由にならない。何故なら、彼らは、数学が出来ると自称しているからである。”出来る”というなら並み以上にやってみせろ、ということだ)。西村氏らの前著『分数ができない大学生』では、大学生に行われた簡単な算数や数学の学力調査が公表されているが、ここでは、大学生のおそるべき学力低下が示されている。しかし、よく考えてみたい。国立大学や名門私学の理系出身者については、分数や小数の計算ができるようにはならなかったということは絶対にあり得ず、もしそういう事実が現象として見られたならば、単に分数計算法や小数計算法を忘れてしまっているという程度のこであろう。この程度のことは、中学卒業後には基本的に入学試験を課せられることとない高専生にも当てはまると見てよい、否、その可能性大である(高専生の学力低下あるいは気質の劣化問題については、高専内部の紀要やまれに教育雑誌などに掲載されることがあるから、各自で参照されればよい)。なにしろ、大学受験生が紙と鉛筆で数学を勉強しているとき、高専生は計算機を与えられているのである。

 ちなみに、高専の数学教員のレベルは現在ではちゃんと高等教育レベルを保っていることは間違いなく、形式的な面でも、現在では博士号を持っている者が多い。筆者の如きに教育課程を批判されるのは、それこそ噴飯ものなのかもしれない。しかし、半分、同情もしていることを述べさせて頂きたい。筆者が知る、複数の数学教員(これらの人も大学教育経験者や学位取得者であった)に、まさに、「(高専1・2年次でやる内容を指して)これは高校の範囲ではない」という言動があった一方、「表面を・・」「演習が・・」「高校生で理学部数学科や物理学科、工学部応用物理志望者ならこの問題に食いついてくるのに・・・」といった言動もあったのである。筆者の知り合いには、数学を本格的に学ぶために高専を退学して、理学部数学科を受験したものがあった。高専にも稀に天才が入学してくることがあるが、彼は、「高専の数学」に文句は言っていなかった。天才は天才だから、勝手に「大学への数学」等をどんどん解いて喜んでいたのである。天才にとっては教科書や教授内容・方法はどうでもいいのである。こういう天才は、そもそも高校や高専の数学教科書を”やれやれ”といってバカにするわけだから、サンプルにはなりえない。 

3.基礎基本科目を軽視しているのは、高専である

 『モデル』95頁では、高専の過密?(この点については、後述)カリキュラムを解消するために、高専でも「カリキュラム削減」が行われたという。そこでは、「基礎・基本科目(小学校ならば国語・算数)には手を付けず後で、効率よく学べる科目(社会など)を削減すべきである」という。では、高専で、どのような科目を削ったかについては、記述がない。①数学だけは、最低限の水準を保とうとするはずであるが、それでも、大問題あり、ということは上述のとおりである。②そして、削られるのは、真っ先には社会というのであるが、次に、”すでに”徹底的に削られているものがある。それが、「小学校ならば国語」の「国語」である。

 なるほど、高専の人文科学や社会科学分野の教養軽視はすでに追及し、これが、ここに証明されたのであるが、筆者が本当に言いたいのは、次の視点である。専門科目や実習科目などの応用的な科目をなるべく増やす一方、中途半端な数学力や理科科目の理解、そして「小学校なら国語」の国語を無駄なものとして削るなど(「社会」などは論外。歴史の勉強などは全然足りていない)して「基礎・基本科目」の習熟に致命的な欠陥を生じてきた高専が、何の資格があって、このようなこを言うのであろうーその欺瞞性である。さらに言うなら、「社会」を削って、後で効率よく学べるというが、「学校教育内」でそれが保障せずにおいて、「後で効率よく学べる」などというのも欺瞞である。往々にして”後で学ぶ”ことなどはない。この欺瞞性の指摘は、もちろん、著者個人に向けたものではなく、高専制度一般についての論評である。

 ちなみに、数学の教科書は全国の高専でほぼ高専用の共通教科書(検定教科書は高専には設定されていない)を使う場合が多いが、物理や化学は、担当教官の方針で、高専用の教科書や検定教科書を使用せず、大学の教科書又は専門書を使用するケースがある。しかし、年齢的には高校生向けで、かつ、授業時間がすくないため、ほぼモノにならない。高専生は、分厚い大学向けの教科書を手元において、勝手に「スゴイ」と思っているが、学力水準は全く追いついていないのである。むろん、青年が難しい研究的教科書や専門書を手元に置いて背伸びをする効用は筆者も認めるし(高校や予備校でも、大学レベルのお話や参考書を紹介して、知的な関心を呼び起こすことが結構ある)、一般科目理系の教員の知的な反抗と捉えられないこともないから、規制すべきことではない。しかし、高専が全体として、そのような教育になっているとしたらやり過ぎだろう。高専教育には後期中等教育の内容が多く含まれているのであって、この内容を保証することも考慮しなければならないからである。また、そういうケースは、そういう先生がいて一部の生徒がこれに呼応するに過ぎないとしても、これに寛容になればいいことであって、別に「高専がスゴイ」わけではないことは念を押しておかねばなるまい。本当にスゴイ人は高専生でも高校生でも、教科書が何であろうと、勝手に専門書を読み込んでいくものである。

 ここまで述べれば、「高専があまり動かない間に」「周囲が自然に落ちていった」という見解の危機意識の無さとオメデタさを一々論破する必要性はない。

4.高専とは理念が反対の学校-アメリカ・リベラルアーツカレッジ

 『モデル』99頁は、蓮實重彦前東大学長の「アメリカでは大学院を持たない、いわゆるカレッジがたくさんあって」、その卒業後は、ハーバードやMITなどの「優れた研究型大学にどんどん人材を送り込んでいるのです」との言動を肯定的にとらえたうえ、カレッジを高専に準え、高専の「高大一貫」教育に意義を見出している。

 この理解にはは、大きな誤謬が含まれている。ここで蓮實重彦前東大学長が挙げておられる「アメリカのカレッジ」と呼ばれているものは、アメリカの「4年制」「リベラルアーツカレッジ」のことと見て間違いない。このリベラルアーツカレッジの特長は、確かに専攻や実験実習もありうるが、早期に専門科目を専門家になるために教え込むことに意味を見出さず、20歳や22歳までは、まさに広く一般教養を磨くことに重点を置き、卒業後に大学院で本格的に専門科目を学ぶことを前提にしている学校群なのである。いうなれば、「すぐ役立つことは、すぐに役立たななくなる」という理念があるのだが、これは、まさに高専の教育とは正反対の理念ではないか。日本にも、このリベラルアーツカレッジの理念を受け継いだ大学はたくさんあるが、例えば、ICU教養学部しかないのがその典型例である。

 気力を振り絞って、一言付け加えると、アメリカにはカレッジとはいっても、様々なレベルのものがあり、そこから、ユニバーシティに何らかの形で入学することもあるから、これに高専を準えたのあろうか。しかし、蓮實重彦前学長の発言が、「リベラルアーツカレッジ」を念頭に置いていないことは絶対にありえず、敢えて、批判した次第である。

 近時、アメリカリベラルアーツカレッジに言及したものとして、池上彰池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター編』がある。実は、この本には高専についての皮肉な記述ー著者らは堂々たる教養人であるが、図らずも皮肉となっているーが見られる。つまり、みんながみんな頭でっかちになって、さらには大学を目指す必要などはない、多様な人がいてよいという、という文脈の中で、高専生は「身体的には頭がよい」というのである。この記述の二面性に気づけない人間はよほどの阿呆である。ほんの数行、必ずしも意図せず何気なく行われた対談内容についてコメントするのは気が引けるが、一応述べておきたい。

