第8章ー単純な論理、そして骨太の試案ー

1.単純な論理

 そもそも、高専設立当初から「大学並み、大学相当」「中堅技術者」などという宣伝を行わず、①“中等教育”の延長した5年制の工業高校としその内容も「中級」としてくれるか、②(職業)高校+短期大学工業科又は新設の専門職業大学に明確に位置づけ、その体系の中で、高校教育内容を侵さない程度の専門科目前倒しと体系化を行うか、もあるいは③最初から高専など作らなけらば、優秀者を誘ったことが問題の端緒となった高専問題は無くなったか少なくとも緩和されたであろう。中堅技術者や実践的技術者は、現在では、学力がやや落ちる程度の大学工学部の学部卒で間に合う。幸い、日本にはそういう大学工学部がたくさん存在するところ、企業が学歴主義的な人員配置を「学校」歴主義的に強化するだけでいいのであるし、現在この傾向がないと言い切れるだろうか?

 敢えてここで繰り返しておきたい。

 大学卒と変わらぬというなら、最初から大学に行けばよいことではないか!

 大卒並と称しているのに、高校大学よりもはるかに一般科目が軽んじられているのも 矛盾する!もっとも一般科目を重視したら高専ではなくなるが・・・。 

 高専制度という学校制度の複線化と、高専の進学率増加も、矛盾する!世の中の大学進学率増加(5割以上)とわずか1パーセントの割合しかいない特殊な高専生の存在も矛盾する!

 高専の早期一貫専門教育から輩出される程度の人材は、普通に高校から大学に進んだ人たちにも当たり前に、しかも当の昔から、存在する。研究開発職はもちろんのこと、例えば、地方国立大学や中堅私大理工系は「大卒技師」として生産ラインにも張り付いたりもした。この地方国立大学工学部に入るための受験勉強に押しつぶされた人材がいるとしても、同程度以上に高専教育に押しつぶされた人材も多い!

   高専を職業教育機関として評価する人間は、高専制度の設立当初からの矛盾に気づきながら目をつぶっている。高専が一見成功しているかのように見えるのは、この制度に「中堅」や「大学並み」という標語で優秀層をさそってきたからである。そして、気を付けなければならないのは、大企業現業職や中堅職は全体の就職希望者の多くを満たせるほど多いのものではないということである。高専あるいは工業高校を2倍にしたら大企業に行ける者が2倍に増えるわけではないのである。

〝すばらしい゛高専に何故「2割」の退学者が出たり卒業時に同期の「3割」いなくなるのか。異常な数字である。大企業への就職チャンスとはうって変わり、高専を2倍にしたら退学者が2倍になるだけである。

 職業教育特化というならば、そういうメッセージを出しつつ、そういう選択をすることに柔軟性がなければならない。なぜ兎にも角にも「中卒後」にこだわるのか。 

 何をどうしても矛盾するのである。しかし、あえて高専制度をどうするかということになった場合に、次のような見解が示されている。

2.骨太の試案

 I博士は、自身のホームページ上に「高専の改造計画」を発表しておられる(筆者の過激な高専批判とI博士の建設的な意見・提案が混同されては同氏に失礼と判断しお名前を伏してある。いうまでもなく私筆者のこのブログの方は下劣といえば下劣である)。これは、高専の問題点を見事に分析し、一貫した論理で、その解決のための方策を示した、大変傾聴に値するものである。試案とはどうあるべきかという模範といってよい。そして、このように優れた試案に対しては、優れた論者があれば論争がおこるであろう。しかし、どうやらこの案に論争を臨める者は政治家や教育学者にもほとんどいないようである。

 筆者のごとき者の案を、これと比較するのはおこがましい。しかし、あえて筆者の問題意識を述べさせて頂くと、日本において15歳の「早期」に「目に見える」「特殊な区別された」コースを設けると、そのコースの者は概して「多層化」に巻き込まれるのではないかということなのであった(第6章・第7章。この詳細は、次章でも述べる)。むろん、このことはI博士をはじめとする高専関係者こそ強く意識し続けてきた問題である。筆者は、第7章で、このような問題意識を前面に出して、いっそうのこと高専の1年~3年生の課程(仮にこれを前期課程とする)をこそ廃止せよ、と述べた。そして、高専そのものは解体的に職業専門大学に移行せよと主張した。

 しかし、I博士のごとく、「(3)最初の 3年間にて高校の教育課程を完全に保障し,4年生以上を単位制システムとする。 (4) 3 年修了時に、4年次への進級資格試験を行なう(センター試験を使ってもよいとする)。 (5) 3 年修了時における進路変更を制度として完全に保障する」として、前期課程と後期課程を分離し、しかも、これを通常の高校教育と交流を持たせるとするのであれば、筆者が言う問題点の多くが解決できるようにも考えられるのである。課程として完全分離するというのも、もちろん一考だが、例えば、前期課程を、〇〇専科(専門職)大学付属中等教育学校、あるいは、端的に〇〇専科(専門職)大学付属技術科学高等学校としてもよいのかもしれない。東京工業大学付属科学技術高校の例があり、入学者の学力水準は高いという(当地の高専よりも入学難易度がはるかに高いのも因果なものである)。教育課程に特徴ありながら、しかも、大学進学者がほとんどであるらしい。あるいは、単純な比較はできないが、アメリカにおける、highschoolとこれとは別のcollegeが程よく体系化されたのP-TECH(例えば、ニューヨーク市立大学システムのニューヨーク市立大学工科カレッジと体系化)等も参照できるかも知れない(もっともこのシステムは高専モデルだという反論もありそうだ。もちろん、筆者の理解不足もおそれる。しかし、このニューヨーク市立大学の例は、高校の体系を維持しつつニューヨーク市立大学というユニークで伝統のある大学システムに「接続」させている点では高専制度とは別の評価が可能である)。

 さらに、失礼と著しい力量不足を承知で、以上を前提にいくつか補足的なコメントを述べさせて頂く。第一に、この新しい高専が養成する技術者とはどのような職種になるのであろうか。やはり従来通り大卒または院卒とは別の役割を持った職種になるのであろうか。それとも最終的には大卒化を目指すのであろうか。仮に前者だとして「大卒相当」としたり、仮に後者だとしたら、やはり、15歳生徒に向かって大学ではないのに大学と称して、彼らが知らずに不遇に陥ってきたという、高専問題は残る。これは、高専がこれまで犯してきた罪であった。どうせなら、明確に、初中級・実践型・臨床型技術者養成の短期教育としてもらった方がすっきりする。筆者が、物心ついた18歳生徒が自分の能力に得心・納得して、通常の大学とは異なった職業専門大学に進学するなら、それはそれでよい、という趣旨で職業専門大学を評価し、高専は解体的にこれに合流すればよいとしたのは(第7章)、このような問題意識に基づいているのである。もっとも、理工系でも大学がこれだけ増え、下位校も含めて大学教育を標榜している現在においては、学校をしてどのような位置づけの技術者を育てるか明確にしなくても、実際その後にどのように扱われるか、どのような職種に応募するかの方が重要であるとも言えるかもしれない。しかし、高専は名称と形態が異なるため、やなり一定のメッセージを出しておく必要はあると考える。第二に、編入学問題である。筆者は第3章で現在の高専が大学へのバイパスコースになっており、これに過度なポジティブアクションが働いているのではないかと指摘した。「進学高専」などというのは他の教育課程にある者からすれば揶揄の対象になっても仕方がない。ところが、高専18歳時点での進路選択を制度的に保障・確保しつつ、内容的にも定員的にも学士課程まで教育が保証される等高専が独自の存在として確立されれば、大学工学部へ編入学する必要はなくなる。望む者へのその後の継続教育は大学院で済ますことが出来る。そこまで高専の改善を行うにも関わらず、これに加えて、現在の進学高専の例に見られるような大学のネームバリューを求めるかのごとき編入学競争をも許すとすれば(「センター試験を受けずに国立大学工学部に行ける」などという安易な宣伝を行い、「編入学実績」を売りにする)、高専に過度の恩典を与えることになると考えるが、これはどうか。東大医学部保健学科は短期大学からの編入学を必要がなくなったとして廃止した。大学工学部側からも、もう高専からの編入学の必要はなくなったのだから廃止します、大学院入試を受けてください、とされるかも知れないが、高専側としてどう考えるのであろうか。

 なお、与党案のように、6年制で完成教育とし(その功罪については、第5章で述べた)、その後(筆者の考えでは結果的に専攻科か予科がかむことになるが・・・)、大学院への進学も可能ということになれば、いよいよ編入学を認める必要はなくなるだろう。

 I博士の頭の中には既に出来上がっているであろうし、このような安易な意見ブログを見て頂いているとは到底思わない。ただ、I博士が四半世紀にわたって行ってきた問題提起と意見に触れないわけにはいかず、あえて、失礼を承知で触れさせて頂いた次第である。 この案に従えば、独自の教育機関として存在することが、かろうじてでも許されるのかもしれない。もちろん、存在が失われたとて困ることでもない。しかし、当の高専側は、どうやら従来の美辞麗句と欺瞞を継続しつつあるようである。だからこそ、「高等専門学校」「KOSEN」の「独自性」とやらの主張に(実際は、「中堅」「実践」「大学並」などという、どうにでも取れる用語、他の教育機関でも行われていること、他の教育機関との類似性を謳い、結果において、「多層化」と大学への「単線化」をもたらす)不信感を持つのである。

 ちなみに、同氏のホームページ上にある、高専についての文部科学官僚の認識へのコメントは興味深かった。例えば、高専を礼賛して高専出身者の自営率が高いというデータを示したことに対しても、高専生が学歴社会の現実に接して自営に走るのだという批判をされている。筆者なりに、これに一言付け加えると、自営率が高いのは、もともと零細な事業主の子弟が多いということも付け加わる。そのようなデータを出してきたのは高専関係者であるが、かつては常識だったこのような現実についてさえ洞察が行き渡らないようである。それはさておき、"官僚”といえば、ここからも、筆者の意見であるが、こういう「エライ人」は決して自分たちには逆らわない階層の人間に同情するのが好きである。かつてTKなる文部官僚がいたが、彼などは平成10年前後教育改革が言われていた時期に「文部科学省本省の職員の半数は高卒や専門学校卒なんです!」、「文部科学省には、高卒で大学の技官になり、その後働きながら夜学で学びⅠ種試験に合格した人もいます!」などの例を挙げ、一官僚に過ぎないにも関わらず自著で「国民」に向かって"学歴は不要"であるとうそぶいていた。ところが、かつて日本が貧しい時期、優秀だが高卒で初級公務員になった者は数多いし、逆に、日本の中央省庁という世界有数の学歴権威主義の世界では、むしろ、物言わぬ高卒事務職の方が使いやすいという背景を忘れている。TK氏自身は若くして県の教育長になりながらである。また、その高卒夜学のキャリア官僚もTK氏によれば「県で30歳の若さで課長になっている」そうである(結局、試験エリート主義!)。「エライ人」は平気でそんなことを言うし、しかも、頭のいい人に「おセンチ」がはいると厄介だ。これは、高専問題の認識にも通ずるので、あえて言及した。もちろん、日本の中央省庁の官僚の能力は評価できるとは考えているが、高専問題は「立法府」による「立法」によって解決すべき重要問題であることも指摘しおかねばなるまい。

 

 

 

 

 

 

第7章ー高専は専門職業大学へ合流せよー

 

 専門職業大学が議論されている。実は、私はこれを評価している。
 学力・能力である層(例えば15パーセント)までは大学工学部でよいが、それ以下の学力・能力層にとっては、やはり、実践的職業教育でいいのではないか。つまり、政府が言いたいことが、学力中堅下位層までやっきになって大学進学を目指す必要はないということならば、この職業専門大学構想は、健全とは言えまいか。日本の教育論議は建前平等を標榜するが、百歩譲ってそれが良いともしても、どの学力層にはどのような教育をという実質的な議論があいまいにされてきた。高等学校卒業後の高等教育志向が進むのは止むを得ず、高等教育増設には理由のあるところだ。しかし、ここで政府がいわゆる狭義の大学(しかも大学院付き)を乱立したため、インフレ化した大卒に相応の仕事がない。そうであるなら、高等教育志向と卒業後の進路確保のためには、一応は高等教育機関と称する学校に職業教育を結びつけるしかない。例えば、大学定員は多くても高校卒業生全体の2割5分程度までに収め、あとは、あたらしい職業専門高等教育機関でよいというふうにすれば、大卒にその学歴に応じた職場がないという問題(世間で言う大卒の就職難)も緩和出来たかもしれない。 もっとも逆の可能性もある。中堅以下の学力の高校生にその時代の要請で、採用活動が活発化される可能性もあり、就職を望むものが就職できるよう準備をしておく必要はあるだろう。特に都市部に多すぎる中堅以下の普通科高校のカリキュラムの一部に職業教育を組み入れる工夫は必要であろうーそのような時代は終わったという者もあるかもしれないが、現在の人手不足の時代に、高校段階で少しでも職業教育を受けている層がいれば、彼らを吸収できる可能性がないと言い切れるだろうか。また、現在の大学のかなりの大学が学生を学力試験で選抜していないから、中堅以下の普通科高校の高校生のさらなる職業高等教育(もちろん能力が許せば、狭義の大学でもよい)への入学試験が阻害されるということもあるまい。

 自分たちで乱立しておいて今度はこれを転換しようというのは、確かに矛盾だが、多くの特に地方の小規模または非伝統校の定員割れが続いている今しか、これを改める機会はない。
 ところが、注意しなければならないのは、政府が言っていることが、上位学力層に対してさえも、一般教養と学術的な内容を軽視し、すぐに役立つような職業教育・実践教育を目指せ、ということならば、これは間違いである。そして、実は、日本には、上位学力層に対して、このような職業教育・実践教育をしますなどと標榜し、これを理系教育の本流のごとく欺瞞的な宣伝をし続けた学校がある。それが「高専」だったのである。高専の学生の水準は設立初期において特に高く、近年は学力が大幅に下がり続けつつも中には経済的な理由や親の意識(“手に職”の類)のために一定割合で比較的学力が高い層も含まれていることはこれまで述べてきたが、彼らこそ「国」に愚弄された生徒たちである。高専の問題性については、再度確認しておきたいことがある。それは、、高専の就職先-“地位”のことではない-がいいのは、比較的成績上位者で、中学卒業したばかりの生徒に社会の成り立ちやその矛盾に気づかせることなく、速習圧縮技術教育を施し(「学部並」というのは過大評価で高専教員や一部の適合卒業生の宣伝文句に過ぎない)、これに疑問を持つ者を排除し(学力よる「選別」ではない)、中堅または下級技術者枠を独占させた結果に過ぎない(企業が高専卒を表面上「評価」しているのは、この思惑から)という、特殊事情があるからだ。そもそも高専は設立当初から理念的・制度的に位置付が「あいまい」にして、同時に行われた工学部の大増設によって教育機関としての相対的地位が低下したという不幸な出発点をもっている(天野郁夫『日本的大学像を求めて』、野村正實『学歴主義と労働社会』)。決して高専教育の理念が優れているからではない。つまり、現状の高専教育あるいはそれに誘う手法を国民大多数に投げかけたからと言って、国民に仕事がいきわたり幸福になれるわけではない。このことも既に述べた。 
 では職業専門高等教育機関ないし専門職業大学を具体的にどうすべきか。①高専教育で問題されたように、中学卒業後5年も6年も長期に特殊な教育に押しこむような教育制度は回避すること、②就職問題は特に職業高校や普通科高校の学力中堅層にとって大きな問題となるのだから、彼らにどのような教育を施すかという側面で考えて、彼らに3年程度の職業教育を施す教育機関を膨らませること、③早期に、袋小路的な枠組みに、長期に渡って、特殊な教育を施すという高専の存在形式そのものが問題を生み出しているのに、これをそのまま存続させることは許されないから、これを解体的に再編して①②につなげる。つまり高専をこそあたしい専門職業大学へ接続させるのである。筆者は、高専教育がもたらす悪しき側面の諸悪の根源は、「中学卒業後」という部分であると考えている(中学卒業時での進路決定は困難であり、また、中学卒業後に専門科目を押し込むため、高校程度の内容さえもが圧縮され、精神にさえも影響を与えるのである)。これがもたらす、イビツな教育に、優秀層を誘っているとしたら・・・。この構造さえ破壊してくれればよいのである。具体的には、①②への接続に際して、高専の15歳から18歳の年代の前期(以下、前期課程と略称する。高専は前期と後期で教育を区切っていない)の課程を廃する(通常の高校から進学させる)か分離すべき(その分離の内容については次章を参照)である。専門職業大学というもがあって、これに「高校卒業後」に進学する層がいても全然かまわない。高専設立に先立って、専科大学構想があったのあるが、専科大学構想では前期課程は理念上絶対必要のものではなかったことを想起していただきたい(但し、「前提」にはなっていただろう(参照、岩本晃代「高等専門学校創設法案の経緯と「複線型」教育の問題点」カリキュラム研究第19号31頁))。そして、専科大学への転換は従来から高専関係者の間でも要望され議題になったこともあったのである。そのような経緯を考えると、専門職業大学構想にかこつけて、専科大学化してもよいのではないか、この制度的枠組みの中で、高専が培ってきたものを伸ばせばよいのではないか。年限は3年にして専攻科1年を設ければよい。「6年制」については既に功罪を指摘したが、結果的には21歳卒業としてもよかろう。但し、現在の構想では、実習期間や実務家教員の割合が安易な思考に基づいているので再考すべきである(この点につき、第10章)。