 「身体」で身についた「教養」、あるいは、前章において言及した阿部謹也「農夫の教養」というのは確かにあるのである。では、わずか1パーセントの特殊な枠に、あなた方には「身体的に」優れていればよいですよ、として精神的な面でも知的能力の高いはずの人間を押し込んでよいのか。後述するが「身体的に」優れた層が厚く存在すべきというなら、この枠に全体の3割以上の人間を誘いつつ(しかも高専のような欺瞞的な宣伝をせずにである)、また「精神の教養」を持った一定層も必要なのである。しかし知識階級は前者の層に入るのを望まないであろう。あたかも、この本の著者たちは自分の子弟を、身体的に優れる?="実践的"“実学的”?教育を標榜する学校ではなく、教養教育を徹底するするウェルズリー大学に行かせたいと、はしゃぎながら言っている。そもそも、この本は、すぐに役立つことはすぐに役立たなくなるとか、MITでは芸術や音楽も大切にするとか、実学重視が柔軟な思考を奪うとか、先のリベラルアーツカレッジのところでも述べたように正に高専教育とは正反対の思考のオンパレードの本なのである。彼らは、高専カリキュラムが教養ないし一般教育軽視の土台の上に成り立ち、中でも、高専の芸術や音楽の授業が極めて少なく薄いことをご存じなのであろうか(筆者の経験では、専任教員は皆無で非常勤講師がやれやれという感じで出講し、適当にスケッチして、音楽聞いて、という感じだったと思う。中学校の方がまだ厚い内容であった。国語が軽視されている以上の程度で軽視されているのである。もっとも逆に、高専でも音楽や芸術の授業がちょっとはあるのですね、と言われた時の方がショックだったが・・・)。芸術といえば、野村正實氏は自身のHP上で自分が大学生になったときに大学同級生がみな知っていた「エコールドパリ」を自分のみが知らなかったことを述懐している。「世界を変えた10冊の本」など池上のことを筆者は好きだが、池上氏らに限らず一般の知識人層は、この野村氏が感じたような(もちろん筆者も同じ以上の経験がある)ある種の“みじめさ″を理解できるのであろうか・・・。この池上氏らの本は有益であり、たまたま高専のことがほんの数行だけ話題になったにすぎないが、万が一にも高専関係者がこれを面白がって読んでいるとすれば(東工大つながりで、いずれ、誰かが言及するであろう)、繰り返すが、余程の阿呆である。高等教育機関と称してはいるが「教養」の存在そのものが問われている学校に、「身体」的な「教養」ならあるとしたり、ましてやこれに優秀層を誘うというのは例によって例のごとく欺瞞なのである。ちなみに、一時的には「身体的」には頭のよい連中が、通常ルートを歩んだ連中よりも、最終的にはたとえ実践的な面でも優れているとは限らないことは、本章3章と次章4章で、「多様性」のワナについては第6章で言及してある。また、第1章の『アメリカの大学の裏側』という本に言及した箇所も参照したい。

5.高専生に自己学習能力があるか?

 『モデル』100頁では、高専には、その勉強のための学習塾や受験参考書がないため、高専生は「自己学習能力」の意識が高いという。

 これは一面をみたものである。高専の学生間には、実は、過去問が流通していて、これで勉強している(勉強しないものは、過去問さえやらないが・・・)。高専の教員は基本的に異動がないので(高校や大学から移ってくるケースはある)、過去問の効果は絶大である。もうひとつは、やはり「教養がない」ことである。教養がないなら、自分で教養を身につけるようにしてもらいたいところだが、これはしない。高専生のメンタリティには役に立たないものはやらない、生徒間の雰囲気としても教養を軽視あるいは蔑視する風潮があるからである。さらに、高専の教育は短期間に多くのことをやろうとしすぎるあまり、これをこなす勉強になってしまっている。その学校の少ない割合の優秀者は放っておいても勉強するというなら、その程度の現象はそこそこの水準の学校で当然見られることである。

 そもそも、マニュアル受験勉強というが、その受験勉強さえも、工夫してやらないと、つまり、自学の意識が低いと、成功しないものである。受験勉強も高次のものになると、今日はここまで覚えたが、こういう解き方をしたが、次は、こういう方法でやってみようというプロセスがないと身につかないのである。また、その過程で本物の知に目覚める場合もあるのである。

 そして、受験勉強を経た高校生も、ちゃんとした大学に入ったら、ものすごい密度で勉強する。工学部や医学部が実習で忙しいのは有名な話である。かれらは、大学という自由の場で、やらなければ落ちるだけという場で、結局は、自学自習になるのである。彼らのうちに脱落者を見るのは大学に自由があるからである。確かに、高専は、高校と比べたら、やらなければ落ちるところまで落ちる。しかし、逆に、これさえやってくれれば落とさない、という風にもなっている。高専からの脱落者は「自由」の産物であろうか。本当は「自由」がないところに勝手に自由を感じ、そして、自由そのものを履き違えているだけではないのか。

 もう一つ見逃せない問題がある。高専の中だるみ問題である。①高専は長期5年間の在学で、②大学受験がないこと、③高専の専門技術教育重視の特殊な教育内容への適合不安も重なって、早い例になると2年生あたりから、本格的には、進学高校生が受験勉強している期間である3年生あたりから、勉強に意義を見出せず、留年・退学・自堕落・非行が目立つようになる。このことは他の章で述べることになるし、全国の高専教員の共通した悩みである。自己学習能力どころか、学習への意欲を失っているのである。筆者は思うのである。18歳で区切ってやれば、こんなことは起こらないのではないか、逆に、18歳で区切ったからといって工学教育が受けられなくなるわけではないのではないか、むしろ、区切ってあげた方が、よい教育効果を生むのではないか?

6.高専生は英語ができない
 『モデル』101頁は、高専教育の問題点を「例えば英語」で片付けている。この英語について高専生の英語力は、大学工学部に一般入試で入学した者の英語力と比較にならないほど低い。受験英語は、語彙の増加、大量の英文を高速で読む訓練、抽象度の高い英文を読みこなす訓練になるが、高専には受験がないので、ついつい、おろそかになるのである。受験勉強というのは、先の数学の例と合わせて思わぬ効用を生むものであるが(受験英語の効用については、渡部昇一平泉渉『英語教育大論争』。特に渡部は、先の数学の例同様、受験英語をはじめとする読解と文法重視の英語学習は「知」を開く働きがあるという。)、高専生のほとんどはこの効用に気づいていないか、たとえ気づいたとしても、やる動機が働かない。ある大学工学部生(高校→大学)に聞いたことがあるが、工学文献の輪講でつまるのは、ほぼ高専からの編入学者であるという(なお、応用数学演習のような基礎科学的な授業についていけないのも高専出身者が多いということである。代わりに実験などはできるそうだが、修士課程の終盤になると高校出身者-というよりも、この方が圧倒的に多いのであるがーも実践力が身についてくるため特に差はつかないそうだが、英語力や数学力は最後の最後まで差となって残るようである)。

 次に筆者なりに気づいた点を申し上げていくと、高専の英語教師の質は必ずしも低くはない。ところが、受験がないここと教養を軽視する高専生の気質が相まって、彼ら教師が独自の教室運営に走ってしまう傾向がある。例えば、「効果的なLL教室の運営」とか「特定目的(工業英語等)の英語読解」などの研究成果を、受験がないことをいいことに、試そうとする傾向がある。受験英語は少なくとも、日本という多くの国民が英語を使う必要性に乏しい国柄の国家にとって、少なくとも”読む””書く”ことの能力の基礎を作ってくれ、その基礎があってのLLなり特定目的の英語なのであるが、繰り返すが、受験がないので受験英語さえ蔑ろにされて基礎がないところに応用を組み入れようとするため、モノにならないのである。第二、英語の学力を高めるためには、家庭での学習が重要である。現在の高校生の在宅学習の多くは英語に振り向けられているという。ところが、高専は、受験がないことに加えて、高校生の同時期に専門科目側からのの時間的・心理的圧迫があって、授業時間外の予習・復習にあまり時間をさく風潮がないのである。このことをも大きいと考えられる。高専生の英語力は、平均していえば、高専5年間で、高校2年生が身につけるべき英語力に及んでいないであろう。中学生レベルで止まっていると指摘されることさえもある。受験英語あるいはこの理念に基づく英語教育さえも放棄したら、どの程度の学生が生まれるかという好例である。もちろん、古色蒼然たる受験英語には批判もあるのだが、読解・英文法、あるいはその題材としての英文学や内容あるエッセイを読むのは無駄という発想で、都合良く、TOEICTOEFLだけ得点を上げようというのは、いかにも寂しい発想で、また、効果はあがるまい。ただ、最近では、TOEICが英語力の指標にされていることもあって努力目標を立てているようである。また、一流大学ではさすがにTOEIC400点では相手にされず、そこを目指す生徒は高スコアを得る努力をしているようである。しかし、一流大学を含めて大学編入学をする者でさえ、一般入試組より、抽象度の高い英文の読解力・解釈力、語彙力、英作文等の英語力一般(筆者は、これらの能力はTOEICでは測定しきれないと考えている)が格段に劣っていると考える。

7.後期中等教育年齢における一般教育

 ところで、この「モデル」氏のことではないが、高専教員の中には、後期中等教育年齢の生徒に人文社会分野の一般教育を行うのでも、学位を持った教員が教えていることを高専教育の特質に挙げている者もいる。例えば、高校の内容を教えるのに学術的な内容を基盤にして、興味を喚起することが出来るなど、と。

 この点については、筆者の経験を述べておく。

 国語の教員は2~3名ぐらいいたと思うが、そろって文学修士であり博士課程修了者もいたはずである。それぞれ、近代文学、古文、漢文の各分野で、本数的には学者とまでは言えなくても、自校の紀要を中心に、ときには学術雑誌に、いくつか論文があったと思う。確かに、その専門分野の話を組み入れるのであるが、逆にクラスの生徒の”誰一人として”古文や漢文を読めるようならなかったことを断言しておく(後に、筆者ともう一人のクラスメンバ-のみが大学受験のため、相応に読めるようになった)。徒然草の文学的鑑賞、老子の思想等は、趣味的にお話ししてくれたが、それで終わり。他の分野も似たり寄ったりだった。Fランク大学でも、一応、担当教員は博士課程修了者であろうが、受講生はみんな居眠り。むしろ、こちらの状態に近かったのではあるまいか。

 ところが、学部卒で高校教員をしていたという、ある文系分野の担当教員の授業はオーソドックスに教科書に沿っていくのであるが、非常に面白く、筆者もその分野の本を手に取ったことがあった。クラスの人気も非常に高かったと思う。

 つまり、中等教育段階における教育は、しかるべき王道の内容について、「教室」で出来ることに「徹して」もらえばよいのである。その中で、意識の高い教員は、時に面白おかしく、時に学術的にと「知」への扉を開いてくれる。中等教育段階における一般教育というのは、そういうものなのである。

 だいたい、今時、高校教員でも、専修免状で修士号を持った者が多いのである。オーバードクターで高校教師になった者さえ珍しくない。しかるべき水準の高校では、学部卒業者であれ、修士号取得者であれ、その高校教員の授業によって、数学や物理の面白さに目覚め理学部や工学部志望になったりするのである(ただ、高等学校普通科教員にも、理科等の分野で工学部出身者がもう少し多くなって工学部志望へはずみをつけてくれればとは思う)。一般科目理系では、学位取得者による授業によって、多少の厚みを加えることが出来るかもしれないが、基本的には同じことが言えると思う。また、上述の通り、高専の一般科目理系は、カリキュラム的に意外に基盤が弱い。

 ちなみに、筆者のいた東日本地区の高専では、奇妙なことが行われていた。若い博士号をもった教員が高校生の範囲に相当する1年生基礎数学の授業をもち、修士や博士号どころか一編の学術論文もない、ただ教育実践例の小論のみが御業績というベテラン教員が工学部相当と称する3年生「応用数学」の授業を担当し続けていた(この教員は県下2番の進学校で教えていたことだけが自慢のようであった(自身も県下2番の高校卒業生か?)。50を過ぎて高校から高専に来たようだった。他の世界を知らない当の高専生さえ不満を漏らす者があったほど講義内容は薄い。散々、高専をこっ酷く批判してきた筆者であるが、県下2番(実際は学区があるから2番の集団ではない)の進学校というのは大したことがないものだと思った)。一般科目理科系の教員なら、何も一流学会誌に何本も論文を載せろとまでは言わないまでも、研究機関ではない高専においては、紀要等に学術的な内容を生涯で1ダースでもいいから書いていれば、生徒側の方も納得するものなのにそれさえもしない。高専設立50年において少なくとも35年以上こういうことが長く続けられていた。先の文系分野の元高校教員の例とは反対に、理工系専門と称する分野でこのようなバカげたことが行われていたのである。一般に高専の教員のレベルは低くはなく、現在では学位をもった者が多数を占めることは先に述べたが、歴史的にはこのようなことも多発していたのである。冒頭で述べた「学者による教育」などは実は高専の歴史において根付いてきたものではない、むしろ、高等教育としてはオカシなことが長く行われてきたことを述懐の形で述べさせて頂いた。また、筆者が専門分野の担当教員なら、文系であれ理系であれ基礎科目をちゃんと先生に習ってから上がって来いという。三文学者による趣味的な文系科目の講義などは不要である。そういう講義は、高校の内容をちゃんと固めてから受けるのであれば、何某かの益はあるだろう。

8.楽しい高専生活?

 『モデル』は、最後に、高専は「忙しい学校」であるが、クラブ活動や音楽などの趣味に楽しみを見出している者が多いという。(「ゆとり教育」問題にかこつけて)「忙しさがゆとりを生み出している」だという。このような、受験がない分、専門科目の学習が充実しているというのも、高専入学者を誘う文句になっているようである。

 まず、趣味に楽しみを見出す時間があれば、英語や数学をちゃんと勉強しろと言いたいところだ。次に、「忙しい」というが、その忙しさは、高校3年生の受験生の比ではないはずだ。さらに、クラブ活動の充実というのは、進学高校でも見られるところで、何も高専に限ったことではない。そう考えると、ちゃんとした高校生の方が、忙しく苦しくもある受験勉強の合間に、よく、クラブ活動もやっているということにならないか。さらに、大学生になったら、教養課程で中だるみが生じる場合があるにしても、少なくとも、理系では、非常に忙しい日々を送り、なお、恐ろしいのは、「自由」もあるので、退学・留年も普通に行われることである。

 筆者は何も、進学高校の連中が偉いと言いたいのではない。彼らの中には空回りした空虚なエリート意識が強いものもいて、それだけの人間なら大嫌いである。また、進学校と称する群の中には、大量の強制学習の割には大学合格率は大したことがない学校群もあってこれは軽蔑さえしている。しかし、『モデル』は、あまりにも後期中等教育普通課程及びこれにある者の姿を見ていない。今の時代、低学力者を探せばいくらでもいるが、どの時代でもちゃんとした者も大勢いるのだ。例えば、普通高校でも科学部や物理部がある。彼らは、それらが純粋に好きで、科学コンテストなどで大学生顔負けの研究発表をしたりする。京都市堀川高校のように、研究課題をもちながら京大に一般入試で大勢合格するような学校もある。高専は理系科目・専門科目を先行して学び自由時間もある割に、科学コンテスト等への入賞率が低いように見受ける。逆に、ロボットコンテストはよくやっていると評価できるが、しかし、「堀川の奇跡」はあっても「高専の奇跡」はない。そのロボット工学の分野でも一般入試を突破している者がほとんどだし、最初の大学が文系だったり例もある。

 戦前日本はすでに、世界有数の科学技術・工業技術をもっていた。トップレベルと言ってよい。アジア・有色人種では唯一とも言える。その中心的役割を担ったのは、言うまでもなく、旧帝大や私学を含む旧制大学旧制専門学校出身者であった。かれらのほとんどは、“旧制中学卒業後”に、専門科目を学び始めるか、あるいは“教養”主義的な高等学校を経てその後に専門課程に入った。また、実業学校からの入学もありえたが、そもそも実業学校に進んだ時点でその時代は選抜されたエリートであったし、入学試験はむしろ難しくなる方に作用した。そのために、ハードな受験勉強も当然突破している。彼らに対して、受験勉強ばかりしているから、戦争に負けるような工業技術しか持ち得なかったと批判ができようか(文系官僚や軍人については、その批判は当てはまるかもしれないが・・・)。

9.編入学問題

(1)最後に、高専生は、その辺の平均的な高校生やいわゆるFランク大学生よりは、マシだという意見があり、これと比較すべきだというかもしれない。しかし、(国立)大学工学部に相当する学力や地位などという、以上の論によれば虚偽の宣伝をして比較的優秀者を誘ってきたのは、当の高専側である。