 ところで、このように、高専を新しい専門職業大学に合流させ前期課程を廃したら、大学と職業専門大学の二分法の中に高専が埋没し、これまでのように中学卒業時の優秀層を確保できなくなるという懸念が、高専関係者からなされる可能性がある。しかし、こうした主張は高専の矛盾をさらけ出すだけのものである。まず、優秀ならば高校から大学にいけばよいのである。何も困らない。わざわざ自分たちの特殊な教育に生徒を誘っておいて(中には、これを完成教育と評し、大学などに進学する必要はないとする教員もいたのである)、大卒との処遇の均衡や院卒の増加という問題にさらされるようになったら今度は都合よく大学編入学を目玉にしだしたのは当の高専であった。ならば、そのような矛盾を改め、専門職業大学に転換後の高専は従来の目的どおり中堅技術者や臨床的技術者養成に徹すればよいのである。本望というものではないか。しかるべき水準以上の大学にいけるような人材がいるというならば、そのようなルートを歩んでもらえばよいのだが、そうでない人材が来たなら来たで教育のしがいがあるというものだ。そのような教育成果を見て、大学工学部に及ばなかった者が専門職業大学で勉学に励んで何が悪かろう。彼らが、学力や研究では及ばなかったが、ほかの分野では、自分たちが一日の長があると思ってくれればよい。なお、専門職業大学には技能的な職業分野も含まれ、一応は、技術職の養成をしてきた高専側としてはこれと同等にされることに抵抗を感じるかもしれない。その感情は、大学や短期大学が高専に対して抱いてきた差別的な意識と同様なのであるが、その大学も、一流から無名まであることは忘れないで頂きたい。定評のある専門職業大学と定評のない専門職業大学があるのは、当然のことだ。最後に重要なことは、ここには、18歳という大人なろうとした時期に決めた、気持ちの整理と自分の能力への得心と納得がある。繰り返すが、15歳という少年が学校側から吹き込まれた宣伝を信じ、これに基づくルートが20歳まで続くという現在の高専では、気持ちの整理と自分の能力への得心があいまいなままなのである。

 

*平成28年5月時点、文部科学省から発表された「高等専門学校の充実について」は、おざなりな内容であった。1%の人間にしか関係のない制度というなら、何もいきりたつ必要もないのであろう・・・。

第6章-高専増設批判(2)ー

 かくして、高専増加と分野拡大は、そもそも高専がそうであるように、非常に大きな矛盾と衝突を生み、最後には失敗すると考えられる。どんなに大学相当と称し、そのようなものとして入学者を誘ってきた高専という制度をいじったところで、50パーセント以上の人間が正式の「大学」へ行き、その半分を職業専門大学にしたところで一応これも「大学」であり、高専高専である以上「大学」ではない構造は変わらないのだ。工学系技術職以上の人材に限っても90パーセント以上の者は大学学部卒以上であり(理学部や薬学部、学芸系学部の一部等を含めると、さらに多くの割合となる)、仮に高専を倍増したとしても、焼け石に水であり、高専はマイナーな存在であり続ける。専修学校は、自らを大学相当等と謳って入学者を誘っているわけではないし、その学生の多くは大学での教育を受けることに必ずしも意義を見出していないか、もしも能力があれば大学に進学してもよかったのかなと思っている層であるから、大学相当の完成教育を標榜し比較的優秀者層もかなり多く誘っている高専とはその議論の前提が異なる。

 西尾幹二『教育と自由』は、西尾が第十四期中教審に参画したときの模様を描いている(67頁以下)。このときも高専改革は検討に上がった。審議で西尾は「高等専門学校もその位置づけの曖昧さがかつて疑義に呈されたことがあった。今はまだ数も少ない段階だから、思い切って四年制大学に移行させるか、短大の名称で定着させるかどちらかにしないと、卒業生の社会的立場がはっきりしない困難はいっそう増大するであろう。・・・成長発展していく可能性に富んでいる制度なのかどうかという基本問題をお伺いしたい」とその考えを述べた。西尾によれば、これは

 

 教育界では、「今や学校制度は複線型であればあるほど良い」「中学生の進路選択は多様であればあるほどよい」などと言われてはいる。しかし、「このような常識的結論、現状追認で、果たしてこの学校制度が最初から本質的に抱えているある矛盾を少しでも解消するのに役立っているのかどうか」。 「日本の現代社会には多様性がない。従って学校制度だけ多様化しても、社会にはそれを支える根がない。そのため制度面での『多様化』の試みは、結果的には、おおむね『多層化』に終わる。社会のこの体質にあくまで制度で抵抗すれば、関係の子供たちを徒らに苦しめることになるだけである」。

  

 との認識を根底においていた。西尾のこの問題意識と質問に対する他の委員の意見は、「外国語やデザインへの分野拡大は、女子の進学者の急増を予想させる」とか「わが国の産業社会を支える技術者全体の構成では、4年制大学工学部卒、高等専門学校卒、工業高校卒の人数が逆ピラミッドとなっているが、本来なら高等専門学校卒の者が産業社会を支える中核となるのが望ましい」などといった、当時としても、現在に引き直して考えても、全く現状認識を誤ったものであった。しかも、当の西尾さえも、議論を経る中で、高専をして「社会を『多様化』する尖兵の役割を担わせる力があるかもしれない」と心に思い始めたという。ところが、元中学校教員のある委員が「最後に一言話をさせて下さい」とツルの一声を発したという。

 

私は自分の卒業生を高等専門学校にこれまで何人も送り込んで参りましたので、いろいろなことがあり、気持ちも複雑になっております。・・・家庭の事情で、四年制大学に行くのは一寸無理かもしれないと予め分かっていて、それでも技術系に進みたい子供で、将来性のある、しっかりした者に、進路指導してきました。・・・けれども・・・思わぬ事件も起こったのです。高等専門学校を出て企業に入った私のある生徒と、それから何年か後の女生徒で、短大を出た私のある教え子との間に、縁談が生じました。教師としての私の公平な目で見て、男の子の方がずっと優れていて、まあそう言っては何ですが、女性にとっては勿体無いようなご縁なんですが、彼女の方から申し出て、破談になりました。言い分は、自分が出たのは短大であってともかく大学だが、相手の出身学校はよく分からないし、親にも説明できないというのです。とても厭な、後味の悪い経験でした。分野拡大して、数が増えれば、高等専門学校の存在は社会的にも今より広く知れるようになり、こういう厭なことはなくなるのでしょうか。それとも分野拡大することで、辛い、惨めな経験をする子供がかえって増えるというのでしたら、困ったことだと思いますし、賛成できません」。

 

 会場は一瞬シーンとなってしまったという。西尾が、このようなエピソードなどを踏まえて、どのような教育論議を展開したのか、あるいは、絶望し諦めたのかについては、もちろん同書を参照するしかない。

  高専にはこんな人材もおりそれが高専教育の成果だという前に、時代が時代なら環境が環境なら、経済的条件さえあれば・・・、彼らもその大学教育を選んでいたかもしれないという共感は湧かないのであろうか?高専卒だからこそ、このようなものを開発したと言う例を挙げる前に、普通に高校から大学工学部に行った者の方が圧倒的に多く、彼らもまたしかるべき業績を挙げ続けたきたことくらい、ちょっと想像力を働かせればわかるではないか。高専のよからぬ学校としての実態、逆に、絶えなくして一定割合である優秀層、制度としての問題性・・・。結局は、高専の存在理由と存在形式とそして実態を問い直したときには、やはり、存立そのものを肯定できないのである。その高専が5年制から6年制になったからといって、何がどうなるというのであろう。野村正實氏は、自身のHP上で、次のようなことを述べておられる。

 

 「教育改革は、その教育改革に巻き込まれた学生たちの生涯を決めるような重要なことである。高専を作った当事者たちは、そのようなことは考えもしなかったであろう」

第5章-高専増設批判(1)-

 平成28年目下の職業専門大学構想とは別に、それに先立って、高専の6年制化、学士の学位授与、早期の大学院進学、一県一校化、他分野への拡大などの、高専改革方針が、与党の一案として示されている。

1.職業専門大学構想との関連性のなさー学位授与権に関連させてー

 先ず、高専改革が、目下のところ、職業専門大学構想とは別立てで論じられていることである。そもそも学校教育法にあるように、高専は、「職業教育」機関である(高専は、高等教育機関の範疇にあるとは言っても、創立以来50年、学位授与権ははく、また、自治権もなく、「研究機関」としても位置づけられていない)。50年来、職業教育の高等教育機関として位置づけられてきたにもかかわらず、与党の青写真側からも、今度の職業専門大学案側からも、職業専門大学と高専との関係性については何ら構想が示されていない。例えば、職業専門大学にはIT分野、金属加工(これを例に挙げるのは何とも安直な気もするが・・・)、はたまた、調理師になることなど、あらゆる職業教育が含まれており、これらの職業専門大学には学位授与権を与える予定であるという。ところが、高専にはこの50年間、大学では無いとの理由で、学位授与権は与えられてこなかった。周知のとおり、学位を授与するのは学位授与機構である。①先ず、「学位授与権」そのものついてであるが、国が、高専の学位授与権に消極的であり、おそらく、今後も消極的であることは、高専と同じ準学士なる「称号」付与権を与えられてきたに過ぎない短期大学が、高専とは異なりいつのまにか「短期大学士」なる「学位」授与権を得たことでも明らかであろう。国は、やはり高専を大学ではないということを重く見ているのである。②また、今度の高専改革が、高専に「学士」の「学位授与権」を与える趣旨のものであるか定かではないが(学位授与機構の認定で、学士そのものにはなれる)、これには、短期大学側の反発も考えられる。つまり、高専設立当初の専科大学構想に猛烈な反対をしたのは短大であるが、このような短大が、自分たちには「短期大学士」なる学位を授与できるに過ぎないにもかかわらず、高専には大学院に進学できる資格である「学士」の学位授与権を付与することに賛成する可能性は極めて低い。

 問題はここからである。短期大学も残り、さらに高専高専のまま(改革をして)残るとしたときに、調理師養成や金属加工の技能職養成の職業専門大学には学位授与権があるにもかかわらず、一応は企業の技術職を輩出する高専側には学位授与権がないという、なんとも奇妙な現象が生まれるのである。実は、このような奇妙な現象は、いわゆるFランク校と呼ばれる私大の工学部に大学院があったり、あるいは、看護士養成が学士課程に移行しつつあるなど、近時、垣間見ることができる現象ではあるが、このイビツな現象が、いよいよネジレた形になると言っているのである。職業専門大学と短期大学および高専の存続とこれらの関係性に整合性を持たせ、矛盾を生じないようにする為には、少なくとも、これらを系統立てて論ずるべきであろうが、これは高専(あえて言うならば短期大学も)という中途半端な学校制度が存在することによって生じている問題ともいえるのである。

2.6年制化の功罪―長期化の問題性と可能性―

 第二に、6年制化については、功罪(「功」の方は、あくまで、この制度を残さなければならないという場合の話であるが・・・)相半ばする。

 高専教育は、これまで多くの中退者・留年者を生み出してきた。少なくとも1割、通常2割が退学、留年者も含めれば3割が留年・退学する。実は、これは高専の教育が格別厳しいからではない。①中学卒業後に専門分野を決めることによる、専門科目への不適応、②あまりに大きな割合、比較的高度な内容で、しかも早期に、専門科目を開始するというカリキュラムと、ほぼ同じ気質の生徒間の人間関係が長期に続くことから、生徒が自分の知的発達のバランスに不安を覚えること―中には、高専の教養軽視のカリキュラムと風潮に不満を覚え、中退して、大学進学する者もいる―、③5年の長期の就学期間内に大学受験が無いことによる中だるみ、④中途半端な自由を与えられるために生じる非行化、または、同一学校内に、大学生の年齢と中学を出たばかりの人間が混在することによる下級生側の圧迫感―全寮制を建前としていたころ、5年生が1年生に挨拶代わりに“シゴク”などの例もあったのである(第二章参照。運動部やスポーツ校の寮の話ではないことに留意されたい。暴力問題は、近時も時々見られたが現在では構造問題にはなってないようである)―、⑤高専そのものの入学難易度低下による学力低下高専が敬遠される理由に、中学卒業という少年の年齢から開始して、その後5年もの長期の教育課程を経なければならいことが挙げられる―、が大きな要因である。これらは、高専の教員から外に向かっては余り口に出されることの無い事実であるが、少しでも内実を知るものなら、合点のいく話である。つまり、「早期」、「長期」、「特殊」、「同質」であることが高専の退学・留年問題の根底にあるのである。効率的な教育を施しているつもりが、逆に、2割以上の撤退者を生むという「非効率性」に何故気づかないのであろうか。その高専の就学期間が5年ではなく6年になったときの帰結に、立法者は責任をもてるだろうか。入学者側からも、6年制化は魅力的に映らないであろう。高専は専攻科設置によって望めば22歳まで教育課程がある。専攻科を正式に修了すれば学位授与機構から学士号が得られ、その後大学院に進学することもできる。ところが、この課程が出来たときに高専の人気が高まったであろうか?魅力あるものに映ったであろうか。高専の入試倍率はジリジリ下がり、入学者の質も落ちつつあるが、この専攻科設置が起死回生の策となったとは言えまい。大方の反応は、どうせ22歳までの教育課程なら、あるいは、その課程を経た場合の処遇がどうなるかよく分からない以上、最初から大学に進学した方がいいというものであろう(こちらの方が逆に「効率的」であると一般的には思われるわけである)。一時的に入試倍率が上がったのは、長期不況で大学生の就職率が落ち込んだ時に過ぎなかった。

 よい面もないわけではない。18歳以降の課程が3年になって、その後に就職するのも、大学院に進学にするのも可能と言うことになれば、高専をバイパスに大学工学部への編入学などをする必要はなくなる。そうすると、“高専は、大学や専攻科への進学する者が4割にも達し、独自の人材を輩出しているとはいえないのではないか”、というある意味では非常にイタい指摘を受けなくて済むというものだ。高専教育が、高専関係者の従来からの念願どおり「完成教育」となるわけだが、そうであるなら、高専側も、大学工学部への編入学を目玉にして(ひどい例になると、センター試験を回避できることを露骨に宣伝文句にする教員もあるという。このような者に教育者の資格はあるまい。)入学者を誘うことは断じて止めてもらわねばなるまい。

3.6年修了後の、早期の大学院進学―一般大学側の反発とルートの奇形化―

 今でも、大学院入学資格は柔軟化されている。要件を満たせば、例えば高卒のプロ野球選手がスポーツ科学の分野で修士号を得たりする例もある。ところが、高専6年制修了者(1年若い年齢で)に一律に資格として大学院入学を認めることは、今度は大学側の大きな反発が予想される、というより大きな反発は当然のものである。多くの大学で、特に一流大学の大学院で、大学院入学の飛び入学を認められるのは、学部在籍時に格別に成績のよいもの等の要件があるはずである。自校出身者に対してさえ、そのような厳しい基準を設けるのに、大学ではない高専出身者にその資格として大学院入学を認めることはまずない。高専が大学より格上ということはありえないからである。大学院の教授陣どころか、学部学生も反発するであろう。経済的に、一部の人間が、特に優秀性を認められることなく得をしてしまうからである。あえて、先の6年制論と絡めて正当化するとすれば、6年修了後に1年の専攻科ないし予科を経て、大学院進学が可能ということになろうか。そうすると、元の木阿弥、最初から大学に行っていた方がよいということになる。

 ただし、高専専用の大学院という手もある。これには、パイロットプログラム的に、都立産業技術高専産業技術大学院大学が存在する。もう一つは、豊橋、長岡の両技科大を完全に大学院大学にすることである。周知のとおり、両大学は高専生を主に受け入れる大学であるため大学側からの反発もあるまい。

 しかし、結局、高専問題はここに行き着くのだが、ここまですると、高専設立当初問題にされた出口の“ふさがった”袋小路”ではなく、出口はふさがってはいないが“殺風景な一本道がダラダラ長い(なんと中学卒業後修士まで8年同じ所!)”“ちゃんと本道があるのに、自分の背丈がやっと入る程度の狭い山道を1人で歩んだ上、到着点は同じ”“あえてこの道を選ぶ理由がなくなる”というだけの制度になりはしないか。次に、繰り返すが、そもそも、「中学卒業後」「5年一貫」の理念とは何だったのか。改革案では最短ルートで大学院に接続させようという。しかし、企業側は、中堅ないし中級あるいは下級技術職としての高専卒を重宝してきたのに、彼らがみんな大学院に行く仕組みを作ったら、逆に高専は意味を失うではないか。

4.一県一校化 ― 強制設立は地方自治に逆行する ―

  実は、高専の無い県が数県ある。そこで、既存の県立工業高等学校等を昇格させることで、地方公共団体設立で1県1校化しようというのである。電波高校等が電波高専に昇格した例もある。また、各県は職業訓練専門校等を、国の立法措置で設置してきたこともあったから、あながち不可能とは言えない。

 しかし、忘れてはならないことは、第一に、現在でも、地方公共団体による高専の設置は可能であり任意に進められてきたということである(東京都、大阪府、神戸市)。第二は、職業訓練専門校は、1年から2年の期間で行われる、まさに純粋に職業訓練という厚生福祉的な措置であるということである。厚生福祉的な措置であれば、国家による強制設立の立法に合理性がある。ところが、地方公共団体の高等教育機関を国が強制設立させるという、法技術次第では可能だとしても、前代未聞の措置が行われることになる可能性がある。というのは、自治体設立であれば、高専設立後に、高専を大学に昇格さたり(かつて札幌市立高専という学校が存在したが、現在は、札幌市立大学に昇格しているという例がある)、付属校化する自由もあるはずであるが(大阪府立大学付属高専の例)、これでは、国が高専地方公共団体に設立させた意味がなくなるので、自ずと枠をはめた強制設立となるからである。

 次に、やはり地方自治という観点も忘れてはならない。具体の名前を挙げて申し訳ないのだが、滋賀県には高専がない。一方、名門校である旧制彦根高商(現・滋賀大学経済学部)は、戦時下の一時期、彦根工業専門学校の時期があった。滋賀県は、その彦根工専の実質的な後えいとして、滋賀県立短期大学を育て、ついには滋賀県立大学工学部を実現させたのである。そこに、高専を作れと言われて、ハイハイと作れるものであろうか、むしろ、財政措置としても地方人の感情としても短大(つまり、高専と同様の修学年限の短い高等教育機関)から昇格した滋賀県立大学を育てたいのではなかろうか。滋賀県の財政規模から考えて、大阪府のように、滋賀県立大学の他に滋賀高専をつくれというのは酷というものである。短期大学工業科をやっとの思いで大学化した自治体に、今度は高専を作らせ永久維持せよというのか?それを拒否する自由は無いのであろうか?

  地方公共団体に設立させる場合でも、財政措置として政策誘導することは考えられる。通常はこれであるが、この場合でも上記の視点を忘れてはならない。

 特別立法による場合も考えられるが、これには、地域の特殊事情も考慮する必要があるだろう。地域の特殊事情といえば、最後に高専が作られたのは沖縄高専である。ここに国と県との間に他の都道府県とは異なる独自の内部的な協力関係があったのはもちろんであろうが、形式的には従来型の国立高専設置である。沖縄の場合、歴史や経済、地政学的要素も無視できず、一般化出来ない。その他、実際は近い時期に沖縄科学技術大学院大学も設立されており、学校設立の動向に二面性がある。もし、現在は沖縄高専が成功しているとしても、かつて旧設の高専と同様の問題に直面する可能性も十分ある。沖縄の場合、琉球大学の存在感が圧倒的であることとの関係も見逃せない。

 以上、特に技術的な側面から考察してきたが、これは、そもそも高専が必要か、という根本問題とも関係するので、これは別述しなければなるまい。

5.高専の拡大、あるいは、他分野への拡大―そもそもの誤解と高専のインフレ化―

(1)先ず、高専についての誤解を正しておかねばならない。実は、高専の見かけの就職先や就職率がいいのは、高専入学者の犠牲の上に成り立っているということである。

高専の就職先と率がいいのは、①比較的成績優秀層を独自の文句で誘い、②彼らに中堅以上の企業にわずかにある、中堅・中級・下級技術者枠―綺麗な言葉で言い直せば、生産技術や製品化技術部門、研究開発部門の補助者、現場の中級管理者、あるいは高卒現業職のリーダーたる下士官ということになろうか、高専は自らの役割をして「中堅技術者」「実践的技術者」「臨床的技術者」養成であるなど、言葉を時代によって使い分けてきた―を独占させてきたからである。③企業側としても、彼らを大卒未満の待遇で中堅・中級・下級職に配置都合よく配置できた(企業側が高専卒を「大卒より2年若くて使いやすい」(こうした文言は、中学生向けパンフレットや学校史に肯定的に引用されている)とする背景には、この人員配置の都合があるのは間違いない)。・・・それだけなら問題はないという者もあるかもしれないが、これが問題ありなのである。

高専関係者は、入学者を誘う文句として、①上述の「中堅技術者」「実践的技術者」「臨床的技術者」という中学生には綺麗に響く言葉とともに、②高専卒は大学工学部と同等などいう美辞麗句を並べてきたのである。ところが、日本の製造業は、とっくの昔から、研究開発又は技術職として大学院修士課程修了者や名門大学工学部出身者を大量採用しているのは周知のとおりである。あるいは、日本の製造業の特質として、大学理学部や学芸学部出身者も技術職として受け入れていることも大きい。その数は、高専卒の数の比ではない。しかも、実際は、企業は高専卒を大卒・院卒とは実質的には別枠で採用していると言われ、これも間違いない事実である。これらの、高専側の教育目標と企業の採用行動を考えれば、論理的には、高専卒には大卒・院卒とは別の役割を担わせようとしている、つまり②「大卒相当」のみがウソであるのは明らかなのである。③また、当の高専卒側もよりよい仕事内容と待遇を求めて大学工学部へ編入学するという行動パターンでこれを証明している。高専卒で社会に出た者は、大学工学部卒と思って入学し勉強して会社に入ったら、仕事内容が大卒と違った(花の、そして、実際は待遇もよい、研究開発職に配置されない、配置されても補助的業務)、しかも賃金が違う(転換試験を受けるなどして業務は同等となったのに給与のみ違う等)ということでその現実を知るのである。あたかも、この帰結は、学歴主義の根強い日本の企業では当然のことであったし(野村正實『日本的雇用慣行』89頁)、このような高専の存在は日本の企業(の学歴主義的な雇用慣行)にインパクトを与えなかった(野村正實氏のHP)。つまり、特殊な部門のための特殊な教育目標で、しかも、比較的優秀層を誘い、彼らを企業側の都合により形成された「独占市場」下に組み入れてきたという構造のものとでは、さらに高専の数を倍増したところで、増えすぎた彼らに職がいきわたると言うわけではない、という結果をもたらすだけなのである。高専増加論者は、増えすぎて低学力化した大卒にそれに応じた仕事が無いので、学生を非大学であり「実践的」教育を行う高専に誘えば、学歴インフレ問題や大卒就職難が解消できると考えているようである。逆なのである。高専の生徒のいくらかは、高校卒業後、本来なら相応の水準の大学工学部へ進学できる層を含んでいる。比較的優秀とされる彼らに、一般教養教育や理論教育を軽視・圧縮した教育を受けさせ、しかも、大卒相当と信じ込ませるが、実際は大卒未満として就職しているからこそ、企業側から見ると高専卒のコストパフォーマンスが高くなり好評価を得て就職率もいいというわけである。大学がインフレ化し価値が落ちたことの解決の為に、高専をインフレ化させ価値が落ちるのというのは、なんとも皮肉な話である。

(2)次に、農業や商業の分野で高専をつくることは、かなり効果が怪しい。農業や商業の分野には、中堅企業又は大企業におけるような中堅技術者的部門・基盤が存在しないか薄い。これらの分野では、一定割合の人間の頭脳に任せれば、あとは、直感的な能力や地道さや人員数の確保という要素が成果を決定するという面があるのも理由であろう。

 日本の農家に就学意識があるとすれば、先ずは、農業高校に進学して、次にチャンスと意欲があれば農業大学校等に進むと言う慣行が成立している。工業高専と異なり、就職「先」がいいというイニシアティブが先の基盤の無さと相まって働かない。しかも、農業分野の被雇用者数自体が少ない。農学や農芸技術は、国や地方公共団体のにおいて、一部の大学農学部出身者が研究者的な働きをしつつその成果を農家に還元している実態があり、国立大学中心でやや飽和状態にある。工業分野よりも、より特定された狭い範囲で、国立大学や伝統私立大学が根を張ってきたわけである。人材供給でみたら、帝国大学農学部、旧農業専門学校、農学校のラインは明治時代から磐石である。磐石の基盤と大幅な拡大的発展(既存の規模そのものが小さい)が望めない分野に新設学校が食い込めるのであろうか。もっとも、農学そのものが学際的で様々な取組があり、そこからの派生発展はありえ、評価は難しい部分もある。しかし、"手に職の工業”と異なり、中卒後5年一貫で「農業」を決意するのは、余程の勇気がいる。

 商業分野については、①そもそも、工業教育分野におけるのと異なり(機械加工技術等)商業教育に求められる固有の知識や理論がないため(野村正實『学歴社会と労働社会』95頁)、「中学卒業後」の初期初級から長期にわたっての教育内容を体系化するのに無理がある。②また、企業が一流大学の大学経済学部・商学部経営学部出身者を採用する場合に、工学部と比較して、低い期待でして専門性を見ていない。③商業分野で高度な頭脳が求められる場合でも、実は、上述の大学農学部と似ていて、ごく一部の一流大学経済学や商学部出身者、あるいはアメリカなどではビジネススクール出身者がまさにエリートして頭脳部門を担うという実態がある。地方の商業や地方の金融分野の中堅的業務は、短期大学出身者や下層の大学出身者が一般職や地域限定営業職として業務に就くが、銀行業務を含めて非常に単純又は技術性の薄い業務が中心となっている。以上の3つの観点から中堅的な高等教育機関たる商業高等「専門」学校としての「専門」性を特徴付けられず、需要を満たさない可能性がある。ただし、“大会社”に限定すれば、これまでは高卒者が担ってきたが、企業成長に伴って業務が複雑化・高度化したため、大卒者が進出してきた「修正された」「学歴開放的職業」領域が存在する(野村・前掲『日本的雇用慣行』50頁以下)。しかし、ここには、既に大卒者が進出し根を張っており、しかも、この大卒勢は、おそらくは、商学部などが中心の中堅伝統校にして一定水準を満たしている大学や私立の地域拠点校であるはずだから、商業高専との代替を許さないであろう。ただし、経営工学や経営情報学等の文理融合系では考えられるが、結局、工業高専と同じ問題を生み出すか、これらの分野で非大卒では地位を保てず、高専編入予備校化するだけのことである。高校が大学受験の予備校化していると揶揄する向きもある高専が、今度は自分が、少しばかり専門科目を先行していることだけを理由に編入予備校化するのも皮肉な話である。

(3)最後に、ここでも職業専門大学との関連性である。職業専門大学では高校卒業後にあらゆる分野の職業教育が想定されているという。そうすると、職業教育を望む者でも多くの割合の者は高校3年の進路選択期間を経てから職業専門大学に進んでも遅くはないと考えるであろう。中卒後3年という期間を区切られた、しかも初中級的な教育ならまだしも、あえて中学3年次で自分の適性についてリスクを犯してまで、特定分野の長期の中堅高等教育的な職業教育を選択する者がそんなに多くの割合で発生するであろうか。そもそも、中学卒業時に進路を決定してしまうこと自体が、極めて難しいことなのだ。

6.高専制度の輸出?

 高専制度をモンゴルやタイ等に移植することが行われているという。

 ここで指摘できることは、これらの国は、少なくとも未だに先進国ではないことである。

 次に、これらの国おいてさえ、高専制度がメインルート又は重要なルートになりうるかどうかである。これらの国にも当然に高等教育制度は確立されている。エリートコースも確立されているはずである。むしろ、エリートのためにこそ少数の大学が準備されているか、先進国に留学する場合もある。民族意識の問題もあるだろう。そうすると、高専制度は、補助的な教育制度、メインルートから離れた者のための教育制度、高専制度が一時的に一定の範囲で一部の者に有用になりうる場合でも(例えば進出企業において)、国が先進国に近づくにつれて高専制度がもつ問題点に遭遇するのではあるまいか。逆に、日本側からは鏡写しになる。高専制度が先進国ではなく開発途上国に受け入れられたということは、日本の高専に入学した成績優秀者は何だったのか・・・。これらは将来性のある国である。しかし、これらの国の既に確立されたエリートコースに乗った(ある意味では日本のエリート層より少数精鋭)指導者層は、先進国日本から、開発途上国ないしそこから脱皮しようという自分たちの国に輸入された、短期高等教育制度にどのような位置づけを与えるであろうか。逆に、高専側は自分たちの学校を、どのような位置づけで輸出するのであろうか。

 ところで、マレーシアは高専制度をそっくりそのまま受け入ようとしてきたわけではない。主に日本の高専への編入留学であるという(筆者の時代にもマレーシアから技術分野における何らかの高等教育ないし予備教育を受けたと思われる人が留学してきたから、それとなくわかる)。マレーシアは、日本に見習い工業化を進めるという政策を取ってきたから、日本の工業化の歴史を十分理解しているはずである。従って、(帝国大学的なものはアジア各国にあるとして)、我が国戦前・旧制工業専門学校と戦後・新制大学工学部の実績と実力までをも視野に入れているはずだし、そこへの留学生も多かった。本国の主要な工学高等教育制度と比較対象されているのはおそらく日本の大学群あるいは歴史的に欧米圏の大学群であろう。次の段階へ何ステップも進んできたマレーシアが、現在、高専制度に期待するものは何か、これと長年交流してきた高専側の意識とのギャップがないかは興味深い。

 

*平成28年5月時点、文部科学省から発表された「高等専門学校の充実について」では、高専の大幅な増設・拡大は予定されていないようである。また、逆に、特筆すべき提案もない。

 

 

第4章-高専はモデルにあらず!(2)モデルの揺らぎと矛盾ー

  せっかく『モデル』のような高専内部者に登場頂いたので、これが高専の入り口(入試)と出口(教育効果)について、どのような評価を下しているか、これを見た後、その矛盾を指摘しておきたい。ちなみに、ここで言われていることは、高専関係者のみならず他の教育機関関係者からさえ、矛盾を指摘されている事実である。揶揄するものさえある。

1.高専入学者の学力は低くない-

 『モデル』88頁では、「入学者の学力は地元トップの進学校より少し低い」ぐらいで、優秀とされている。特に地方の高専には、このような傾向があり、これは、否定できない。むしろ、比較的優秀であるため、高専問題が発生するのである。

 ただし、高専の入試問題が当地の公立高校入試問題と異なることと、優秀層が力試しに高専を受験することも多いので、単純な比較は出来ない面もあると考える。これと近時の志願倍率の低下の事実を併せると、実際は、高専の当地における見かけの偏差値に比べてかなり学力の低い者も相当に入学している、という推測はなりたたないであろうか。年次ごとに様々な調査があり一概には言えないが、入るのが簡単とはいえず、まあ秀才が入る学校ではあるが、玉石混交の面があり、近時は石の方もかなり多くなってきた・・・という感覚であろうか。

2.技術者採用の大学院修士課程修了者へのシフトー高専側も知る事実-

 『モデル』89頁では、「これからの技術者の採用は、次第に大学院」修了者に移っていく」と素直に認めている。確かに、現在は完全に院卒シフトしているし、高専教員の多くは大学院卒だから当たり前にそれを知っているのはもちろんのこと、かなり古い時代から院卒シフトすることは予測していたはずである。高専としても、これに、対応する必要があるという。一方、就職者数は、(『モデル』の著者が所属する学校では)「状況がよいながら、少ない」としている。

 高専は一応5年の課程で教育を終え、一般的な高専の卒業生の6割程度は、何らかの技術職として就職することを前提としていることからすると、彼らへの教育効果と処遇をもっと分析して見せるべきであった。ところが、『モデル』89頁では、「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」として、これを放棄している。技術職が大学院修了者に移っているというならば、当の高専卒の処遇はどのように扱われているのであろうか。確かに、このテーマは高専側の最重要テーマであって、いくつか調査がなされてきた。しかし、高専側はこの『モデル』の著者のように、高専は大学工学部レベル(たとえば、現在では「専門的能力は大卒とほぼ同じ」という表現を使うが、中学生を含む普通の人なら、能力が同じなら仕事や待遇も同じと考えるであろう。また、かつては、“高専卒の仕事内容や待遇は大卒と同じ”であるとパンフレットや入学説明会で言われていたのは間違いない)という趣旨の宣伝を事実上継続する一方、現在は技術者に院卒が増えたのに対応して進学機能も充実化しているとして、一見矛盾した言動を見せるのである。つまり高専卒の処遇問題を問題としては強く意識しつつ、進学率でカムフラージュしている。

3.早期専門教育の問題点 

 高専の進学機能が高まっているというならば、高専5年の課程とは、どのような理念・意味があるのであろうか。むしろ、基礎科学や教養教育に重点を置かず、形式的に専門教育を施すことで青少年の柔軟な思考を奪ってはいないだろうか。第2章・3章に見たように、幅広く、ものの考え方の根本を学ぶ方が伸びしろが付くのではないか。教育の本義は潜在能力を認めこれを高めることにあるとすれば、高専はこれと逆のベクトルを有してはいないか。例えば、高専からの大学編入学生をして、問題を「柔軟、あるいは複眼的にとらえる」ことがに難があり「研究姿勢が硬直的」という指摘がなされることがある(鈴木浩平「高等専門学校からの編入学制度について考える」『日本機械学会誌』No.960)。スポーツや音楽などを除き、一般の「早期教育」というのは、さほど功を奏しない、逆に、個性をつぶす、伸び代がなくなる、あるいは、下手をすると、その分野に不適合を来たし嫌いになるという弊害も一般に指摘されている。「早期」に「専門」的職業能力を伸ばし「顕在化」させようとすると、若い柔軟な頭脳があるにもかかわらず、「特定」分野に関連した「役立ちそうなこと」のみに目がいってしまい視野が狭くなるということも指摘できよう。もちろん効果的な早期教育もあるのかもしれないが、こと工学でも早期教育に問題があるのではないか、ということはよく考えるべきである。早期の専門教育も効果があるのかも知れない。しかし、この考えを打ち砕いてくれたのは、戦後生まれの日本人ノーベル賞受賞者であり、かつ、エンジニアでもあった彼らの経歴であった(いちいち名前をあげなくても、以下の内容を読めば、想定する人物は特定できよう)。彼らは、早期の専門教育など受けなくても専門家たりえ、しかも「実験の鬼」たりえた。さらには、実践の名のもとに基礎原理の理解を疎かにすると、逆に実践さえも頭打ちになる場合がある。彼らは、無理にでもやった座学としての物理学や化学の理解のもとに、実験の鬼となり、独創的なものを創り、作り上げたのである。「エンジニア」で、しかも、「神がかり的な秀才」達じゃないことがポイントである。高専卒からもノーベル賞が出るかも知れないが、筆者は、逆に、早期専門教育などはしなくても、実践的な部分も含めて専門分野の能力は無限に伸びることが確認できたことの意味合いは極めて大きいと思う(もちろん、彼らのうち一人の方が言う、大学入試や大学教養部の問題にはよく耳を傾けるべきだ。もっとも、もう一人の方は文句も言わず、大学で外国語の単位をおとしましたと動じず平然としておられることも頭に入れておきたい。それぞれの方に真があると思う。結局、筆者は入試を軽視すべきではないし、入試が個人の能力を潰すとは言えないと考える。センター試験的な全般的・一般的な学力を”最低限”確保しつつ、特に理系志望者には過度の暗記競争がないよう、そして、才能をはかるようしてやるべきだとは思う。教養課程も無くすべきとは考えないが、同氏が在籍していた頃は硬直的・形式的に過ぎたと思うし大いに反省しなければならない。・・・・・しかし、それでも、”最低限”が保証されていない、教養教育の基盤さえもない高専とは次元の異なる問題であることは念を押しておく)