 高専の設立には、戦後、旧制専門学校が大学となり、また、産業界から見て彼らの実践力が落ちているように見えたので、それに代わる学校を、との経緯があるようである(原典資料の他に、天野郁夫『日本的大学像を求めて』にもこのことは書いてある)。従って、上述の旧制大学高専の例は、そのことも考慮する必要がある。しかし、逆に言うと、このことは、旧制大学新制大学の次の第三群(これを階層とみるかは別の話として)としての高専の地位を確認していることになる。また、この第三群には、そこへの入学時を除きその後の受験的選抜が想定されていないことから、潜在能力を磨く時期が失われているし、それが高専の目的となっているということを指摘したいのである。

 ところで、高専には受験的選抜が想定されていないと述べたが、これに対しては、「編入学試験」があると言われるかもしれない。しかし、高専から大学へ編入学する際の試験は、英語や数学については、難易度の問題として、一般受験生よりハードルはかなり低い。是非、試験問題をご覧になって頂きたい。

 次に専門科目である。専門科目で受験させるということ自体が、「潜在能力」をはかっておらず、単に「到達度試験」になっている面がある。もちろん、「到達度」を評価尺度にすべきというのも理解できるが、「潜在能力」あるいは「一般的学力」の評価が甘くなってはいまいか。旧帝大や名門工業大学あたりになると、そうとは言えないかもしれないが(電気系に化学や応用物理を課す等。しかも、入学定員が非常に少ない。それでも学科によっては内申点を重視したり、極端に志望者が少なかったりして、かなり一般的な学力が低いものでも合格する例が時々ある。但し、2年次編入の東大・京大は、さすがにそうはいかないようであるが、入試科目数自体は少ない)、多くの高専から大学への編入学試験は潜在能力や一般的学力をはかる試験内容になっていないのは確かである。また、「競争的」な要素も低い。学力を競争的結果で評価することに異論を唱える教育学者もいるが、競争には、健全な競争もある。また、編入学においては非常に大きな割合で推薦入試が実施されていることは、見逃せない事実である。 たとえば、①「受験勉強したのは4年生の終わりの春休みからだった。高専の1年生の時から勉強をしていた人はいなかった」という類の述懐が高専生に見られる。一般入試を受ける平均的な受験生からすると、勉強時間がかなり短い。②「範囲が高校1年~大学2年生までになるので難易度では編入試験のほうが難しい」という類の述懐もみられるが、いかにも高専生らしい世間知らずである。なるほど、そういう建前であるが、編入学試験では、専門科目と範囲が限定された応用数学などの組み合わせの場合が多く、設問も教科書の練習問題レベルのものが多いので、高専でやった定期試験をかき集めて対策したら合格することが多い。ちなみに国語や社会はまったく試験科目になっていない。 「高専生が遊んでいるのは受験がないからです。編入試験に多くの時間を取りません」とういう例もあるのだが、本人は悪びれてはいない。

  高専生は、1年生から専門科目をやるのだから、それを突破していくだけでも大変だというかもしれない。しかし、それは違う。それは能力の問題というよりは適性の問題に過ぎない。例えば、平均以下の大学の工学部生でもそれしか道はないと考えて専門科目は突破する。また、一般の工学部受験の高校生は数学や物理で大学の範囲に及ぼうかという難易度の試験を課せられたうえ、古文さえ読めるようにしなければならず、その準備に追われる。そうであるならば彼らにこそ、その範囲で到達度試験か数学の超難問を5時間かけて解かせるなどの完全純粋な才能試験を課してくれればよいのだが、その母数に比べて機会が極めて少ない(特別入試。例えば、数学オリンピック入賞者に科目入試を課さない等)。初期の高専生では、きわめて優秀だったにもかかわらず進路の袋小路が大きな問題となった。そこで、国は高専向けに長岡豊橋の両技術科学大学を作った。そこまでは、まだよいとして、高専生の学力が落ちているにもかかわらず、一般大学への編入学措置は試験内容的にポジティブアクションが過ぎるのではあるまいか。高専からの編入学試験は、あえて言うならば、工学研究科大学院入試 に近いだろう。しかし、大学院修士修了が普通になった今日、高専生が大きなワンステップを回避しているのは間違いない。もっとも、国立難関大学でも高校生向けにセンター試験を課さないAO入試等の特典などがあり、入試の簡素化は高専だけの問題ではなさそうである。しかし、高専の場合、やや、制度にうまく乗っている面が強い。。「好きなことだけして」「お買い得」というのは、いかにも、さもしい考えである。

 高専からの編入学者はその大学で優秀な成績を治めているという指摘がされる。しかし、これは、比較的優秀である高専の中のさらに優秀層が、早くから専門科目を履修しそれに偏重しているのであるから、当たり前の話であるし、英語や数学を含めればそうとは言えない可能性が大である。むしろ、当たり前が当たり前になっていない事実の方が重要である。つまり、高専からの編入学者が、専門科目を一度やっているはずなのに学力不振に陥いる例が多くなってきているのである。例えば、あまりにも周りが勉強しない中、真面目にノートを取り続けてクラス上位、推薦を得て大学に編入したはよかったが、大学の授業に全く付いていけず、大学院にも受からず、というケースを結構聞く。かわいそうなケースは、一般入試入学者とあまりにも数学や英語の学力がかけ離れていているため、自分の方で勝手に自信を失ってクラスや研究室から孤立する、という事例さえ見聞する。上位ではない、高専ボリュームゾーンの生徒は大したことがないという評価も聞く。高専専用の技科大は学科の1番が入学していて周りもほぼ全員高専出身者であるからあまり問題にはならない。むしろ、推薦や内申重視がうまく機能しているだろう。あるいは、近時はそうではなくなっていても内部的な問題で済む。また、他の一般大学でも一握りの優秀者のみが編入学していた時代では、実際成績が良い者が多かったろうし、そうでなくても員数が少ないこともあってあまり問題にならない。しかし、これだけ、一般大学への進学者が多くなった今日では、学力不振は受験学力の否定と無関係ではないと考えられないだろうか。筆者は、序章で、高専はあまり人に知られないがために、不当に扱われていると感じた高専関係者の宣伝用の美辞麗句が一人歩きしているのではないかと言った。しかし、「高専からの編入学生は優秀」というのにも、その傾向が現れていると見ている。大学教員側に申し上げておくと、自校の大部分を占める一般入試突破者(彼らもこの大学に入って工学の勉強がしたいと努力し、念願かなって入学してきたのだ)に、最低限センター試験を課すぐらいは当然として選抜方法の工夫や、大学での勉強の心がけを説くことや、工夫した教育を行わず、その責任を棚に上げて、以上のような性質をもつ高専出身者を重宝して見せるのは、どうであろうか。学生は実験助手ではないのだ。まっさらな人間を伸ばしてやることこそ大学教育だろう。もちろん大学教員には、高専生の解析力や語学力不足、資質・物の考え方を、問題にしている者も多いだろうし、筆者も直にそのような声を聞いたことがある。高専からの編入学は、受け入れ当初は、受け入れ大学も少なく、試験内容、入学枠的に厳しかった、厳しすぎたという。逆にこの厳しさを突破してこそ、選りすぐりが育っていった。山梨大学工学部あたりが高専生を受け入れたと聞く。確かに、ここには、極めて強い向学心をもって入学し非常に優れた卒業生を生んでいるようである。しかし、はっきり言って、今の編入学は、一部の大学を除いてかなり緩くなっている。

高専生の学力については、私が見た生徒についての実感や印象をもとにしている。また、筆者は一般入試の勉強をして大学に入った後に、高専生はどんな試験を受けるのであろうかと振り返って編入学試験も数多くチェックしてみたりした。筆者の見聞に基づく以上のような評価があながち間違っていないのではないかと考え始めたのは、教員側であられたI博士の見解(HP。筆者の過激な高専批判とI博士の洞察と建設的な意見・提案が混同されては同氏に失礼と判断しお名前を伏してある)に触れたからである。もちろん、抜群の成績を得ている者がいることは認めるし、この者たちの資質にはしかるべきものがあろう。しかし、これが高専教育の成果かと問われれば非常に疑問が残る。本人および指導する高専教員の個人的な資質による成果というなら認めるが・・