 ところで、アメリカの大学生や大学院生は、早期に専門科目を「組み込んで」いるから、創造力があるのであろうか、専門分野に長じているのであろうか。次々ベンチャー企業を興すのであろうか。アメリカは、高校・大学の峻別、そして理念上離れているものをいかにうまく「接続」(つまり、高専のように接着・同質化・混合化するのではない!しかも高専のように中卒後の話ではない!)させるべきかが問題となる単線型教育制度の下で、一部の早熟者への飛び級措置、これからその分野を学ぼうとする「高校生」があくまで「意欲」喚起と円滑な「移行」のために大学分野における学習を先行させようとするシステムである。リベラルアーツカレッジの例で言うと、このリベラルアーツカレッジは早期に専門教育を組み込むことが、たとえ「意欲」喚起や円滑な「移行」になる場合があるとしても、「専門」分野における能力を「顕在化」させるとは考えていない。ましてや、「かすがい」的(かつ楔形に)に組み込もうなどとは考えていない。bridgeを架けて欲しいところに、clampを打ち付ける必要はないのだ。もちろん、アメリカにもリベラルアーツカレッジの他に、P-TECH等の独自のハイスクール-カレッジシステムがあるのだが、こちらは、どちらかといえば基礎教育のうえにキャリア・職業教育を志向しているようであり、優秀層の潜在能力や創造力の開発とは別の問題意識が必要であろう。

 高専出身者にもベンチャー企業を興したり、そこに勤めようとする者もいる。しかし、システムそのものへの再考を迫るような思考やその実践に至ろうとする、社会を巻き込んで自分の技術を問おうとする、大企業を積極的に飛び出して何かやってやろうという者は、やはり、アメリカと比べてはもちろんのこと、日本の大学生と比べても高専出身者あるいは高専経由の大学出身者には割合的に少ないように見える。これを現代流というか企業人流に言えば、高専教育では、幅広い視野に基づいた経営的思考を発揮できない、外国人に日本の文化を説明できず渡り合えない、海外に目をやりグローバルな展開を志向できない、とでも言えばよいのであろうか。いずれにしても、①高専の教育目標、②早期の専門教育導入および一般的学力開発や教養の軽視、③同質の人間が狭い範囲に長く囲われてしまっている、④少なくとも結果において語学に非常に疎い等の理由で技術者や人間としての視野が限定されてしまっていることが影響しているのではあるまいか。そもそも、最近では、高専生の気質や能力そのものが、どこか大企業に勤められれば・・・というふうになっている面もある。高専と比較する対象群の選定を誤っているのかも知れない・・・。もはや、技術や経営でリーダーシップを取ることを諦めているのか、あるいは、高専とはそういう運命にある集団なのか?、それにしても、高専が専門科目や実験を生徒に早期に施している一方、高校生のうちはせいぜいクラブ活動の科学部でちょっとした機器をいじっていた程度で、幅広い科目での受験勉強を経て大学に入って、しかも、専門課程が本格的に始まるのは、まだ先だったという連中の方に、先に述べた“システムへの挑戦”“社会を巻き込んで”“大企業の枠に囚われず”何かやってやろうという連中が目立つのはどういう訳か。もちろん、高専出身者にもそういう連中がいるのは否定しないが、やはり、割合的に少ない。中学卒のみずみずしい感性を持った時期には、専門に凝り固まらず語学・文学・歴史・基礎科学に幅広く接していった方が正に感性が磨かれるのである。そこから専門分野に特化していっても遅いということは全くない。好きなことだけしてお買い得などではないのだ。早期に特定専門分野に凝り固まった実験や実習は、多くの国の多くの教育制度にあるように、自ら発展的思考をなす者(そして工学部なら手を動かす)が第一に受けるべき教育ではない。例えば、英語やドイツ語ではない、あるマイナー言語に習熟したい人がいるとする。実際、日本の外国語大学にはマイナー言語の学科が多くある。これに習熟するためだけなら、中卒後から多少の教養科目を入れつつ徹底した訓練をすればよい。正に「早期」の「語学実習」である。では、そのような教育で政治家や外交官が作られるかを考えてみよ。指導的組織人が作られるか考えてみよ。否、そのような教育による人間がどのような類型に当てはまるか想像してみよ。戦前、実際はそういう学校ではないのにスパイ養成所と揶揄された学校さえも多くは旧制中学卒業生を入学させた。今なら高校生に幅広い試験を課して入学させる。そのような選抜を経て回り道させても、最終的にはちゃんと語学に習熟できる。次に、どうであろう、「鉄は熱いうちに打て」の論理で、優れた外科医を育てるためと称して、中卒後直ちに医学の基礎教育と外科の実践的教育を受けさせるべきなのか。バカも休み休み言えである。人生と人間の命について経験少ない少年にそんなことをさせられるものか。多少は手先が器用な程度の医者に体を切り刻まれるのはまっぴら御免である。以上のあげた二つの例はもちろん極端な例ではある。しかし、例えば「鉄は熱いうちに打て」の格言は、「早く」やればよいという価値だけを含んでいるのではない。「時期」が大切だという価値を含んでいる。そもそも「打ち方」を間違ってはどうしようもない。工学部や理学部志望者なら、「鉄は熱いうちに打て」の論理で、徹底して数・物・語学を中心に一般科目を鍛えるべきである。そうすれば、まさに、将来、剛性のある精神と技術が身につくであろう。

 逆に言うと、高専の教育というのは、大学とは制度も性質も異なり、特定分野における定型的・ノウハウ的能力を伸ばすのであって、そのような人材育成に徹し(基本的に)進学は予定していないというのであれば、社会や生徒に誤解を与えることもなかったであろう。ちなみに、高専生が「論理的思考」はたまた「創造的思考」において劣るという評価は、結構なされている。

 ところで、高専生が大学工学部に編入学するようになってからは、大学工学部教員になる者も増えてきた。工学専攻者の1割が高専出身者だとして、さらにその高専生の4割が専攻科又は大学に進学するとすれば、その比率ぐらいの割合、つまり、3パーセントから多ければ5パーセントぐらいの割合で、私学を含む全大学工学部教員の割合を占めてはいるだろう。しかし、高専出身者が高等学校からの一般入試を経た大学工学部生より優れているというならば、工学科目を一度履修したうえ大学で重ね塗りして、高専側の論理によれば「優秀」であるはずの彼らのこの比率が圧倒的でなければならないが、そうでもない(仮に、本当に仮の話だが、大学の工学者の1割が高専卒だとしても、一応、「工学」専攻者に占める高専卒の割合は1割いるから、比率的に「多い」などとは断じて言えない)。逆に言うと、先の例と同様、大学工学部の研究者の圧倒的多数は高校生のときに特に工学において顕在化された能力を伸ばしたわけではない。むしろ、潜在能力を伸ばす方向にあったのだ。もちろん、この一部の高専出身者が専攻分野においてすこぶる業績があることは素直に認めなければなるまいし、中には、世界的研究者になった人もいるだろう。また、技術科学大学(以下、用例は様々あるもののの、技科大)は地方国立大学を中心に多くの大学工学部に人材を輩出している。しかし、結局は、大学教育を経由した結果であることを忘れてはならない。そして、特に高専経由の大学出身者の主である技科大については、技科大にこれが設立後一定期間、全国の高専の学科トップが殺到していた時期があったことも考慮せねばなるまい。つまり、技科大は、ある時期まで、地方の秀才である高専トップの生徒を独占していたという背景がある。

(本来、地方の進学高校の工学系志望トップクラスは、いわゆる旧帝大をはじめとす難関大学を目指し、進学先も全国の大学にばらけるはずだなのだが、高専生は一部を除いて技科大しかないという状態だったのである。また国側の配慮で、平均的な地方国立大学より早くから博士課程が設置されていた。筆者は、高専経由技科大出身の大学研究者の多くはこの技科大に高専最優秀層が殺到していた技科大設置初期中期の時期の人たちではないか、そうすると、各地方国立大学に博士課程が整備され、しかも、技科大が高専トップを独占できなくなると、技科大出身の大学研究者は割合的に少なくなっていくのはないかと推察している。もちろん、初期高専生ならぬ、初期技科大生や前述した山梨大学等の初期編入学生が専門分野において大変優れており評価されていることは疑いを得ないことである。)

 そもそも彼らも最初から普通に高校・大学と行っておればよかったことである。なるほど、企業はどうか別として、工学研究者の世界は実力評価の社会である。どこどこの高校とか高専であるか等は、しかるべき研究者はあまり見ておらず「高専卒だからスゴイ」という見方などしないのだ(但し、高専からの大学進学者が極めて少なかった時期は、マイナーなはずの高専出身者が優秀ぶりに驚いたはずだし、評価して見せた大学教員もいた。また以上の技科大の例もある)。このことは、少なくとも工学部の世界で「○○高校はやはり数学に強い」とか「スゴイ」などと言わないことを考えればわかるだろう。どうせそうなら、最終的に同じ程度の専門科目を学ぶのであれば、むしろ、受験という試練、文理双方の広いもモノの見方を身につける、異なるものの考え方をする人と接する、環境を変える等をした方が、長いスパンで考えて、その人間にとってはいいのではあるまいか。以上にも少し触れたが、青年のうちは、たとえ受験を通じてであれ、数学や語学分野の基礎学力と潜在能力を伸ばした方がよい。優秀であればこそ、そうして欲しい。そして、筆者は、一歩踏み込んで高専の存在意義と結局は大学教育を経由している彼らが高専教育独自の成果なのかを問うているのである。高専出身者が大学研究室に一定割合でいるというのは、大学・大学院進学を許された高専の学生割合からは当然の割合であって特筆すべきことではない。旧帝大や独立大学院大学の大学院に全体の学生比率・割合よりやや多くの高専専攻科出身者が在籍するのは、地方国立大学の大学院が博士課程まで充実化してそこの出身者が昔のように他流試合をしなくなっている面も強いと聞いたことがある。また、高専専攻科卒ではハクが付かないという隠れた理由もあるだろう。

 最後に、厳し言い方だが、“大学教員になる人もいる”などと言う前に、一人の工学者を作るために、一人の優秀なはずの退学者、一人の優秀なはずの下級技術者を生み出していることも考えてほしい。高専から大学工学部教員になりうる比率が一般入試工学部出身者の2倍はあるという安易な仮説もあるようだが、高専で「工学」を志したはずの者のうち、脱落者が入学者の2割、高専からの大学又は専攻科に進学しない者が5割いる(8割残ったその6割)ーなぜそのような現象が生まれるからは次章以下で十分説明するーのもとでは、全然意味のある数値ではない。また、工学専攻者には、企業研究者や開発従事者というもう一つの優秀層の山があることも忘れてはならない。歴史的には、高専は大学とは異なる独自の教育機関であると標榜しながら、結局今となっては、“大学教員になる人もいる”と居直るのだから、開いた口が塞がらない。

4.賃金は大卒・院卒と異なる。下級技術者化する高専卒。しかし、「一部」には優れた最終学歴「高専卒」もいる

 『モデル』氏の「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」という問題意識の低さはさておき、以上の点を含む高専教育の位置づけと成果については、野村正實『日本的雇用慣行』及び同HPから厳しく問題を指摘されている。『モデル』の著者は高専の「存在意義」が問われるこの問題提起にどう答えるつもりなのであろうか。重要な指摘だが、あえて引用をしない。是非、野村氏の本書を確認して頂きたい(賃金は大卒と高卒のせいぜい中間、下級技術者化する高専卒、独自の高専教育において人材を社会に供給しているとは言いにくい等)。

 ちなみ、高専問題を問題として的確に認識しながら、現在では大卒がインフレ化しているので、高専卒の実践的な能力が高く評価されていくのではないかという者もあるかもしれない。しかし、①野村氏が前掲書で指摘するように、高専卒の地位が相対的にに低くなったのは、大学工学部の定員増加や増設があったこともひつとの理由で、この大卒郡には、旧帝大・名門私学理工系・地方国立大学の他に、大量の中堅上位の工科系大学出身者も含まれていることを忘れてはならない。それらに比べてもなお、(当時の秀才であった)高専卒は、下位に扱われたのである。②また、同書によれば、依然として、大企業は学歴主義的な人員配置をしていることが示されている。③さらに、大企業における特に若手の待遇は「高卒並み」と高専卒が吐露しているケースがあり(野村前掲書や『学歴主義と労働社会』では、高専卒は大卒と高卒の中間に位置するという調査結果が引用されている。ただし、近時は様々なデータが出ており、待遇問題については留保すべき部分もある)、これは、あながちウソに見えない。つまり、このような“高専卒が見直されていく”という意見は、高専卒は、中堅大学に増設された大学工学部卒業者や中堅理工系大学卒業者に比べても不遇を買ってきたが、今日に至って本格的に、下級技術者や技能労働者として処遇されるようになったということを、言い直しているに過ぎないのである。大卒インフレ問題は、なるほど下位大学理工系において進んでいるかもしれないが(下位文系ならなおさらだろう)、中堅以上の大学特に理工系では進んでいないと考える。そして、ついには、中堅・下位大学の工学部出身者が下級技術職や技能職に食い込んできて、高専は益々存在が薄くなるという事態にまで陥いる。

 同様に、高専卒を、大企業におけるリーダー的高卒現業職になぞらえ、この高卒現業職も研鑽を積めば、将来大卒を指導していけるなどという、いかにも大企業における現場道徳な価値観を持ち出す者もあるかもしれない。しかし、これは、大企業高卒現業職が全体の就業者の中でそんなに多くはなく、仮ににその恩恵に預かれるとしたらごく一部の伝統的な工業高校の中のさらに一部の生徒であり、しかも、採用数が偶然的要素(団塊世代では、とにかく都心部に出ていけば、大企業の工場労働にあやかれたのである。今はちょうど、その団塊世代が完全引退して、その波が来ている。しかし、このわずか前には、地元の古い工業高校を出れば得られていたはずの、地元進出大企業工場への就職がシュリンクしたのを思い出したまえ)決まっていることを忘れている。しかも、当の高専出身者自体が、(工業)高校卒では単純労働にしかつけないと考えて、高専を選んでいるのを忘れいてる。高卒で会社に入ったベテランが、“一時的に”大卒に仕事を指導するなどという例は、どこの会社のどの時代にもあったことである。ちなみ、私筆者は、学歴はないが、素手で日本の製造業を支えてきた、中小零細・下請けの職人・技能労働者への尊敬を忘れたことはない。待遇が抑えられ不況になれば真っ先に泥をかぶる彼らと大企業内の非正規労働者の犠牲のもとに、大企業現業職の待遇は支えられているのである。あるいは、中小企業の開発力には目を見張るものがあるが、これと、大企業中堅下級技術者との関係についても同様であろう。確かに、大企業から技術度や熟練度の低い業務が外部化される傾向はあるだろうし、大企業内に熟練度や専門度の高い労働者がいるだろう。しかし、高い技術力や熟練度を持った者が、所属する企業規模が小さいというだけで待遇が低い、逆に、能力一般や技能面で下層に位置する大企業単純労務職の方が待遇がよい(と当人らは思っているが、経営側はそうしたいと考えているだろうか?)という面もあるわけである。たとえば、部品産業で神業ともいえる技術や技能をもっているのは中小企業なのであるが、これらが正当に処遇されてきただろうか。また、特異な技術をもった中小企業や数人で起こしたベンチャー企業が対等にコラボレーションする事例も見られる。このような労働問題や産業構造あるいは企業論理への視点を忘れて、工業高専から大企業下級技術職・技能職、工業高校から大企業現業職についた者を、その教育がすばらしいからそのような企業に入れるのだと宣伝するのは、いかにも視野が狭い。

 以上で上げた2つの例は、そんなことをいう人がいるのかとイブカシがられるかも知れない。しかし、意外に、地方や非学歴保持層ではよく見られる、悪く言えばいかにも通俗的な考え方である。

 筆者も、高専出身者が全て「下級技術者」に過ぎないなどというつもりはない。中には資質を認められて、中核的・中心的技術者になるものもいる。国立高等専門学校機構『目指せ!プロフェッショナルエンジニアーわれら高専パワー全開』にはそれが表れている。ところが、この本に出てくる面々、特に研究職や大企業開発職にあるのは、年代的にはほとんど初期生以降の7期8期生ぐらいまで(もちろん年齢的に中心的存在になるという要素もある)、また若手の学歴は最終的には理工系大学に編入学した大卒・院卒以上がほとんどであるということである(また、なぜか、高専は「中堅技術者」「臨床的技術者」を養成すると標榜しこれになった者の方が多いはずなのに、生産管理等の部門に配属された者の紹介が非常に少ない)。優秀者が高専に入学してくる、あるいは、高専卒で大企業開発職に抜擢される者があるというのは、大学進学率や社会意識などの「時代性」があるのである。また、現在では大学に進学しないと開発職には就きにくい時代になっているのである。若手でも、能力や専攻分野次第では高専卒の肩書で院卒に優るとも劣らない仕事をしている者もあろうし、また、場合によっては「転換試験」で上級技術職に就く場合もあるだろう。しかし、その実数がどんどん減ってきている、無くなりつつあるというのが多くの高専卒の人たちの実感であるはずだ。また、この面々もそれを知っているはずだ。心を鬼にして申し上げておく。こういう本と同様の「美辞麗句」を高専は繰り返してきたのである。彼らがなくてはならない存在であることと、高専がなくてはならない存在かは、別問題である。ほかの個所でも述べるが、彼らは時代が時代なら条件が揃っているなら「高校」「大学」でよかった人たちなのである。また、この面々の裏に優秀でありながら不遇を買った者、あるいは複雑な心境・状況におかれた者も限りなく存在するのである。全国高専の選りすぐりを集めたこの本と同じ論理で、”工業高校生も昔は凄かった””技術職に就きたかったら工業高校に行きましょう”という本が出来るであろう。