 また、日本の大学入試に問題がない、なかったという気はない。この点は、ところどころで言及してある。

(2)ただ、この編入学については、留保事項がある。

 まず、数パーセントの高専”最”優秀層にとっては、英語や数学でハードルが下がっていることが失礼な結果になっている面があるということである。教養問題の章でも述べたとおり、この高専最優秀層はもっと英語や数学を鍛えられてよいし、鍛えれば出来る。逆に言うと、本来の学力水準からしても相応の水準の大学に入っている、つまり、過度のポジティブアクションは働いていないのであるが、しかし、英語力や数学力さらにはその他の人文社会科学分野の能力の涵養プロセスが省かれているというそのプロセスに問題があるわけである。もっとも、当の高専生がそれでよいと納得しているのであれば、彼らは、確かに優れた専門的学力の持ち主には違いないのであるが、真の意味で「優秀」などとは断じて思わない。

 次に、短期大学からの編入学よりはまだマシという点である。つまり、短期大学では、科目数や内容面でのポジティブアクションの度合いが、高専よりも遥かに強く・露骨に働いている。学士入学者またその水準にある人にとっては適切な試験内容でも、そもそもの学力水準が非常に低い短期大学出身者が当たりに当たって入学しているケースがある。

10.進学高専?の怪

 I博士のように、高専の問題性を喝破しつつ、高専を選んでしまった学生のためには編入学でもさせるしかないというのであれば、まだ理解できる。

 ところが、私は驚いたのだが、最近は「進学高専」という言葉もあるそうである。そこでは進学校ばりに補習を行って進学者数を競うそうである。そもそもその言葉は、言語的用法からして完全に誤っている。その矛盾は他の箇所で触れることになろう。ただ、ここでは、「大学進学したけりゃ高校へ行け!もっとまっとうな努力をせよ!」とだけ言っておく。ちなみに、ここで散々問題にしてきた『モデル』氏は、俗に進学高専と呼ばれる高専に所属している。

 

 

 

 

 

第2章-高専教育の教養軽視と教養蔑視(2)2つの書物から-

最後に、2つの新書から、引用させていただきたい。

 

「単純な種類の無知に対処する技術は職人的な専門技術の教授と呼ばれた。これにたいして『大きくて厄介な』種類の無知に対処する技術には、教育・教養((Paideia)という呼び方がほとんど全ギリシア人の間に普通に用い入れられてる」(廣川洋一『ギリシア人の教育―教養とはなにかー』69頁)

 

「農村出身者の子弟は都市でギルドやツンフト(手工業組合)の職人になる可能性があったし、大学に進学し、法律家や官僚、司祭になる可能性も生まれていた。このような可能性が開かれたとき、はじめて人は『いかに生きるか』という問いに直面したのである・・・これが『教養』の始まりであった」(阿部謹也『「教養」とは何か』53頁)

 

 教養とは、ある時点における教育課程ではなく、生涯を通じて醸成していくものである。また、教養一般については、ちゃんと人間として仕事をする中で醸成されていくとも言える。特に、阿部謹也によれば、農夫も「人生に向かう姿勢」としての「集団の教養」を有しているという。筆者が、高専及び高専の学生の教養軽視を批判して言う際に、〝高等教育としては゛、゛専門科目に比べて゛、゛可能性を閉じている意味において゛という趣旨の限定をつけたのは、その点に留保をつけるためであった。しかし、この限定された意味であっても、その教養軽視が、「構造的」「意図的」(ある意味ではそのように仕向けられている)、「比較的」(大学並と称しているが、大学と比べて高校や大学教養の内容が省かれている)、「欺瞞的」(以上のことにあえて気付かせない)、「段階性」(専門教育導入割合が早く大きすぎるのではないか)という知性と教育のあり方そのものに関わることを背景に、しかも、これが制度化されているということも、極めて重要なことであって、以上の二つ書物を引用した次第である。農夫ならまだよいが、高専の専門技術偏重教育は、可能性のある人間の人生に向かう姿勢さえもイビツにしているのではないかと、危惧しているのでる。

 ところで、この章の表題には「蔑視」という言葉が入っている。確かに軽視されているが、蔑視などしていないという反論も聞かれそうそうである。なるほど、学校そのものはそう反論するかも知れない。ところが、以上のような「構造性」や「欺瞞性」が、今度は、生徒の方にも跳ね返って、高専の生徒の多くが教養を蔑視するようになってはいまいか。生徒の気質や学校の雰囲気については、次章以下で触れていくことになる。高専生に「教養がない」とされるのは、教授する内容面だけが原因ではないのである。

 

  付言しておく。高専にも、問題意識の高い、優れた一般科目担当教員がいるのは、筆者も認めるのである。そして、教員の良心として、小さいながらも教養教育を充実させようとするのもわかるのであるが、私が出会った最も素直な教員は、「この学校では一般教育が非常に軽んじられているから、これが受け入れられない人は、3年でやめて大学受験しなさい」という者があった。

 ところで、高専一般科目担当教員には、

 ①大学教養課程担当者型

 大学一般教養担当者は、不当にも低く扱われてきた。その中にあって、しかるべき教養教育を実践した者もあったが、できれば専門学部に移りたいと願う者も多かった。高専の教養教育の組織基盤は極めて貧弱か無きに等しいが、高専一般教養科目担当者には、例えば大学院修了後あるいは助手・助教の任期を終えた後に直ちに高専に赴任するなどしたため、この類型にあてはまる者もいる。  

 ②工業高校教諭型

 教育者の義務として、職業教育を受ける者にも、最低限これだけは身につけさせうと努力するタイプ。なお、実際の高校教員は進学校にも職業高校にも異動するから、①の人たちとは異なり結構ドライにこれが出来る。実際、生徒指導の問題もあって、高専の一般科目担当者には高校教諭出身者もかなりの比率を占める

 ③ゲスト型

 高専という学校があるらしいが、高校教員生活の中盤あるいは最後を迎えて、次は、「国立」の「教授」の肩書きも悪くはない。非常勤で大学で講義もできるし、好きな研究もできる。

 に分けられると思う。高専一般科目担当教員は、ある意味では高専の矛盾に気づいてそれを文章にできる人たちである(初期高専生を別格として、若年生徒はまだ文章にできるに至っていない)。しかし、そうと知って、高専教育を肯定・礼賛する人たちを私は絶対に許さない。こんな教育実践例があるという主張も、私にはまったく響かない。むしろ、冒頭のような、本音を語り、ある意味では差別的な教員にも一部の理があると思う。ところで、こんなくだらない類型を持ち出した理由は、実は上記の②の人たちが高専教育の矛盾に気づくパターンが多いからである。不思議なことに学者の端くれである①の人たちの方が、「ユニーク」などと言って面白がっている場合が多い。面白がっているということは、逆に距離を置いて達観しているとも言えよう。序章で挙げた外部出身校長もこの類型に入るだろう。決して高専は「面白い」存在ではないことは、次章以下でも述べていくことになる。ちなみ、この①の類型の人たちの中には、面白がったまま、大学に口があればさっさと転出していく人も多い。

第1章-高専教育の教養軽視と教養蔑視(1)ー

1.教養軽視の構造問題

 高専の学生は、専門科目に比べて教養がなさすぎる(あるいは、端的に教養がない、教養がなさすぎる)と言われる。

(1)第一に、それは、当然の帰結である。そもそも学校の設立趣旨が、短期で大学工学部並みの工学の学力を身につけさせるためと称して、大学の一般教養教育はもちろんのこと、高校でやる程度の一般教育をも大幅に省くというものであるからである。

 大学工学部並みの「工学科目」を修業年限を2年も短くして、取りそろえようとしたら、どうしても大学教養課程を省くことになるし、高校レベルの一般教育も圧縮・軽視されることになる。現に、カリキュラムがそのようになっているから、これは弁明のしようがない。