  野村正實『学歴主義と労働社会』108頁は、学歴社会は「1960年代後半」あたりを学歴社会が成立した時期としている。一方、筆者は、「7・8期あたりまでは集団としても凄く優秀だった」という高専教員の述懐を聞いたことがある。高専7・8期の入学時期は1970年前後である。あたかも、1960年半ば以降1970年半ばまでは、大学進学率が急上昇している時期であるのはよく知られる事実である。逆に言うと、1970年頃は、まだ学歴主義を内面化できずあるいは「大学進学」を視野に入れない層が、地方を中心に厚く存在・混在していたと言えるのではないだろうか。1970年のこの時期、高専の入試倍率はまだ3~4倍を保っており、1973年頃には2倍程度に落ちていった。

 科学技術振興機構『科学者になる方法』には、ある高専生が、高専に入ったものの、工場見学で先輩達が中堅研究者や中堅技術者という位置付けで働いているのを見て、もっと自分の能力を発揮できる道を選ぼうと考え、高専を中退して旧帝大理学部に入り直した話が出ている。この高専生は、年齢的には高専7・8期あたりである。この人は高専の教育内容に文句は何も言っていない。逆に満足していたかもしれない。しかし、自身も優秀でありながら、初期高専生たる先輩たちの姿を見てきた7・8期生の肖像として興味深い。

5.偽りの言葉

 狭い範囲で通用する道徳的な教訓には、もちろん真実が含まれている場合も多いが、高専に限ってはそうではない。下記の言葉は、パンフレットに出てきたり、筆者がこの耳で聞いたことがある言葉である。ここまでくると、洗脳である。

①「進学校では競争が激しいので落ちこぼれて、国立大学工学部へ入れない」

 信じがたい話だが、国立大学工学部学生の大部分が進学高校出身者であることを忘れて、このようなことを言う教員や学生がいた。なるほど有名進学校でも落ちこぼれてどこの大学にも入れないということは結構見られる例であるが、高校生が受験で必死になっているときに、高専生は遊んで留年退学・・・こちらの方がよほど深刻である。論法が逆である。競争に参加すればどこかに入れる。院でやり直しもきく。

②「大学生は理論ばかりやっているので実験が出来ない」

 理論ばかりやっている大学生はいるにはいるが、大学生も学部終盤になると、基本的な実験作法を身につけている。というより、明治時代からそうしてきている。有名なところでも後発の私立大学工学部では学生実験がままならないところがあるが、地方国立大学では少人数で学生実験が出来るから、そちらに進学しなさいと、進学高校の先生がアドバイスするくらいである。だいたい、理論ばかりのその学生も勉強するだけ全然マシである。日本では東京理科大学が理学中心でありながら、実験精神をも伴っているだろう。そういう大学もあるのである。名門私学にも古くから工学部は設置されてきているし、旧制専門学校を前身にもつものも数多く、実学・実技・実践教育を標榜してきた。高専の場合、工業高校と同様カリキュラム上実験実習が早くから導入されているが、実技・実習教育の淵源は明治時代にさかのぼることができる先輩の学校がちゃんと存在するのだ。しかも、その高専の実験施設は貧弱である(ただ、これには同情すべき点がある)。先輩面っていうやつだ。ただ、地方国立大学・新制大学工学部でも、これが出来た頃、旧制専門学校・高等工業時代と異なり形式的に一般教養課程を導入したので、実践力が落ちた“時期”があったことは、他の章でも触れる予定である。また、大学院までを見越した教育や、大学院生との研究・実験まで考慮に入れれば、高専の方が実技・実習が充実しているとか高度などとは到底言えない。

 その他、今日に至っても、大学工学部では「設計製図」をやらないとか、大学工学部の専門科目の時間数は高専の半分以下、という尾びれのついた話を信じている者さえいる。高専は実習が多いと標榜する一方、大学の卒業研究(学部4年生のほとんどの時間数)の単位はカウントしないわけである。

③「高専生は4年5年の時に実験実習に追われるが、大学生は教養課程で遊んでいる」

 なるほど一見そうである。ところが、ちゃんとした大学の工学部生は、まず、受験の段階で大変な努力をしているが、高専生はそれをしていない。一般教養で遊ぶ人もあるが、専門課程に入ったときの忙しさは配属先によっては高専の比ではない。そもそも一般教養が削られていることを何とも思っていない時点でどうであろうか。かつては、企業側や大学教員側も同様のことを言う場合もあったが、教養部改革と工学教育の主流が大学院修士に移ったため、それは当てはまらなくなった。高専関係者は、モデル氏のように「周囲が勝手に落ちていった」とか「勉強しない大学生」などと強調する。仮に大学一般にそういう面があるにしても、工学部ではそうではない。落ちて、勉強しなくなっているのは当の高専生も同じではないか。大学工学部には実験やレポート、学内試験がないとでもいうのか。

④「あなたがたは学生です」

 これは、高専生は、高等教育機関に属しているのであるから自立心・自律心をもって行動すべき、という意味で設立当初から使われている言葉である。ところが、これを逆用して、あるいは逆に作用して、高校生の年代でピアス・茶髪・喫煙、あるいはもっとヒドい非行に走るものが結構多い。これはネットの罵詈雑言を取り上げたものではない。現実に高専の紀要等でも取り上げられる厳然たる事実である。また、バイクや自動車事故もかなり多い。それだけなら、一部の有名私立高校や放任型名門高校でもありうる。しかし、5年間受験あるいは就職活動がない、あるいは私的共同体的な(名門)私立高校のように茶髪等の自由は与えるが一定ラインを超えたら直ちに処分等の措置もしにくいため、生徒側に自制心が働かなくなるのである。また、男子生徒が圧倒的多数で、しかも、これが「長期」にわたることから学校やクラスの雰囲気が退廃的になってしまい、そのまま単なる不良の集まりみたいになることも多い。中学時代に比較的成績が良かった者が(も)入学する学校としては異常な事態である。逆に設立当初は、学業と気質の面で生徒の質が今より格段に上だったにもかかわらず、管理教育を行っていたと聞く。しかし、これら結構な割合で存在する素行不良者(中には、どうしようもない、クズやカスもいた。正確に言えば「クズ」と「化した」というべきか?)の中に混じって、一部に優秀層や純朴な生徒が在学している(これには「専門」さえやっていればいいのだから高専が天国という者の割合が大きい。あるいは、家が貧しいからここで学ぶしかないという者もある。筆者も貧乏の出だったから、こういう言い方をするのを許してほしい)というビミョーな雰囲気は、内部の人間でなければわからないであろうし、逆に高専生や教員はこれを何とも思わくなっている。また、教員も若年生徒への厚生指導や生活指導の経験が浅い者が多いためか、あまりタッチしようとしないケースが多い。

⑤「大学に行ったら就職がない」

 当の高専は最近は進学を売りにしておきながら、「大学に行ったら職がない、中小企業にしか入れない」等と"豪語"する者もいる。高専生は視野が狭いあるいはそのように仕向けられるので、ちゃんとした大学ならしかるべき就職先があることが分かっていないのである。例えば、小規模ながら伝統のある化学メーカー、コンサルティング会社、特化型の基盤部品産業、試験研究・調査型企業、大手企業グループ内で卓越した技術力を誇る専門分野特化型関連会社に一流大学・国立大学の工学部や理学部出身者が入る例は結構あり、彼らはその企業で中心的立場に立つ。一般には聞いたことがない企業でも、伝統と実績があり実は東証一部に上場しており、あるいは非上場であっても、その業界では知る人ぞ知る世界的にも有名な企業が日本には非常に多いのであるが、一応は工学分野にあるはずの高専生はあまりそれらの企業群が視野に入っていない。もちろん、これは高専出身者が就く職種や職階、高専側の宣伝にも関係している微妙な問題でもあるが、その構造はこの文章全体を読んでもられば理解できると思う。但し、専攻科修了生を大卒並みに評価する一部の上場中堅企業や中小企業も存在するので、その企業群まで見込んで就職活動をすると、「知る人ぞ知る」企業に目が向く場合もあるだろう。もっとも、専攻科が大卒並みに扱われる場合があったところで、高専問題はそれはそれで残る。

 もちろん、大学進学率50%を超えた今日、その半分にその学歴に応じた仕事がないということは当然起こっている。しかし、以下に述べるように、時には勝手に国立大学工学部と比較しておいて、就職のときだけ、都合よくFランク校と比べるという論法は、高専関係者がよく行う。

⑥勝手に国立大学工学部と比べる

 高専関係者は、同じ「国立」というだけで、勝手に高専を国立大学工学部と「同等の教育内容」「準じる」「その割合中、いくらかは・・・」等とやり、眉唾ものの怪しい数字を出すこともあるが、ちょっと待ってほしい。他の個所でも述べたが、日本には、結構な数の私立大学理工系があり、これには、戦前からの伝統がある大学も多く、実力を蓄え就職も悪くない。伝統私学に工学部が新設される例もあったが、これが高専の後輩ということはなく、すぐに大学院課程が設けられた。新興の理工系大学についても。学生の質に問題があっても、教員は学位をもっており学位も授与でき、実験設備も大学としての体を保っているし、選ばなければどこかのメーカーに就職自体はできるだろう。高専関係者は、高専の存在を生徒や社会へのアピールのために、私学の存在を無視することが多いのである。これには、高専の校長が当地の国立大学工学部教授出身者ということも大きく影響している。特に地方では、私学の工学部がない、あるいは大都市圏の私学への進学が一般的でない地域もあることも影響しているだろう。ところが、日本全体でみたときに、勝手に「国立」枠で括って何を言いたいのであろうか?そんな括り方をしていいなら、地方では大体、各県に国立大学工学部1つと国立高専1校があるのであるから、どうとでも言えてしまうではないか(「国立」工学系学生の4分の1は高専卒等・・)。ちなみに、高専卒が、高専卒で就職したときに、入社時に驚くのは、東大京大等のとてつもなく頭のいい連中に出会うことと、それまで高専生が眼中においていなかった私立理工系出身者の数に圧倒されることである。地方国立大学工学部卒ももちろん根を張っている。これらには、実は、大したことはない連中もいることもあるわけだが、頭から私立理工系を無視するのは全く不当であり、誤解を与える。

 他にも、「一般教科の授業時間数は、普通高校の理系コースから大学工学部の2年までに学ぶ類似科目の時間数とほぼ同じ」というデタラメ・嘘八百や、「確かに一般科目は少ないが、受験がないので効率的に学べる」という伝統的な虚栄を張っている高専も数多い。いつまでそんなことを言い続けるのか?誠に罪深い限りである。逆に、受験がないから英語が出来ない、効率的に学ぶというより手っ取り早く済ます=軽視する風潮を生んでいるのである。

⑦「高専はエリート校である」

 この種の言葉は、入学後のオリエンテーションであったと記憶しているが、教員ではない学生課長か誰かが言って挨拶していたのを思い出す。先進国で、いな、日本でも、教養教育を軽視した学校をエリート校とは呼ばない。なんでエリートの処遇が大卒と比べてこれだけ問題となるのか。狭い高専世界で、しかも1年生に向かって、実態に合わないことを吹き込むのは、「洗脳」と揶揄されても仕方あるまい。

⑧「そんなことも知らないのか」

 高専のカリキュラム上、たまたま、早く学んだだけの内容を盾に、大学工学部学生や大学工学部出にぶつける言葉。それを言えば、工業高校3年生が大学工学部2年生をバカにできるであろう。見苦しいだけである。ものごとには順序がある。英語の学力や数学の応用的能力が劣っている、あるいは、「後」に大学生が学べば一気に追い越されることをわかっていない。しかし、筆者は、そういうことを言ってしまう高専生「個人」を非難したり憐れんだりまではしない。そういうシステムに巻き込まれたらそういうメンタリティになってしまうというだけのことである。

⑨「20歳までの教育は高専に任せていただき、大学は20歳から教育研究指導をしてほしい」

 誰も読まないだろうと思って、あるいは、本当に井の中の蛙になってしまって、あるいは、内弁慶的思考で、教員が紀要等に書いたりすることがある。恥を知れ。胸に手をあてて考えてほしい。そういうことを無責任に言い放つ者に限って、自分の子弟だけは別だったりする(筆者の知る限りでは、生え抜きを除く高専教員で、自分の子弟を高専に入学させようとしたり、実際に入学させた教員はいない)。逆に自分の問題ではないから、そういうことが言えてしまうのである。

 まだまだあるが、これ以上は止めておく。やや、俗な言葉で語ってきたが、彼らの言葉の背後にあることを炙り出すために、あえてそうした次第である。真面目な生徒もいること、しかるべき知見を持った教員がいることは否定しないが、真面目だからこそ、世間の常識からかけ離れた論理を信じてしまう場合がある。

 

 

 

 

 

 

 

第3章-高専はモデルにあらず!(1)数学力・英語力の欠如、そして学力問題-

1.ある小論から 

 かつて、学力低下と「ゆとり」教育批判の文脈で、西村和雄ほか編『分数ができない大学生』が話題となった。この時代の、これらの問題提起は、その後の教育政策にも影響を及ぼした。

 ところで、同じく西村氏が編者となった『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』という本に、実は、高専とはどういうものであるか、を示した小論がおさめられれている。それが、ある高専教員による小論「モデルは高専にあり」である(以下、『モデル』)。この小論で述べられている、著者本人があげる高専についての「事実」は、第一に、高専とはどの程度のものかを示している。第二に、これらの著者本人が美点と思って挙げている事実は、よく事情を知った者や教育についての一定の知見を持った者なら、高専の美点ではなくて「欠点」であるに過ぎない、あるいは、なぜそのような高専についての事実が美点であるかの論理的説明が欠如している。そもそも、せっかく西村氏らが本質をとらえた問題提起をしているのに、ここで述べられている一編の高専教育論に限っては、学力低下という教育問題を問題として論じていないのではないだろうか。これまで高専教育に向けられてきた批判を一切理解していないのではないか。創立以来ジワジワ学力が低下している当の高専が、学力低下にかこつけて、高専制度の欠陥に蓋をして高専こそモデルあるというのもいかがなものか。この小論を題材に、教養問題のほかに、高専およびその学生の学力問題を扱っていく。

 ちなみに、この『モデル』が書かれた年次は2001年と新しいものではないが、よく、高専教育の内容をよく表しており、また、書籍におさめられているという便利さもあって、あえて、題材にした次第である。現在の高専教育の実情は、わたくし筆者が批判した価値的部分を除き、この本の内容とそんなに変わらないと考えている。

2.高専の一般科目は、高校理数系の約6割の時間数。数学でさえ危ない!

 『モデル』91頁では、一般科目が、高校理数系102単位(当時)に対して、高専66単位であることを素直に認めている。普通の人なら、6割5分という事実に驚愕するであろう。ところが著者はオカマナイなしに、高専では、数学だけは「同じく18単位」で、高校の内容を「二年生までにすべて学習し」、三年次には大学1年生が学ぶ内容を学ぶことを強調している。さらに、95頁では、物理などについて、大学受験の勉強を差し引いても、「少ない」ことを認めている。『モデル』では述べられていないが、化学については、物理以下である。

 以上の内容だけでも、高専とはどういうものか、どうも高専教員の問題意識は低いのではないか、ということはわかるのであるが、さらに、高専の実態に即して述べていこう。

 ゆとり教育で揺らいだ時期があったとはいえ、国立大理工系入試や一部の名門私学理工系入試では、多くの場合、理科を2科目選択させられる。さらに多くは物理か化学は必須、物理・化学両方選択もありうる。大学工学部で物理と化学の理解を欠如すれば、学ぶ資格がないというわけで、入試によってその学力を担保しているわけである。そして、入試問題も、センター試験の基礎から二次試験の応用まで決して易しい水準ではない。名門私学の理工系でも理系科目については同様に難しい。ところが、高専では、そもそも、単位数が少なく、高校生が入試のために時間をかける問題演習の時間が乏しくなっている。確かに高専は物理と化学が必修だが、その能力担保は、授業さえ聞いていれば何とかなる学内試験のみであり、また、実際の習熟度も高校理数系よりも低いとみてよい。

 さて、数学力である。まず、高校生で国立大学工学部や名門私立大学工学部や中堅私立理工系大学に入学しようとする者は、数学Ⅰから数学Ⅲまで必須であり、その入学試験内容は、上記で述べた物理や化学同様、高い学力水準を要求している。したがって、しかるべき水準以上の高校生は、教科書だけでは足らず分厚い受験参考書で勉強しているのである。ところが、ここからが、物理や化学と若干違うところであるが、高専の場合、なるほど、3年生までに扱う範囲は高校よりも多いが、難しめの問題を解いてみる等の時間が少なく数学的思考(試行)の深度が浅い。また演習が少なく習熟度も低い。つまり、高専の数学はとにかく工学科目に間に合わせるため、数学概念を高速でなぞりつつ、やさしい練習問題を解いているというのが実情なのである。早期に専門科目の実習やレポートが開始されるため、他の基礎科目特に英語同様に、授業外での数学の課題学習の時間が圧迫されてる、あるいは、高専の宣伝通り生徒に「余裕」を持たせすぎなのも、理由ではある。物理や化学の入試問題を解くことは、数学よりも技術的側面が強いが、しかし、数学でこのような勉強スタイルでよいのであろうか。筆者などが言うに及ばず、理工学の問題は、最後は数学の問題である。さらに、数学そのもので養われた抽象的思考は、理工学分野の応用問題を考える際の大きな武器になる。ところが、そういう「思想」でもあるのであろうか、あまりに、数学で養われる潜在能力の開発や応用的展開に顧慮を払えていないのである。そして、ついには、企業側の評価でも、高専出身者(転換試験などを経て、あるいは編入学を経て大学院修了したものでさえ)が研究開発部門に抜擢された場合でも、彼らは「(微積分等の)数学力が劣る」部分があるなどと評価されているケースがあるのである。大学工学部並みの専門的学力を標榜する割には、専門科目と基本となる数学の学力が理数系または理工系志望の高校生と比べて、応用力において劣るのではないかという問題もまた、高専に内在する問題なのである(もっとも、高専とはそういう学校であるというのであれば、「大学工学部」などの標語は外してもらわねばなるまい。あるいは、大学工学部にはいりたければ、他の一般受験生同様の学力を担保してもらわねばなるまい)。なるほど、分数や小数が出来ない大学生はいるかもしれないがが、逆に、高専出身者では大学入試センター試験や二次試験の数学の問題を解けないものがほとんどである(そういうトレーニングを受けていないから、やむをない、というのは理由にならない。何故なら、彼らは、数学が出来ると自称しているからである。”出来る”というなら並み以上にやってみせろ、ということだ)。

 数学の基礎学力面でも問題がある。西村氏らの前著『分数ができない大学生』では、大学生に行われた簡単な算数や数学の学力調査が公表されているが、ここでは、大学生のおそるべき学力低下が示されている。しかし、よく考えてみたい。国立大学や名門私学の理系出身者については、分数や小数の計算ができるようにはならなかったということは絶対にあり得ず、もしそういう事実が現象として見られたならば、単に分数計算法や小数計算法を忘れてしまっているという程度のこであろう。この程度のことは、中学卒業後には基本的に入学試験を課せられることとない高専生にも当てはまると見てよい、否、その可能性大である。高専生の学力低下あるいは気質の劣化問題については、高専内部の紀要やまれに教育雑誌などに掲載されることがあるから、各自で参照されればよいが、実際、かねてより高専3年生の数学力の低下は問題とされてきたし(ところどころ言及する、中だるみ問題)、近時に至っては入学者の数学基礎学力、つまり中学生までに習熟すべき基礎計算力の著しい低下(同じく、学力の二山化)を示す教育実践例さえ見られる。なにしろ、大学受験生が紙と鉛筆で数学を勉強しているとき、高専生は計算機を与えられていることも影響しているであろう。この基礎学力問題は高専制度そのものとの関係でも問題を指摘できる。第一。筆者は「工学科目に間に合わせるために高速で・・・」と言った。ところが、間に合わせるために高速で習ったはずの数学の理解が表面的あるいはそもそも実についておらず、かつ、高専自慢の楔形カリキュラムで専門科目の方が先行してしまうことも重なって、大部分の生徒にとって数学と専門科目が連動しない結果をもたらすというものである。第二。たとえ、そうであっても、企業側は高専卒を中下級技術者・技能労働者としてしか期待していないから、就職自体は可能。就職自体は下級職としてなら可能だから、一部の生徒を除いて生徒側がますます数学および数学と工学科目との連動に無頓着になる。敢えて言うなら、勉強しなくなるわけである。高専教員は、外に向かっては、基礎科学教育という確たる基盤の上に・・・などと宣伝しているが、内では、こういう負の連鎖に直面していることが非常に多いのではあるまいか。これが負の連鎖でなければ、高専とはそういう学校であると言わざるを得ない。

 高専の数学教員のレベルは現在ではちゃんと高等教育レベルを保っていることは間違いなく、形式的な面でも、現在では博士号を持っている者が多い。筆者の如きに教育課程を批判されるのは、それこそ噴飯ものなのかもしれない。しかし、半分、同情もしていることを述べさせて頂きたい。筆者が知る、複数の数学教員(これらの人も大学教育経験者や修士・博士の学位取得者であった)に、まさに、「(高専1・2年次でやる内容を指して)これは高校の範囲ではない」という言動があった一方、「表面を・・・」「ひねった面白い問題もやらせてみたいのだが・・・」「ここで、一歩踏み込みたいのに、省かれている」「高校生で理学部数学科や物理学科、工学部応用物理志望者ならこの問題には食いついてくるのに・・・高専生は・・・」といった言動もあったのである。筆者の知り合いには、数学を本格的に学ぶために高専を退学して、理学部数学科を受験したものがあった。高専にも稀に天才が入学してくることがあるが、彼は、「高専の数学」に文句は言っていなかった。天才は天才だから、勝手に「大学への数学」等をどんどん解いて喜んでいたのである。天才にとっては教科書や教授内容・方法はどうでもいいのである。こういう天才は、そもそも高校や高専の数学教科書を”やれやれ”といってバカにするわけだから、サンプルにはなりえない。もっとも、高専教員が執筆する「高専の数学」教科書には思わぬ効用もある。例えば、社会人が金融工学を学ぶために数学概念を復習しようとする場合に、高校から大学工学部までの数学を取捨選択して絞ってあり大学工学部1年生程度には及ぶ「高専の数学」は役に立つ(佐藤優『危機を覆す情報分析』改め『勉強法-教養講座「情報分析とは何か」』212頁)。しかし、そうはいっても、幅広く厚く学ぶ高校から大学工学部に入った連中との数学の学力比較の問題はなお残ると言わざるを得ない。

3.基礎基本科目を軽視しているのは、高専である

 『モデル』95頁では、高専の過密?(この点については、後述)カリキュラムを解消するために、高専でも「カリキュラム削減」が行われたという。そこでは、「基礎・基本科目(小学校ならば国語・算数)には手を付けず後で、効率よく学べる科目(社会など)を削減すべきである」という。では、高専で、どのような科目を削ったかについては、記述がない。数学だけは、最低限の水準を保とうとするはずであるが、それでも、大問題あり、ということは上述のとおりである。そして、削られるのは、真っ先には社会というのであるが、次に、”すでに”徹底的に削られているものがある。それが、「小学校ならば国語」の「国語」である。

 なるほど、高専の教養軽視問題はすでに追及し、これが、ここに当事者によって自任されたのであるが、筆者が本当に言いたいのは、次の視点である。専門科目や実習科目などの応用的な科目をなるべく増やす一方、中途半端な数学力や理科科目の理解、そして「小学校なら国語」の国語を無駄なものとして削るなどして「基礎・基本科目」の習熟に致命的な欠陥を生じてきた高専が、何の資格があって、このようなこを言うのであろうーその欺瞞性である。さらに言うなら、「社会」を削って、後で効率よく学べるというが、学校教育内でそれが保障せずにおいて、「後で効率よく学べる」などというのも欺瞞である。往々にして”後で学ぶ”ことなどはない。この欺瞞性の指摘は、もちろん、著者個人に向けたものではなく、高専制度一般についての論評である。

 ちなみに、数学の教科書は全国の高専でほぼ高専用の共通教科書(検定教科書は高専には設定されていない)を使う場合が多いが、物理や化学は、担当教官の方針で、高専用の教科書や検定教科書を使用せず、大学の教科書又は専門書を使用するケースがある。しかし、年齢的には高校生向けで、かつ、授業時間がすくないため、ほぼモノにならない。高専生は、分厚い大学向けの教科書や研究的教科書を手元において、勝手に「スゴイ」と思っているが、学力水準は全く追いついていないのである。むろん、青年が難しい研究的教科書や専門書を手元に置いて背伸びをする効用は筆者も認めるし(高校や予備校でも、大学レベルのお話や参考書を紹介して、知的な関心を呼び起こすことが結構ある)、一般科目理系の教員の知的な反抗と捉えられないこともないから、規制すべきことではない。しかし、高専が全体として、そのような教育になっているとしたらやり過ぎだろう。高専教育には後期中等教育の内容が多く含まれているのであって、この内容を保証することも考慮しなければならないからである。また、そういうケースは、そういう先生がいて一部の生徒がこれに呼応するに過ぎないとしても、これに寛容になればいいことであって、別に「高専がスゴイ」わけではないことは念を押しておかねばなるまい。本当にスゴイ人は高専生でも高校生でも、教科書が何であろうと、勝手に専門書を読み込んでいくものである。

 ここまで述べれば、「高専があまり動かない間に」「周囲が自然に落ちていった」という見解の危機意識の無さとオメデタさを一々論破する必要性はない。

4.高専とは理念が反対の学校-アメリカ・リベラルアーツカレッジ

 『モデル』99頁は、蓮實重彦前東大学長の「アメリカでは大学院を持たない、いわゆるカレッジがたくさんあって」、その卒業後は、ハーバードやMITなどの「優れた研究型大学にどんどん人材を送り込んでいるのです」との言動を肯定的にとらえたうえ、カレッジを高専に準え、高専の「高大一貫」教育に意義を見出している。

 この理解にはは、大きな誤謬が含まれている。ここで蓮實重彦前東大学長が挙げておられる「アメリカのカレッジ」と呼ばれているものは、アメリカの「4年制」「リベラルアーツカレッジのことと見て間違いない。このリベラルアーツカレッジの特長は、確かに専攻や実験実習もありうるが、早期に専門科目を専門家になるために教え込むことに意味を見出さず、20歳や22歳までは、まさに広く一般教養を磨くことに重点を置き、卒業後に大学院で本格的に専門科目を学ぶことを前提にしている学校群なのである。いうなれば、「すぐ役立つことは、すぐに役立たななくなる」という理念があるのだが、これは、まさに高専の教育とは正反対の理念ではないか。日本にも、このリベラルアーツカレッジの理念を受け継いだ大学はたくさんあるが、例えば、ICU教養学部しかないのがその典型例である。

 気力を振り絞って、一言付け加えると、アメリカにはカレッジとはいっても、様々なレベルのものがあり、そこから、ユニバーシティに何らかの形で入学することもあるから、これに高専を準えたのあろうか。しかし、蓮實重彦前学長の発言が、「リベラルアーツカレッジ」を念頭に置いていないことは絶対にありえず、敢えて、批判した次第である。

 近時、アメリリベラルアーツカレッジに言及したものとして、池上彰池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター編』がある。実は、この本には高専についての皮肉な記述ー著者らは堂々たる教養人であるが、図らずも皮肉となっているーが見られる。つまり、みんながみんな頭でっかちになって、さらには大学を目指す必要などはない、多様な人がいてよいという、という文脈の中で、高専生は「身体的には頭がよい」というのである。しかし、この記述には二面性があるのだ。ほんの数行、必ずしも意図せず何気なく行われた対談内容についてコメントするのは気が引けるが、一応述べておきたい。

 「身体」で身についた「教養」、あるいは、前章において言及した阿部謹也「農夫の教養」というのは確かにあるのである。では、わずか1パーセントの特殊な枠に、「身体的に」優秀さ?をカムフラージュに、精神的な面でも知的能力の高いはずの人間を押し込んでよいのか。後述するが「身体的に」優れた層が厚く存在すべきというなら、この枠に全体の3割以上の人間を誘いつつ(しかも高専のような欺瞞的な宣伝をせずにである)、また「精神の教養」を持った一定層も必要なのである。しかし知識階級は前者の層に入るのを望まないであろう。あたかも、この本の著者たちは自分の子弟を、身体的に優れる?="実践的"“実学的”?教育を標榜する学校ではなく、教養教育を徹底するする名門ウェルズリー大学に行かせたいと、はしゃぎながら言っている。そもそも、この本は、すぐに役立つことはすぐに役立たなくなるとか、MITでは芸術や音楽も大切にするとか、実学重視が柔軟な思考を奪うとか、先のリベラルアーツカレッジのところでも述べたように正に高専教育とは正反対の思考のオンパレードの本なのである。彼らは、高専カリキュラムが教養ないし一般教育軽視の土台の上に成り立ち、中でも、高専の芸術や音楽の授業が極めて少なく薄いことをご存じなのであろうか(筆者の経験では、専任教員は皆無で非常勤講師がやれやれという感じで出講し、適当にスケッチして、音楽聞いて、という感じだったと思う。中学校の方がまだ厚い内容であった。国語が軽視されている以上の程度で軽視されているのである。もっとも逆に、高専でも音楽や芸術の授業がちょっとはあるのですね、と言われた時の方がショックだったが・・・)。芸術といえば、野村正實氏は自身のHP上で自分が大学生になったときに大学同級生がみな知っていた「エコールドパリ」を自分のみが知らなかったことを述懐している。池上氏らに限らず一般の知識人層は、この野村氏が感じたような(もちろん筆者も同じ以上の経験がある)ある種の“みじめさ″を理解できるのであろうか・・・。この池上氏らの本はまあ面白く読めるものだが、たまたま高専のことがほんの数行だけ話題になったにつれて、万が一にも高専関係者がこれを面白がって読んでいるとすれば(東工大つながりで、いずれ、誰かが言及するであろう)、よほど能天気である。高等教育機関と称してはいるが「教養」の存在そのものが問われている学校に、「身体」的な「教養」ならあるとしたり、ましてやこれに優秀層を誘うというのは例によって例のごとく欺瞞なのである。ちなみに、一時的には「身体的」には頭のよい連中が、通常ルートを歩んだ連中よりも、最終的にはたとえ「身体的」「実践的」な面でも優れているとは限らないことは、本章3章と次章4章で、「多様性」のワナについては第6章で言及してある。また、第1章の『アメリカの大学の裏側』という本に言及した箇所も参照したい。

5.高専生に自己学習能力があるか?

 『モデル』100頁では、高専には、その勉強のための学習塾や受験参考書がないため、高専生は「自己学習能力」の意識が高いという。

 これは一面をみたものである。高専の生徒間には、実は、過去問が流通していて、これで勉強している。高専の教員は1人当たりの担当科目数が多く、かつ、基本的に異動がないので過去問の効果は絶大である。大学入試でも過去問は重視されその分析は大学入試の合否に影響するものだが、さすがに全く同じ問題が毎年でるということはない。大学入試における過去問対策は、まさにある受験シリーズと同じ題名「傾向と対策」なのである。この過去問重視については大学入試でもそう、あるいは大学入試こそそうなのであるから評価が難しい部分があるが、では高専生に「自己学習能力」があるかというと、そういう問題でもあるまい。また、前章までに述べた「教養」問題と関連させれば、自己学習能力があるとは言い難い。高専のカリキュラムは一般教養が軽視されている。そこで教養がないなら、自分で教養を身につけるようにしてもらいたいところだが、これはしないのである。高専生のメンタリティには役に立たないものはやらない、生徒間の雰囲気としても教養を軽視あるいは蔑視する風潮があるからである。さらに、高専の教育は短期間に多くのことをやろうとしすぎるあまり、これをこなす勉強になってしまっていることも見逃せない。

 そもそも、マニュアル受験勉強というが、その受験勉強さえも、工夫してやらないと、つまり、自学の意識が低いと、成功しないものである。受験勉強も高次のものになると、今日はここまで覚えたが、こういう解き方をしたが、次は、こういう方法でやってみようというプロセスがないと身につかないのである。また、その過程で本物の知に目覚める場合もあるのである。

 そして、受験勉強を経た高校生も、ちゃんとした大学に入ったら、ものすごい密度で勉強する。工学部や医学部が実習で忙しいのは有名な話である。かれらは、大学という管理を解かれた放任の場で、やらなければ落ちるだけという場で、結局は、自学自習になるのである。自学自習できない者は落ちるだけという結果が待っている。確かに、高専は、高校と比べたら、やらなければ落ちるところまで落ちる。凄まじく堕落する者がいるのは大学と一緒だろう。しかし、逆に、これさえやってくれれば落とさない、という風にもなっている。19歳や20歳にもなって担任教師がHRを行ってくれる。高専からの脱落者は「自由」の産物であろうか。本当は「自由」がないところに勝手に自由を感じ、そして、自由そのものを履き違えているだけではないのか。

 もう一つ見逃せない問題がある。高専の中だるみ問題である(「中だるみ」はある意味では高専用語である)。①高専は長期5年間の在学で、②大学受験がないこと、③高専の専門技術教育重視の特殊な教育内容への適合不安も重なって、早い例になると2年生あたりから、本格的には、進学高校生が受験勉強している期間である3年生あたりから、勉強に意義を見出せず、留年・退学・自堕落・非行が目立つようになる。このことは他の章で述べることになるし、全国の高専教員の共通した悩みである。自己学習能力どころか、学習への意欲を失っているのである。筆者は思うのである。18歳で区切ってやれば、こんなことは起こらないのではないか、逆に、18歳で区切ったからといって工学教育が受けられなくなるわけではないのではないか、むしろ、区切ってあげた方が、よい教育効果を生むのではないか?