(2)第二に、それは、目的でもある。この世のシステムとはどのようなものか、社会の行く末はどうなるのか、・・・そのようなことを考えるための基礎としての教養などは、彼らには必要ない。中堅・下級技術者には、黙々と働いてくれさえすればよいのである。これは、学歴主義的な人員配置をする大企業産業界の要請であった。筆者はこのような産業界の要請を悪いことであるとか、陰謀などというつもりはない。指導者層は、自分たちを含む少数の者には徹底した教養教育が必要だが、多くの民衆は職業学校などで手に職をつけて堅実に生きていければよいという発想をする。しかし、仮にそうであっても(実は、筆者もそう思わないでもないが・・・)、後者の層に、本来ならしかるべき水準の教養教育と高度専門教育を受けるべき層が巻き込まれてしまう、あるいはこれが固定化してしまう、さらには、厚い教養教育を受ける層が極端に少ないというのであれば、それは非常に問題である(アメリカで、州立大学は役に立つことだけをやれと言っている人が、実は教養主義的な一流大学出身者である例を挙げているものとして、アキ・ロバーツ、竹内洋『アメリカの大学の裏側』217頁)

 学校教育法上の高専について、次のような指摘があり、筆者も、学校教育法をよく読んでみた。学校教育法における「大学」の目的規定には「知的」「道徳的」なる言葉が存在する。ところが、高専の目的規定には、これが欠落している。それどころか、さらに学校教育法をよく読んでみると、高校の教育目標においてさえ「一般的な教養を高め」とあるのに、高専にはこれさえもない。なるほど、法律上、高専は、6-3-3-4制の枠外の特殊の教育機関であり、中学校卒業後は「知的」「道徳的」「一般的な教養を高める」ことは期待せず、職業教育を受容せよというわけだ。実際、一定水準以上の高校生なら、自分が何者かになろうとするとき、はたしてこれが正しいのか、を青年なりに逡巡しながら、進路を決定していく(後述するように、ドイツでは10歳でコースが分かれるが、ドイツでは厳密慎重な成績評価と社会意識の分断が基本にあることを忘れてはならない)。時には抽象的な思考を発達させていく。おそらく哲学・倫理や歴史の勉強は、長い目で見れば、この解を得るきっかけになるであろう。否、解などなくてもよいのだ。ところが、高専の場合、一定水準以上の生徒が青年なら青年なりの人生についての答えを得ようとするときには、進路は既に20歳という成人に至るまで規定されている。解は明確なものとして、解を得るプロセスなどお構いなしに、目に見える形で舗装されているのだ。青年としての逡巡は許されず、退学か3年ならまだしも5年も耐え忍ばなければならない。教養科目は、何事からも自由になれる自由学芸である。高専には、学校の理念としても、科目編成にしても、その存立基盤がない。自由学芸の可能性のある高校程度の一般教育科目文系は、入学後2年未満で時間単位数でいうと全く「処理」されているに等しい状態にある。数学でさえも、専門科目に間に合わせるために、速習圧縮されているのだ。

 もっとも、高専側からは、中学卒業時の選択が誤っていたのだという「自己責任」論をもって反論がなされるだろう。しかし、敢えて言う。誤りを犯したくなければ、高専を選択するな、と。

(3)筆者は何も、大学の教養部や教養課程に問題がないと言いたいのではない。旧制高等学校→大学教養部→教養部解体による①教員の大学学部・研究科分属、②学部化・大学院化、③大学教育センター設置の過程の中で、本当に「教養とは何か」「教養教育がいかにあるべきか」が問われたかといえば、かなり怪しい(加藤博和『大学・教養部の解体的終焉―新制九州大学のなかの教養部の足跡』などを参照)。また、当の大学生側も、教養課程を「パンキョー」等と呼び、かなり侮蔑した感情さえも持ってきた。堂々たる名門大学出身者、大企業役員、官僚の本棚が、文芸書と経営指南書や狭い分野の専門書と、せいぜい人気歴史作家の小説のみということも珍しくない。アメリカのリベラルアーツカレッジやヨーローッパ・ドイツの「ギムナジウム」と「孤独と自由」の場としての大学の存在理由に比べれば、日本の新制大学教養教育はやや貧弱な可能性がある。

 しかし、高専にいたっては、繰り返すが、冒頭で述べた設立趣旨や存在形式からして、教養教育の基盤そのものが存在しない、または、形式のみが小さく整っていているとしか言いようがない状態なのだ。基盤のないところに、理念も、解体も、あるいは、リコンストラクションへの変遷さえもあろうはずがない。一言で言えば、高専教育の基盤とは「短期間に、高校程度の一般科目さえ削りに削って、専門科目を増やして、その専門科目もスグに役立ちそうなことをやる」というそれだけである。なるほど、一般科目担当教員もおり、彼らのうち一部の意識の高い者のみが小さな努力をする場合もあるが、高専学生の気質の方が、それこそ高専教育に染まっており、この小さな努力はほぼ徒労に終わる。これが「優秀者」が学ぶべきシステムなのであろうか?

2.教養軽視の程度問題

 「教養とは何か」ということは、難しい問題であるので、ここでは、安直な定義を避ける(さしあたり、廣川洋一『ギリシア人の教育-教養とはなにか』(岩波新書)等を読んで考えてみるのがいいだろう)。また、世の中の人間の全てが高等教育を受けているわけではない。そして、全ての人間に教養課程が必要とは言えないし、そのような課程を経ていなくても、立派に生活を成りたせている人間は無数にいる。これは美徳でさえある。

 ところが、あらゆる高等教育専門科目は、数学、語学、哲学、論理学等の基礎学問の上に成り立つものである。従って、高等教育専門課程に学ぼうという者は、一定水準以上の教養教育を経ているはずである。高専もそういう建前を低い水準では維持している。しかし、ここで言いたいことは、たとえ高専側から教養教育が「程度問題」だとの反論がなされても、この程度問題こと重要だと反駁しなければならないということなのだ。第一に、同じ学力のAとBがいる。AとBに同じ水準の専門学力を身につけさせようというとき、Bには、古典も英文学を読めるだけの語学も高度の数学や物理学の探求も、相応でよい、場合によっては必要ない、と宣言された時のその青年の心理に与える影響を考えたまえ。そして、A郡とB郡の比率が9対1だったときの、比率1側の青年の心理を考えたまえ。何事にも即物的なものの考え方に偏るか、バカにされたと憤るか、のいずれかである。そもそも、AとBの学力水準が異なっており、A郡がB郡より学力が高ければ問題は少ないだろうし、むしろ好ましい場合もある(大学工学部の教育と工業高校の教育)。ところが、高専側の考えは、しかるべき水準以上の大学工学部の工学科目の教育内容に耐えうる生徒(同じ学力水準のAとB)を想定し、これを、自校に誘い続けてきたのである。おまえはAにもなりうるが、Bでもよい、というのだ。第二に、専門能力は高次になればなるほど、抽象的思考訓練が必要である。抽象的思考訓練の深度=程度は、より高次の専門学力を目指す者に重要な要素なのだ。物理学への深い理解、量子力学の理解なしに、現在の電子工学が“深く”理解できるだろうか、“深く”理解しようとする科学的態度が生まれるであろうか・・・などというのは一例に過ぎない。高度の抽象的な英語を読み込む訓練が出来ていない者は、高度の電子工学の論文を読みこなすことはできない・・・。基本に立ち返り、時に他の学問分野からの接近を試みるなどして、深く、そして自由に理解することは、そして、次の応用的展開を生み出す原動力になる。この抽象的訓練の程度が低く、むしろ、「実践的」の美名のもとにこれを軽視する教育に、教育程度をして大学工学部相当等の標語を掲げること自体が論理矛盾である。もっとも抽象的思考も度を過ぎると害になるが、高専教育は、度を越して、即物的なのである。第三に、時間軸で考えた程度問題、つまり、“早期”に抽象的思考訓練を軽視することは、上記の傾向をより顕著なものとするのは言うまでもない。そもそも、その人間の知的態度は、知的世界への入り口でにおいてかなり影響される。学校に入学していきなり、歴史の授業が少ない、古典は学習しないに等しい、数学や物理は超特急で表面をなぞっていき演習さえもない、となれば、学ぶ者にこれを軽侮する知的態度が現れるのは当たり前ではないか。また、ある理系の素養がある人間が、その勉学次第で、工学にも理学にも、医学も、接近しうる「可能性」があるのとないとでは、大違いである。例えば、高校2年生で数学や物理を履修する。物理学や数学は、工学の導入科目としてだけでなく、その学問そのものの探求、他の学問分野の基礎になり得るものとして学習することは、その後の、知的発達に全く異なる影響をもたらすのは当たり前ではないか。

3.教養軽視の段階問題

 いわゆる専修学校普通科高校理系コースから進学する場合でも、一般科目を、十分に履修している。但し、大学教養課程はないが、専修学校は自らの学校を、「大学相当」等と欺瞞的な説明はしない。工業高校は高等教育ではない。工業高校から専修学校に進学する場合は、半分以上の期間は高等教育ではない。そして、高校普通科理系コースから専修学校に進学する者は、自身の学力水準に納得して進学しているはずである。納得できなれば大学受験を続ければよい、という自由がある。

 高専とは一体何のか。高等教育を標榜する学校が、それより下位の(と高専側は思っている)専修学校生徒よりも、一般科目が削られているという事実を何と捉えるか。はたして、このようなコースに成績優秀者が学ぶべきなのか。学んでいるとしたら、なにがしかの欺瞞があるのではないか。次に、たとえ高専進学が生徒自身の間違いだったとして、間違いを正す精神的な自由を認めているであろうか。私は私も含めて、複数以上の生徒、複数以上の出身者に、聞いたことがある。3年修了時に(退学を条件として)大学受験をしたいと申し出た生徒に対する高専側の対応は、彼らをドロップアウトとみなし、就職なんかないぞ!大学受験など無駄だ!大学に受かるはずがない!などの冷淡な態度であるという。これは、高専3年時では既に担任が工学専門科目担当教員に移っていることも関係しているが、よく高専の体質を表している事実というべきであろう。狭い世界で自分たちの特殊な教育を礼賛し続けて、大学等へ異動することもそう多くはない高専教員たちが、自ずからそうなることは当然と言えば当然であるが・・・。また、当の高専生も、一般入試の大学受験などは念頭にないので、教員と同様の態度を示すことが多い。

 自分は、その能力に応じて、いかほどにも成り得る、逆に、成りえない、という精神における自由-高専に入学するのも高専を退学するのは自由だから、その意味では高専にも自由がある。しかし、ここで言いたいのは飽くまで、精神における自由である-こそが、自由学芸を学ぶ基盤になるということなのだ。日本の95%以上の18歳生徒に、能力に応じて担保されている、この自由が、高専にはない。

 高専の生徒の水準が今より、格段に高かった設立当初、彼らは、以上の構造に気づいていた。いわゆる高専闘争は、極めて学力水準が高い自分たちが受けている教育をして「職工教育」「企業迎合教育」と批判したのであった。この高専闘争に対して、学校・国側は、いわゆる大学工学部への編入学という「袋小路」問題の解決で応じた。しかし、(比較的)優秀者に、“どの段階”で、どの程度、どういう内容の教育を授けるかという問題を無視した教育制度である高専制度は、それが残る限り、教養教育問題を内包し続けていく・・・、欠陥教育として存在し続けていく・・・それだけならまだしも、犠牲者を量産し続けていくのである。

高専問題ー序章-

 

1.はじめに

  高等専門学校高専)という学校がある。

 設立当初から問題の多かったこの学校制度だが、今日に至ってもなお、構造的な問題は残ったままである。そして、その問題性は今後も有効に解決されることはない。なぜならば、その問題性とは、この学校制度に「内在する」、言い換えれば、この制度が、少なくともそのまま存在する限り回避できないものだからだ。したがって、高専という学校制度は、政策的に解体し再出発しなければ、今後もなお犠牲者が増えるだけという厳しい現実が待つだけの存在といってよいと思う。

 高専という学校制度の問題性は、その出身者や問題意識の高い高専教員のうちごく一部、教育関係者の一部から、小さく目立たないながらも厳しく問い続けられている。ある経済学者(高専中退者)は、日本の労働慣行の歴史・実態調査を行い、その学校制度の存在の矛盾と出身者の処遇が高専側の思惑や宣伝と異なり大卒未満に過ぎないことを学術書で論じた。同じく中退者であり大学受験をし直した者は、高専という学校およびそこの生徒の教養軽視の風潮を、実体験をもとに描いて見せた。ある若い卒業生は、現在の高専出身者の仕事内容や賃金が高卒並みであることを暴露した。

 高専という学校制度がマイナーでありその実態について万人の関心が薄いため、これを紹介したり入学者を誘おうというときの美辞麗句が一人歩きしてしまう傾向がある。また、特殊な学校制度であるため、教育関係者や教育学者さらには外部出身校長(ほとんどが国立大学工学部教授出身の外部出身者である)等が「面白がって」理解し、逆に、その背景にあるものを見逃してしまっているケースもある。また、この学校の教員の少なからざる割合の者が、狭い特殊な世界にあって”世間と自分たちの常識を照らし合わせてみる″努力を怠っている。逆に、その環境にあって自分たちの問題として優れた見解を示される方も多いのだが・・・これは結構勇気がいることである。大きな重要な制度の問題なら、思想の自由市場的な淘汰によって、正しくかつ多数者を納得させる意見が残ることも多いであろう。しかし、マイナーだが問題のある制度というのは、見過ごされてしまうか、狭い範囲でしか通用しない正当化論理が化石のごとく生き残ることになる。

 高専制度についての美辞麗句で固められた論評の多くが以上のような性質のものであることをお分かり頂くだけでも、多少の意味があると思う。そして、これから述べる程度のことは、実は、関係者が論文などで問題にしてきた(高専高専学会の紀要等を参照されればよい。高専の設立経緯と論点については、天野郁夫『日本的大学像を求めて』が正確な理解をしている)。ただ、一応は高専に関わったことのある者として、分析的な視点と実感として感じてきたことと擦り合わせながら、しかも、これをネット社会においてネット上で述べておくことは、多少なりとも意味があると思う。繰り返すが、高専制度がマイナーな制度であるため、その議論も、狭い範囲の者でしか論じられないからである。また、マイナーであるがゆえに無用の同情を買い、勝手な宣伝がまかり通り続けることも許されないのであるが、この学校の入試倍率が下がる度ごとに、このような宣伝が定期爆撃的に行われる傾向がある。

  関係者や教育制度論者にとっては周知のことだが、高専教育には以下のような問題点がある。一般の人はこれを念頭に読まれるがいいと思う。高専は、中学卒業後、5年間で大学工学部の専門的学力を身に着けさせようとする。また、内容的には実験実習を比較的多く取り入れている。しかも、そのカリキュラムは入学当初は一般教育を割合的に多くし、楔形に専門科目や実習を組み込でいくが、

(1)15歳という早期に専門を決め、しかもこれが20歳まで続く課程になっているため、専門科目に不適合を起こす者が少なからず存在する。

(2)5年間という大学より2年短い期間に多くのことをやろうとするため、特に一般科目の時間と内容が疎かになる。

(3)以上のような教育内容にもかかわらず、高専が入学者を誘う宣伝文句は、かつては露骨に「大学工学部と待遇が同等」、現在ではやや表現を変えて「大学工学部と同程度の専門的学力」である。こうした表現に魅力的に感じた、特に経済力が高くない家庭の中学生は、高専では、大学より2年短い期間で大学工学部程度の内容が学べ、大企業に行けて、大学卒と同等と扱われる、と信じて入学する者も多い。

(4)以上の大卒相当の言葉とは裏腹に、編入学で大学にも行けます、とし、これを宣伝する傾向も大きくなっている。

 もちろん評価されている点もあり、例えば、企業側から見て「大卒に比べても専門的学力も遜色ない」「実践力があり、即戦力として使える」「素直だ」など、生徒側からみて「大学受験がないのでじっくり学べる」等であり、高専生の就職率も高い。こうした面は高専の入学者向けパンフレットでも見てもらえばよいだろう。ただし、筆者の意図は、これら評価されている項目の背後にあるものを、一般の関心のある人にわかるように分析的に説明しつつ、かつ、美辞麗句を並び立てる多くの高専関係者に対して批判を向けるものである。従って、高専の問題点のみをあげつらっているのように見えるだろうが、その理由はで既に述べたとおり、宣伝用の美辞麗句の方こそが問題だからである。また、高専関係者には周知のことを偉そうに言っているように見えるかもしれない。しかし、筆者の批判は、高専の紀要等と違って遠慮がない。言うまでもなく、ネットにおける匿名性を利用しているからである。