6.高専生は英語ができない
 『モデル』101頁は、高専教育の問題点を「例えば英語」で片付けている。この英語については、多くの高専生の英語力は、大学工学部に一般入試で入学した者の英語力と比較にならないほど低いと言わざるを得ない。受験英語は、語彙の増加、大量の英文を高速で読む訓練、抽象度の高い英文を読みこなす訓練、英作文の訓練になるが、高専には受験がないので、ついつい、おろそかになるのである。受験勉強というのは、先の数学の例と合わせて思わぬ効用を生むものであるが(受験英語の効用については、渡部昇一平泉渉『英語教育大論争』。特に渡部は、先の数学の例同様、受験英語による読解と文法重視の英語学習はこれによる語学習熟に加えて人間の「知」を開く働きがあるという。英文和訳や和文英訳つまり英作文などは、知的格闘技とまで言う。しかるべき水準の英文を読みこなし、作文も出来るようになり、しかも「知」に目覚めたければ、受験英語をやればよいのである。受験がないので幸せ?などとんでもない。筆者などは、受験英語が当たり前にある高校生は何と幸せなことかと思った。)、高専生のほとんどはこの効用に気づいていないか、たとえ気づいたとしても、やる動機が働かない。大学工学部教員の間でも、高専出身者は英語が弱すぎることが、定説となっているのは間違いない。なお、編入学者が飛躍的に増えた現在、応用数学演習のような基礎科学的な授業についていけないのも高専出身者が多いということである(昔の編入生はそうではなかった)。代わりに実験などはできるそうだが、修士課程の終盤になると高校出身者-というよりも、この方が圧倒的に多いのであるがーも実践力が身についてくるため特に差はつかないそうだが、英語力や数学力は最後の最後まで差となって残るようである)。

 次に筆者なりに気づいた点を申し上げていくと、高専の英語教師の質は必ずしも低くはない。①ところが、受験がないここと教養を軽視する高専生の気質が相まって、彼ら教師が独自の教室運営に走ってしまう傾向がある。例えば、「LL教室の運営について」とか「特定目的(工業英語)のための英語」などの研究成果を、受験がないことをいいことに、試そうとする傾向がある。受験英語は少なくとも、日本という多くの国民が英語を使う必要性に乏しい国柄の国家にとって、少なくとも”読む””書く”ことの能力の基礎を作ってくれ、その基礎があってのLLなり特定目的の英語なのであるが、繰り返すが、受験がないので受験英語さえ蔑ろにされて基礎がないところに応用を組み入れようとするため、モノにならないのである。生徒がモノにしていないのに、LL教室だけは立派で、そういう題名の教育実践論文だけやたら多いというのが(それを言えば大学の語学教師一般がそうだが・・・)高専という学校である。付け加えるならば、工学分野という特定分野の英語に間に合えばよいというのでは、その特定分野においてさえ足りていない結果を生み出すだろう。②第二、英語の学力を高めるためには、家庭での学習が重要である。一応、高専の英語の授業時間数は高校理数系の7割から8割程度を確保してはいる。ところが、この授業時間数だけで高専生の英語力を量ってはいけない。現在の高校生の在宅学習の多くは英語に振り向けられているのである。ところが、高専は、受験がないことに加えて、高校生の同時期に専門科目側からのの時間的・心理的圧迫があって(専門科目のレポートが忙しいことにかまける)、授業時間外の予習・復習・自己学習にあまり時間をさく風潮がないのである。このことをも大きいと考えられる。高専生の英語力は、平均していえば、高専5年間で、高校2年生が身につけるべき英語力に及んでいないであろう。中学生レベルで止まっていると指摘されることさえもある。受験英語あるいはこの理念に基づく英語教育さえも放棄したら、どの程度の学生が生まれるかという好例である。もちろん、古色蒼然たる受験英語には批判もあるのだが、読解・英文法、あるいはその題材としての英文学や内容あるエッセイを読むのは無駄という発想で、都合良く、TOEICだけ得点を上げようというのは、いかにも寂しい発想で、また、効果はあがるまい。ただ、最近では、TOEICが英語力の指標にされていることもあって努力目標を立てているようである。また、一流大学ではさすがにTOEIC400点では相手にされず、そこを目指す生徒は高スコアを得る努力をしているようである。しかし、一流大学を含めて大学編入学をする者でさえ、一般入試組より、抽象度の高い英文の読解力・解釈力、語彙力、英作文等の英語力一般が格段に劣っていると考える。

 受験英語自体をやらなくて済むこともさることながら、さらには、受験に影響を受けないため、“しゃべれる英語”“技術の現場で使える英語”などのスローガンを掲げてきたのは、むしろ高専の方であったわけだが、近時の英語教育改革はこれと似たようなものである。その英語教育改革がどのような帰結をもたらすかは、むしろ筆者などの方が切迫感をもって理解できる。逆に高専生にとっては朗報である。「モデル氏」ではないが、「高校生が勝手に落ちて」くれるからである。

7.後期中等教育年齢における一般教育

 ところで、この「モデル」氏のことではないが、高専教員の中には、後期中等教育年齢の生徒に人文社会分野の一般教育を行うのでも、学位を持った教員が教えていることを高専教育の特質に挙げている者もいる。例えば、高校の内容を教えるのに学術的な内容を基盤にして、興味を喚起することが出来るなど、と。

 この点については、筆者の経験を述べておく。

 国語の教員は2~3名ぐらいいたと思うが、そろって文学修士であり博士課程修了者もいたはずである。それぞれ、近代文学、古文、漢文の各分野で、本数的には学者とまでは言えなくても、自校の紀要を中心に、ときには学術雑誌に、いくつか論文があったと思う。確かに、その専門分野の話を組み入れるのであるが、クラスの生徒の”誰一人として”古文や漢文を読めるようならなかったことを断言しておく(後に、筆者ともう一人のクラスメンバ-のみが大学受験のため、相応に読めるようになった)。徒然草の文学的鑑賞、老子の思想等は、趣味的にお話ししてくれたが、それで終わり。では、論理的文章を書くトレーニングでもしているのかというと、これも余りしていない。理系の人が文章が苦手という段ではなく、高専の場合、もともと中学校の時国語などもよくできたはずなのに書く文章が恐ろしく〝稚拙゛ということも珍しくない。他の教科分野も似たり寄ったりだった。Fランク大学でも、一応、担当教員は博士課程修了者であろうが、受講生はみんな居眠り。むしろ、こちらの状態に近かったのではあるまいか。

 ところが、学部卒で高校教員をしていたという、ある文系分野の担当教員の授業はオーソドックスに教科書に沿っていくのであるが、非常に興味深く、筆者もその分野の本を手に取ったことがあった。クラスの人気も非常に高かったし、学力もよく伸びたと思う。この人はほとん学術論文はなかったと思う。それでも生徒を納得させる教育力と学問があったのである。

 つまり、中等教育段階における教育は、天下に通る、しかるべき王道の内容について、「教育者」が教室で出来ることに「徹して」もらえばよいのである。その中で、意識の高い教員は、「知」への扉を開いてくれる。中等教育段階における一般教育というのは、そういうものなのである。

 だいたい、今時、高校教員でも、専修免状で修士号を持った者が多いのである。オーバードクターで高校教師になった者さえ珍しくない。しかるべき水準の高校では、学部卒業者であれ、修士号取得者であれ、その高校教員の授業によって、数学や物理の面白さに目覚め理学部や工学部志望になったりするのである(ただ、高等学校普通科教員にも、理科等の分野で工学部出身者がもう少し多くなって工学部志望へはずみをつけてくれればとは思う)。一般科目理系では、学位取得者による授業によって、多少の厚みを加えることが出来るかもしれないが、基本的には同じことが言えると思う。また、上述の通り、高専の一般科目理系は、カリキュラム的に意外に基盤が弱い。

 ちなみに、筆者のいた東日本地区の高専では、奇妙なことが行われていた。若い博士号や修士号をもった教員が高校生の範囲に相当する1年生基礎数学の授業をもち、修士や博士号どころか一編の学術論文もない、教授法研究にもほど遠い単なる教育実践例の小論数本のみが御業績というベテラン教員が工学部相当と称する3年生「応用数学」の授業を担当し続けていた(この教員は県下2番の進学校で教えていたことだけが自慢のようであった(自身も県下2番の高校卒業生か?)。50を過ぎて高校から高専に来たようだった。他の世界を知らない当の高専生さえ不満を漏らす者があったほど講義内容は薄い。与えられた個室の研究室には研究書さえないという噂であった。散々、高専をこっ酷く批判してきた筆者であるが、県下2番(実際は学区があるから2番の集団ではない)の進学校というのは大したことがないものだと思った。一般科目理科系の教員なら、何も一流学会誌に何本も論文を載せろとまでは言わない。載せる人は沢山いるし、そのこと自体は大変なことではるが、研究機関ではない高専においては、紀要等に学術的な内容の論文又は学術的な裏付けのある教授法・教科教育法に関する論文を生涯で1ダースでもいいから書いていれば、あるいは、旧制高等学校よろしく論文こそ書かないが研究室には蔵書が山程あり学識の方は大したものだ、と思わせるような教育力でもあれば、生徒側の方も納得するものなのにそれさえもしない。高専設立50年において少なくとも40年近くこういうことが長く続けられていた。先の文系分野の学部卒元高校教員の例とは反対に、理工系専門・理工系基礎教育と称する分野でこのようなバカげたことが行われていたのである。一般に高専の教員のレベルは低くはなく、現在では学位をもった者が多数を占めることは先に述べたが、歴史的にはこのようなことも多発していたのである。冒頭で述べた「学者による教育」などは実は高専の歴史において根付いてきたものではない、むしろ、高等教育としてはオカシなことが長く行われてきたことを述懐の形で述べさせて頂いた。また、筆者が専門分野の担当教員なら、文系であれ理系であれ基礎科目をちゃんと先生に習ってから上がって来いという。三文学者による趣味的な文系科目の講義などは不要である。そういう講義は、高校の内容をちゃんと固めてから受けるのであれば、何某かの益はあるだろう。

8.楽しい高専生活?

 『モデル』は、最後に、高専は「忙しい学校」であるが、クラブ活動や音楽などの趣味に楽しみを見出している者が多いという。「忙しさがゆとりを生み出している」だという。このような、受験がない分、専門科目の学習が充実しているというのも、高専入学者を誘う文句になっているようである。

 まず、高専で受験から開放されて趣味に楽しみを見出す時間があるというのであれば、英語や数学をちゃんと勉強しろと言いたいところだ。次に、「忙しい」というが、その忙しさは、高校3年生の受験生の比ではないはずだ。さらに、クラブ活動の充実というのは、進学高校でも見られるところで、何も高専に限ったことではない。そう考えると、ちゃんとした高校生の方が、忙しく苦しくもある受験勉強の合間に、よく、クラブ活動もやっているということにならないか。さらに、大学生になったら、教養課程で中だるみが生じる場合があるにしても、少なくとも、理系では、非常に忙しい日々を送り、なお、恐ろしいのは、担任教師の御計らいも何もなしに退学・留年が普通に行われることである。

 筆者は何も、進学高校の連中が偉いと言いたいのではない。彼らの中には空回りした空虚なエリート意識が強いものもいて、それだけの人間を軽蔑している。また、進学校と称する群の中には、大量の強制学習の割には大学合格率は大したことがない学校群もあってこれも軽侮の対象である。しかし、『モデル』は、あまりにも後期中等教育普通課程及びこれにある者の姿を見ていない。今の時代、低学力者を探せばいくらでもいるが、どの時代でもちゃんとした者も大勢いるのだ。例えば、普通高校でも科学部や物理部がある。彼らは、それらが純粋に好きで、科学コンテストなどで大学生顔負けの研究発表をしたりする。京都市堀川高校のように、研究課題をもちながら京大に一般入試で大勢合格するような学校もある。高専は理系科目・専門科目を先行して学び自由時間もある割に、科学コンテスト等への入賞率が低いように見受ける。逆に、ロボットコンテストはよくやっていると評価できるが、しかし、「堀川の奇跡」はあっても「高専の奇跡」はない。そのロボット工学の分野でも一般入試を突破している者がほとんどだし、最初の大学が文系だったりする例もある。

 戦前日本はすでに、世界有数の科学技術・工業技術をもっていた。トップレベルと言ってよい。アジア・有色人種では唯一とも言える。その中心的役割を担ったのは、言うまでもなく、旧帝大や私学を含む旧制大学・文理科大学・工業大学、さらには旧制専門学校出身者であった。かれらのほとんどは、“旧制中学卒業後”に専門科目を学び始めるか、“教養”主義的な高等学校や高等師範学校を経てその後の専門課程に入った。また、実業学校からの入学もありえたが、そもそも実業学校に進んだ時点でその時代は選抜されたエリートであったし、入学試験はむしろ難しくなる方に作用した。そのために、ハードな受験勉強も当然突破している。彼らに対して、受験勉強ばかりしているから、戦争に負けるような工業技術しか持ち得なかったと批判ができようか。文系官僚や軍人については、その批判は当てはまるかもしれないが・・。

9.編入学問題

(1)最後に、高専生は、その辺の平均的な高校生やいわゆるFランク大学生よりは、マシだという意見があり、これと比較すべきだというかもしれない。しかし、(国立)大学工学部に相当する学力や地位などという、以上の論によれば虚偽の宣伝をして比較的優秀者を誘ってきたのは、当の高専側である。

 高専の設立には、戦後、旧制専門学校が大学となり、また、産業界から見て彼らの実践力が落ちているように見えたので、それに代わる学校を、との経緯があるようである(原典資料の他に、天野郁夫『日本的大学像を求めて』にもこのことは書いてある)。しかし、旧制工業専門学校は、後述するように、新制大学工学部としてその理念を継承しながら残り、増大した新興大学にもちゃんと大学院課程及びそれに相応しい体裁を形式上整えてる。高専は結局、旧制大学新制大学、そして大衆化した新設大学の工学部の次の第三群以下の地位に陥った。また、この第三群には、そこへの入学時を除きその後の受験的選抜が想定されていないし、一般教育も薄いため、潜在能力を磨く時期が失われている。

(2)ところで、高専には受験的選抜が想定されていないと述べたが、これに対しては、「編入学試験」があると言われるかもしれない。しかし、高専からの編入学試験は内容・質・量の点で、一般入試より、ハードルが下がっている(ただし、最後の留保事項でも述べるが、学業劣位者にゲタを履かせているという意味ではない。もっとも、結果的に下記④のような例が発生する。あくまで、試験の「内容」「質」「量」の問題である)。

高専から大学へ編入学する際の試験は、英語や数学については、難易度が一般受験生よりかなり低い。是非、試験問題をご覧になって頂きたい。例えば、数学は範囲の限定された応用数学のみであったり、そもそも数学が試験になっていない大学さえある。内容的には、一部の超難関校を除き基礎的な問題が多い。②英語は、外部試験を使用する場合を除き、はっきりいって易しい。国立2次試験のように長文で時間切れということもないし、ごく一部の大学を除き英作文も課されない。課したところでほとんど書けない(とは言いすぎかもしれないが、一般入試受験生よりも圧倒的に出来が悪いのは間違いない)。③理科も1科目のみでいいことがほとんどである。理科では物理が課されるケースが多いが、一部の大学を除き、伝統学科の基礎と重なる力学、電磁気学、熱力学の問題がほとんどである。もちろん、一般入試でもそれらはメインでありヤマでもある。しかし、一般入試でも少なからず課せられる波動や原子物理などはすっぽり抜け落ちているか、出題されても捨ててどうにかなる(後記・注)。④次に専門科目である。専門科目で受験させるということ自体が、「潜在能力」をはかっておらず、単に「到達度試験」になっている面がある。もちろん、到達度を評価尺度にすべきというのも理解できるが、潜在能力あるいは一般的学力の評価が甘くなってはいまいか。旧帝大や名門工業大学あたりになると、電気系に化学や応用物理を課す等して能力を見極めようとすることがあるが、それでも、学科によっては内申点を重視したり極端に志望者が少なかったり高専の不人気学科でたまたまクラス上位だったりして、専門科目の最低理解到達点に達してさえいれば、かなり一般的な学力が低いものでも合格する例が時々あり、この点が一般入試と異なる。⑤さらに、「競争的」な要素も低い。これは高専自体に内在する問題でもある。学力を競争的結果で評価することに異論を唱える教育学者もいるが、競争には、健全な競争もある。 たとえば、「受験勉強したのは4年生の終わりの春休みからだった。高専の1年生の時から勉強をしていた人はいなかった」という類の述懐が高専生に見られる。一般入試を受ける平均的な受験生からすると、勉強時間がかなり短いし、競争や切磋琢磨の意識を欠いている。その他、高専生がよく言うことを挙げると「高専生に余裕があるのは受験がないからです。編入試験に多くの時間を取りません」とういう例もあるのだが、本人は悪びれてはいない。⑥科目数・量は重要である。旧帝大などは難問が課されることがある。しかし、その旧帝大の中にさえ3科目試験の大学があり負担が軽い。一般受験生と比べて、いくらなんでも科目数及び科目内における量が軽すぎる。試験というのは、ある程度「量」を課さないと、記憶力や事務処理能力を含めた学力一般を涵養できない。

 一般入試が仮に「広くて浅い入試」だとしても、編入試験の方は単に「狭くて浅い」と言わざるを得ない。それどころか、一般入試も2次試験まで見込めば、「浅い」などとは言えまい。逆に、一般入試のみを突破してきたものは、自分たちの受けてきた入試がいかに「深い」ものであるかを認識できていないのである。高専で得られる専門科目についても、その知見とやらは、実際は、基礎教育が疎かなため、意外に「浅い」ものである。もちろん、そのような高専教育や編入試験がすっぽりはまる特異な人たちもいるにはいて、高専の実態やボリュームゾーンを知らない人たちに、誤解を与えているわけである。実は、編入試験の方が比較的易しいということを一番よくわかっているのは、高専教員である。高専専門科目の担当教員は、専門学科に1~2割いる高専生え抜き教員を除き、国立大学や難関大学の出身者であり一般入試を経験している。その彼らこそが、編入試験と一般入試を比較出来ているのである。そして、彼らは、高専という組織体の一員として、誰のためになるかは知らないが、こちらが「有利」などと宣伝し始めるわけである。

(3)高専生は、1年生から専門科目をやるのだから、それを突破していくだけでも大変だというかもしれない。しかし、それは違う。それは能力の問題というよりは適性の問題に過ぎない。例えば、平均以下の大学の工学部生でもそれしか道はないと考えて専門科目は突破する。また、一般の工学部受験の高校生は数学や物理で大学の範囲に及ぼうかという難易度の試験を課せられたうえ、古文さえ読めるようにしなければならず、その準備に追われる。百歩譲って特別入試や推薦入試を導入するというならば、彼らにこそ、その範囲で到達度試験か数学の超難問を5時間かけて解かせるなどの完全純粋な才能試験を課してくれればよいのだが、その母数に比べて機会が極めて少ない(例えば、数学オリンピック入賞者に科目入試を課さない等)。

 大学工学部側は、高専生が専門科目を早くから履修していることを重視して、編入学試験内容を考えているのは間違いない。専門科目の能力を学校の成績で観察しつつ、基礎学力に致命的な欠落がないか、専門分野の最低の理解があるかを試すために上記のような内容の編入学試験を課すのであると。しかし、そうであっても、その大学の一般入試入学者より高専編入生の方が学業において「努力」してきたと言い切れるであろうか。「幅広く」勉強してきたと言えるだろうか。「最低限」が低すぎないか、「最低限」の基準を満たしていればよいというのでれば、一般入試組にもそうしてあげればよいのではないか。努力している者自体は絶えなくして僅かにある。しかし、筆者は、概して、そうとは言い切れないと考えている。このことは、高専側が宣伝で、高専には受験がなくて・・・、余裕があって・・・、などとやっていることからも伺える。こういう入試でよいならば、一般入試の連中にも、二次試験の内容のみを課せば足りることになる。