2.先ずは、俗説を拝す 

 高専について詳しく論じる前に、高専関係者には、以上のような高専の特質に関連させ、あるいは、補足して、以下のようなことをいう人が多い。これらについて、先ずは端緒的にコメントしておきたい。
①「大学入試がないので充実して学べる。大学一般入試への挑戦はほぼ無理」
 大学入試がないので、概して、英語や数学などの一般的学力が低い。その他の一般科目はそもそも時間数が圧倒的に足りないので、エッて言うようなことを知らなかったりする。大学入試についても、やりもしないで、無理と決めつける。非常に不利なのは間違いない。しかし、高専出身者でも腹をくくって挑戦すれば意外に突破できるし、突破してきた者も多い。英語などやるべきことをやっていないのである。
②「貧しい家庭の子でも行ける。成績が良ければ、授業料免除がある」
 貧しければ、一般教養を軽視した教育でよいとでも言うのであろうか。一流大学にも貧しい家庭の出身者は一定数いる。むしろ、彼らの方が、入試にしろ大学入学後の生活にせよ、不安に打ち勝っている。貧しい家庭の出身者がわずかに師範学校に行くルートがあるが如き、戦前の極端に高等教育の門が閉じられている時代ではないのである。奨学金や各種の援助、あるいは高等教育の無償化の動き(これ自体には、筆者は疑問があるが)もあり、優秀ながらも貧しい家庭の出身者が高専に行く必然性はなくなっている。
③「高専は自立して自分から行動できる人が行く学校で、高校生は、まだ進路を決めていない受身の人が行く学校である」
 受験勉強は受身では身につかない。高校生でもクラブ活動や科学コンテストに参加する。そして、学習能力に乏しい三流大学の学生には自立心のない人間が大勢いるかもしれないが、ちゃんとした高校生も大学生になったら自分で行動するし自立心が芽生える。実は、高専生の方こそ比較的成績が優秀な層を集めているにも関わらず「自立心が乏しい」と広く論評されている。高専には「あなた方は学生です」イデオロギーが存在するが、実際は、全く逆に作用している。
④「教養がないなどと言われるが、そもそも教養は自分で身に付けるもの」
 学校教育における一般教育・教養教育を軽視しているのが、高専である。一方で厚い普通教育・教養教育を受ける層が存在するのに、そういう教養軽視のシステムに優秀層を誘っていいのか。自分で身につけるというが、自分で身につけていないから、教養がないと揶揄されるのである。
⑤「学歴的には低いが、学歴社会は終わっているし、学歴で人間性を判断できない」
 学歴で“人間性”を判断するのが、学歴主義ではない。日本の企業には厳として学歴主義が存在するし、欧米などでは、むしろ、能力と学歴がリンクしている(アイビーリーグの存在や、知的職業で修士号や博士号を要求するなど)。欧米を含めもっと厳格な学歴社会の国は数多い。
⑥「出世や給与は大卒より恵まれないことも多いが、就職先がいい」
 就職「先」さえよければ、自分の評価などどうでもいいのであろうか。世の大卒には企業の規模に関係なく、やりたいことができる会社を選ぶものも多い。就職先がいいのは、学校推薦のようなルートがないにしても、平均的な国立大学や中堅上位以上の私立大学でも同じである。
⑦「女子が少ないが、女子がいない一流進学男子校もある」
 男子校で進学校は、勉強で縛るし教師の権威を保っていることが多い。高専は男子で5年続くから退廃的になり、講堂の集会で騒いだりすることさえ見られる。
⑧「より学びたければ大学編入すればよい。大学編入後に違う目で見られることもないし、編入試験も難しい」
 確かに、大学工学部の研究室は色んな人が出入りするから、変な目で見ている人などは殆どいない。普通に付き合って行けるだろうとは思う。しかし、その大学での出会いは1年生のときにはじまるので、一歩遅れる。一般教養時代の自由も謳歌できない(遊ぶ自由ではない。いろんな専門分の人に出会い、哲学書や物理学の専門書にじっくり取り組めるのも教養時代である。高専の一見自由はは真の自由ではない。制度的にも自治権がない)。入試面でも、一部の大学を除き特に一般入試を受けるものより科目数や語学等の面でハードルが低いのは間違いない。(一部の優秀な)高専出身者の本来の学力からすれば、ハードルが下げられていることを憤ってもいいくらいである。ちなみに、大学理工系への編入学者の増加は⑤や⑥の言動と矛盾する。
⑨「編入後に成績がよい」
 編入学者がかつてより劇的に増えたので、実際は、上位層と下位層に分かれているというのが現実である。下位層は当然、留年比率が高まる。一体何をしているのか。専門科目を早くからやっているから専門分野の能力が高くなるというのは、一時的にはそうだが、長い目で見れば間違いである。
⑩「専門分野でなら大学工学部に相当する」
 成績優秀な中学生を誘って、有無を言わせず専門科目を教え込んだら、そういう人間が生まれる、あるいは、これに馴染まない者は排除されるという、それだけ。逆に、そこそこやり過ごす生徒も多い((国立)大学工学部には程遠い)。ある人の言を借りると、”そういう教育機関であるというだけで、スゴイのでも何でもない”。けだし、名言である。
 大学工学部というなら、最初から大学工学部へ行きなさい。
 この点も⑤や⑥と矛盾する。
⑪「他の専門分野でも高専を作り広げればよい」
 中退率の高さは高専制度に内在するものである。これが増えるだけである。また、他の分野の教育体系や産業構造などへの視野の広さを持っていないから、こんなことを平気で言い出す。
⑫「みんながみんな大学へ行く必要はない。優秀層のみ大学へ行けばよい。ここで、高専に意義がある」
 これは、高専関係者ではなく、教育制度になんなかの複線化をもたらしたい政治家や教育学者が言いがちのことである。しかし、高専制度は一見してわが国唯一の複線型学校にも見えるが、実は、逆にそのような複線化とは反対の作用または”ねじれ”をもっていた。
 つまり、当の高専は、自分たちを能力に応じて複線化されたルートの学校ではなく、大学並みと称して、そして宣伝して、中学生を集めてきたのである。その中学生の中には普通に高校から国立大学工学部へ進める層を多く含んでいるのだが、彼らが高専卒で就職した場合の職種や待遇については通常は大卒と異なっており、能力的に損をしている(もっとも近時は、いわゆる二山化・二極化が起こっており、学力の低い者もかなり含まれている)。また、最近は大学工学部への編入学を目玉にしているどころか、こちらの方がお得かのような宣伝も行っている。
 能力に「応じた」複線化ではなく、かつ、結局は大学進学機能に重点を置きつつあるので、単線型ルートと差別化されているとはいい難い状況にあるわけである(いやいや、高専は大学の研究者ではなく高度技術者や中堅技術者の養成の教育機関として意義があるなどという人もあるが-そんなことを言っているのは高専関係者の中にのさらに一部であるに過ぎないのだがー高度技術者養成は研究者養成と両輪で大学が中心的役割を担ってきたおり、実態と異なる。中堅技術者の「中堅」についても同様の”言葉遊び”をしてきた歴史がある。逆に高専から大学の研究者が生まれたりでもすれば、ハシャいで自慢したりする。
 そして、国や政治家に一言申し上げておくと、大学をどんどん増設し大学進学率5割を超えさせておいて、高専1人(高専に進学するのは同学年の1%)複線化させるのは矛盾している。大学や大学進学率を増加させておいて、いまさら多くの人は大学に行く必要はない(中学卒業したら多くは高専みたいな学校に行けばよい)とは恐れ入る。政治家憂国の士よ、国を想うてこそ、そのような矛盾の言は謹んでもらいたい。ちなみに職業高校は3年制で特殊ルートではないから、高専のような複線化に伴う問題(早期から始めて”長期”に”特定”専門分野に縛り付けることのデメリット、中だるみで素行に問題がある生徒も多い等、この点については次章以下を読んだら、その意味はわかるであろう。)はあまり起こらない。
 以上のような言説のウラに何があるのか、何が問題なのか、筆者のコメントがどう理由付けられるのかという視点も持っていただければと思う。

 

 

 

 文献は、章ごとに全タイトルを掲げた。したがって、章をまたがる文献については、ある章で使った文献が、次の章でも出てくる場合、かかる次の章では同じ文献のタイトルを再度掲げてある。この引用方針が不適切な部分は順次更新していく。

 

 

 

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