(4)初期の高専生では、きわめて優秀だったにもかかわらず進路の袋小路が大きな問題となった。そこで、国は高専向けに長岡豊橋の両技術科学大学を作った。一部大学も呼応し僅かに編入学を認め出した。これによって、高専最上位層をすくだいすことが出来る。しかし、編入学希望者が徐々に広がり高専中堅学力層や偏差値の低い学科の者に及び出す中で、少数科目やボリューム減された英数による一般大学への編入学措置は試験内容的にポジティブアクションが過ぎるのではあるまいか。今の高専からの編入学試験は、あえて言うならば、工学研究科大学院入試 に近いだろう。しかし、大学院修士修了が普通になった今日、高専生が大きなワンステップを回避する結果となっているのは間違いない。もっとも、普通の国立大学さらには国立難関大学でも普通科高校生向けにセンター試験を課さないAO入試等の特典が結構あり、入試の多様化・簡素化は高専だけの問題ではなさそうである。しかし、高専生のメンタリティとして「好きなことだけして」「お買い得」というものがあるとすれば、いかにも、さもしい考えである。あたかも、高専カリキュラムと編入学試験の特質によって、一部の優秀層を除き、概して、編入生は数学・物理・英語が弱いのである。

(5)高専からの編入学者はその大学で優秀な成績を治めているという指摘がされる。しかし、これは、比較的優秀である高専の中のさらに優秀層が、早くから専門科目を履修しそれを重視(偏重?)し、しかも、入学試験さえもが専門科目で行われているのであるから、当たり前の話である。国立や名門私学の大学工学部定員の多くを占める一般入試者はその人数が多いのであるから当然学力に一定の幅があり、しかも、専門科目の導入が遅い。一方、高専出身者は研究室に1名等少数であり学力幅が小さいうえに、専門科目を先行している。となれば、高専出身者が一時的に優れて見えるという奇妙な現象が生まれるわけである。人口比率的にほとんど出くわすことなない高専生の、しかも、なんとか社会の上層に食いん込んだ極少数派を観察して、何か珍しいものでも見つけたように「優秀」などと言ってる者の多くは、この類である。その程度の優秀層はよく考えたら自分の周りに大勢いたことを忘れて・・・。この筆者の見方が偏見だと言われれば偏見である。しかし、筆者はあまりに多くの高専生の実態を知っており、その真実を伝えてしまうのは、致し方のないことだ。

 さて、高い?とされている高専生の学力については、英語や数学を含めればそうとは言えない可能性も大であるが、しかし我々が着目しなければならないのは、むしろ、当たり前が当たり前になっていないという事実である。つまり、高専からの編入学者が、専門科目を一度やっているはずなのに学力不振に陥いる例が多くなってきているのである。例えば、あまりにも周りが勉強しない中、真面目にノートを取り続けてクラス上位、推薦を得て大学に編入したはよかったが、大学の授業に全く付いていけず、大学院にも受からず、というケースを結構聞く。かわいそうなケースは、一般入試入学者とあまりにも数学や英語の学力がかけ離れていているため、自分の方で勝手に自信を失ってしまう、という事例さえ見聞する。上位ではない、高専ボリュームゾーンの生徒は大したことがないという評価も聞く。高専専用の技科大は学科の1番が入学していて周りもほぼ全員高専出身者であるからあまり問題にはならない。むしろ、推薦や内申重視がうまく機能しているだろう。あるいは、近時はそうではなくなっていても内部的な問題で済む。また、他の一般大学でも一握りの優秀者のみが編入学していた時代では、実際成績が良い者が多かったろうし、そうでなくても員数が少ないこともあってあまり問題にならない。しかし、これだけ、一般大学への進学者が多くなった今日では、学力不振は受験学力の否定と無関係ではないと考えられないだろうか。筆者は、序章で、高専はあまり人に知られないがために、不当に扱われていると感じた高専関係者の宣伝用の美辞麗句が一人歩きしているのではないかと言った。高専からの編入学生は優秀というのにも、その傾向が現れていると見ている。大学教員側に申し上げておくと、自校の大部分を占める一般入試突破者(彼らもこの大学に入って工学の勉強がしたいと大変な努力をし、念願かなって入学してきたのだ。またご自分もそうであったはずだ)に、最低限センター試験を課すぐらいは当然として選抜方法の工夫や、大学での勉強の心がけを説くことや、工夫した教育を行わず、その責任を棚に上げて、以上のような性質をもつ高専出身者を重宝して見せるのは、どうであろうか。学生は実験助手ではないのだ。まっさらな人間を伸ばしてやることこそ大学教育だろう。高専教員や一部大学教員で、高専生は既に専門科目を修めているいるから大学で「教育しやすい」というメリットがある等と言っているケースがあるが、笑止千万である。工学部3年生というのはすでに社会にある技術者や研究者から見たら誠に頼りない。受験勉強を引きずっている者もいる。工業高校3年生と比べても頼りない。しかし、その頼りない人間が、高校からの基礎学問の上に専門科目を学び卒業研究や修士課程を経て「育」っていくプロセスを彼ら大学教員は知っているはずである。受験に失敗してこの大学に来たと言っている連中も、そもそも理工系志望なのだから専門科目に接すると目の色を変え始める。私は、大学2年生あたりまでは受験に失敗してクダを巻いていた人間が、優れた教員と研究課題に出会い学会で賞を貰い一流企業に就職していった例を知っている(工学部では当たり前の光景だが・・・)。そして、そうでなければ、戦前既に日本が技術立国だったことを説明できない。高度成長を説明できない。いつしか、大学工学者が高専生を「しっかりもの」に仕立ててしまうのは、自身の義務である教育を面倒がった挙句の教育放棄の所業といっても過言ではない。1年生からの入学者に実践力がないだの、手を動かさないだの批判する前に、ちゃんと、本来の工学教育らしく、そのように教育すべきなのである。あるいは、長い目で見てあげて、最初は頭だの口だのが先に動いてもそれに手がついていくようになるのが工学教育なのである。そのように教育すれば、理論の上に実践、実践につながる理論になりうるのである。大学が4年もあることの意味をも考えよ。よき研究者は教育をおろそかにしない。手もよく動かす。もちろん大学教員には、高専生の解析力や語学力不足、資質・物の考え方を、問題にしている者も多いだろうし、筆者も直にそのような声を聞いたことがある。敢えて言うなら、英語や数学が弱いので、あるいは、専門分野への固定観念があって「教育しにくい」。高専からの編入学は、受け入れ当初は、受け入れ大学も少なく、試験内容、入学枠的に厳しかった、厳しすぎたという。逆にこの厳しさを突破してこそ、選りすぐりが育っていった。山梨大学工学部あたりが高専生を受け入れたと聞く。確かに、ここには、極めて強い向学心をもって入学し非常に優れた卒業生を生んでいるようである。しかし、はっきり言って、今の編入学は、一部の大学を除いてかなり緩くなっている。

高専生の学力については、私が見た生徒についての実感や印象をもとにしている。また、筆者は一般入試の勉強をして大学に入った後に、高専生はどんな試験を受けるのであろうかと振り返って編入学試験も数多くチェックしてみたりした。筆者の見聞に基づく以上のような評価があながち間違っていないのではないかと考え始めたのは、教員側であられたI博士の見解(HP。筆者の過激な高専批判とI博士の洞察と建設的な意見・提案が混同されては同氏に失礼と判断しお名前を伏してある)に触れたからである。もちろん、抜群の成績を得ている者がいることは認めるし、この者たちの資質にはしかるべきものがあろう。しかし、これが高専教育の成果かと問われれば非常に疑問が残る。本人および指導する高専教員の個人的な資質と努力による成果というなら、これは断じて認めなければなるまいが・・・。それにしても、大学工学部・大学院で学べている身分を忘れて、ここのでの成果を高専教育における早期の専門科目導入・卒業研究の賜物だのと、高専側の都合のいい宣伝材料(4年一貫の工学部、大学院工学研究科を見込んだ6年一貫に途中から入り込んでおいて、そこでの成果は、「5年一貫」「早期の専門科目導入」の賜物とやりはじめ、資質あふれる生徒にそれを信じ込ませる)に乗ってやる必要はないのである。むしろ、自分の能力と大学で学べている優位性こそに感謝してほしいものである。さらに、大学工学部で一般入試を経た者でも4年後、6年後、企業等に入ってから、同程度以上の成果を挙げているのを忘れてはならない)。

 日本の大学入試に問題がない、なかったという気はない。この点は、ところどころで言及してある。

(5) 大学研究室で高専出身者が優秀に見える奇妙な現象、とは言ってみたものの、これには、留保事項がある。 

①まず、数パーセント高専”最”優秀層は抜群の頭脳を持っていることは否定できず、逆に、英語や数学でハードルが下がっていることが失礼な結果になっている面があるということである。教養問題の章でも述べたとおり、この高専最優秀層はもっと英語や数学を鍛えられてよいし、鍛えれば出来る。大学への入学に関しては、本来の学力水準からしても相応の水準の大学に入っている、つまり、ポジティブアクションは働いていないのであるが、しかし、英語力や数学力さらにはその他の人文社会科学分野の能力の涵養プロセスが省かれているというその学力内容と質に問題があるわけである。もっとも、当の高専生がそれでよいと納得しているのであれば、彼らは、確かに優れた専門的学力の持ち主には違いないのであるが、真の意味で「優秀」などとは断じて思わない。そのような心持では、一般入試を突破した連中に追い越されてしまうであろう。

(仮に高専上位数パーセントは特別の能力があり別だとして)、今日では、高専の学科10番程度でも進学する計算になるわけだが、おそらく、平均的な高専の学科10番や偏差値の低い不人気学科でたまたま上位にいる層、後述する進学高専下層にとって、大学工学部編入学は一般入試よりかなりラクなのは間違いない。そして、悲しいかな、上述のとおり彼らの多くが昔の高専出身者のイメージを覆しているものと思われる)。

②定員面では、高専の生徒全員が国立大学工学部に入れるだけの定員は準備されていない。地元の国立大学工学部の編入学定員が10名や20名等となっていたら、学科で上位でないとそこには入れないことになる。さらに、いうまでもないが、技科大はかつては高専トップの指定席であったし、今でも主要な進学先であるが、2校しかないので、頭数を受け入れているわけではない。「枠」をめぐっては競争があるだろう。ところが、進学高専を除く普通の高専の10番以下は就職するか、進学希望がない、あるいは勉学意欲を失っている者も多いから、影響は限定的であるものと考える。留保の留保になるが、優秀ではあるが様々な事情で進学せず就職する者も一定数いること、あるいは、その中で堂々大卒院卒枠に食い込んでいく者もいることは、高専にとって、歴史的な、そして制度の本質な問題である。

③次に、短期大学からの編入学よりはまだマシという点である。つまり、短期大学では、科目数や内容面でのポジティブアクションの度合いが、高専よりも遥かに強く・露骨に働いている。学士入学者またその水準にある人にとっては適切な試験内容でも、そもそもの学力水準が非常に低い短期大学出身者が当たりに当たって入学しているケースがある。

10.進学高専?の怪、高専上位層の青田刈り?

(1)I博士のように、高専の問題性を喝破しつつ、高専を選んでしまった学生のためには編入学でもさせるしかないというのであれば、まだ理解できる。 

 ところが、私は驚いたのだが、最近は「進学高専」という言葉もあるそうである。そこでは進学校ばりに補習を行って進学者数を競うそうである。そもそもその言葉は、言語的用法からして完全に誤っている。その矛盾は他の箇所で触れることになろう。ただ、ここでは、「大学進学したけりゃ高校へ行け!もっとまっとうな努力をせよ!」と言っておく。ちなみに、ここで散々問題にしてきた『モデル』氏は、俗に進学高専と呼ばれる高専に所属している。

 こういう高専は、生徒の勉学意欲を喚起するため、大学入学競争を利用しているつもりなのかもしれない。ところが、当初はそういうつもりでも、編入学が一般化してくると、どう考えても学力が足らない層までも編入学しようとし(二山化した学力層の低い層や、もともと優秀であるが高専教育にはまって勉強しなくなった層)、実際に、編入学してしまう、そこそこやっていればいいんだという風潮が生じる、という笑うに笑えない事態があることさえ見聞する。昔の編入生や上位高専生、進学率が低い高専のトップ生,大学一般入試を課した元高専生等、逆に優秀でありながら高専卒で就職する人には真に失礼な話であるが、真実味のある話である。大学側は定員に関係なく、もっと厳格な試験を課すか(最低でも、英・数・物・化・作文+専門2科目。現にそれに近い試験を課す大学もある)、編入学など廃止してしまえ、専攻科設置で晴れて「完成教育」となったのだから大学院入試を受ければ、とさえ思えてしまうのである。

(2)次に、前項でも少し言及したが、大学側にも問題のある行動パターンが見られる。学生の学力低下や理工離れ、これにともなう自校の教育への支障、地位の低下に危機感を抱いた大学が、高専上位生(ところどころ言及するように数パーセントは優秀である)を、まるで、青田刈りでもするかのように、①自校の定員の1割もの割合の人数を、②推薦入試中心(半数が推薦)で、「もっていく」という手法である。さすがに、旧帝大や地元高校からの安定供給がありこれを維持しようという多くの地方国立大学ではそんなことはやらないが(旧帝大や地方国立大学では工学部定員400人中、編入学定員10人とか数人あるいは若干名というふうに、逆に定員を絞り込んでいる大学も結構多い。多くても定員の5%というのが普通である)、堂々たる名門国立理工系大学や旧六クラスの大学工学部や一部地方国立大学工学部がそのようなことをしているケースがあるのである。

 高校からの推薦入試は、学力一般入試が厳しいため、高校側が逆に学力試験が及ばない層を組み込んでくる危険性があることや、大学側が高校3年生で理工学の潜在能力測定に自信がないというのも理由だろう。しかし、このような方法は一般入試受験生との公平性に常に緊張関係を生み出す。定員1割の余裕があれば、理系科目は大好きだが国語だけはどうしても点数が伸びなかったとか、受験勉強で物理の面白さにはまってしまって物理以外あまり勉強しなかったとか、高校の科学部の研究に没頭していたという連中を救い出すことが出来る。受験勉強をしなければならないという状況でたとえ初歩的であっても科学研究をやる勇気ある少年たちと、専門科目さえやっていればいいから当然そうする人たちとどちらが純粋であろうか、面白みがあるだろうか、伸びしろがあるだろうか。もちろん、高校生向けの推薦入試もちゃんと用意してあるという反論もありそうだが、その母数に比してその機会が非常に少ないというのが現実であり、この観点から公平性に疑問符がつく。

 そもそも、旧帝大東工大ではない、この大学群こそがこれら特異な人材を救い出してきた歴史がある。また、この大学群に入りたい高校生はいくらでもいるのである。高専生の心配をして頂く必要は全くない。技科大も専攻科もわざわざ作って差し上げたのだから。3年修了で一般入試大学受験したら結構通ったりするから。特異な入学パターンを作るよりも、皆に平準な試験制度だからこそ、そこに様々な資質をもった生徒が集まってくるし、この中の特異な生徒を救い出すためなら、科目間の調整とか2次試験重視でどうにでもなる。姑息なことをするくらいなら、全員AO入試にしてしまうというのも一考である(ただし、筆者は「制度」論として、今日の「全校」AO入試は大反対である)。逆に言うと、高専生への評価の表れとも取れるわけだし、高専生にも人気があるらしいが、では、誰のためになっているかのと問われば、高専生のためなのだろうか?自校の都合が優先していないか?とさえ思えてくるのである。中等教育から接続して、潜在能力と意欲にあふれた青年を、たとえ今はゼロの専門知識でも、将来に向かって伸ばしてやる、4年の大学制度の本義を忘れては本末転倒というほかない。

 もちろん筆者の考えは、高専は成績優秀層が学ぶべき教育機関ではない、のというのが前提としてあるわけだが、百歩譲って優秀者が入ってしまったとして、彼らをすくいだすために進学させようとする、その仕組みの内実・方法にも問題が生じているのではないかと思っているわけである。もっとも、繰り返すが、多ければ1割程度の高専生は優秀であることを否定するつもりはない。

 

*後日、平成30年1月頃、阪大と京大の物理の入試問題にミスがあり、本来なら合格の者が不合格になっていたという報道に接した。2校とも、問題は「波動」についてのものであった。合格者がひっくり返る程度に大事な分野なのである。高専では上層にあるはずの平均的なの高専経由大学編入学者では、この試験問題の意味などは分からなかったものと思われる。

  

 

 

 

 

 

第2章-高専教育における教養軽視と教養蔑視(2)-

最後に、2つの新書から、引用させていただきたい。

 

「単純な種類の無知に対処する技術は職人的な専門技術の教授と呼ばれた。これにたいして『大きくて厄介な』種類の無知に対処する技術には、教育・教養((Paideia)という呼び方がほとんど全ギリシア人の間に普通に用い入れられてる」(廣川洋一『ギリシア人の教育―教養とはなにかー』69頁)

 

「農村出身者の子弟は都市でギルドやツンフト(手工業組合)の職人になる可能性があったし、大学に進学し、法律家や官僚、司祭になる可能性も生まれていた。このような可能性が開かれたとき、はじめて人は『いかに生きるか』という問いに直面したのである・・・これが『教養』の始まりであった」(阿部謹也『「教養」とは何か』53頁)

 

 教養とは、ある時点における教育課程ではなく、生涯を通じて醸成していくものである。また、教養一般については、ちゃんと人間として仕事をする中で醸成されていくとも言える。特に、阿部謹也によれば、農夫も「人生に向かう姿勢」としての「集団の教養」を有しているという。筆者が、高専及び高専の学生の教養軽視を批判して言う際に、〝高等教育としては゛、゛専門科目に比べて゛、゛可能性を閉じている意味において゛という趣旨の限定をつけたのは、その点に留保をつけるためであった。しかし、この限定された意味であっても、その教養軽視が、「構造的」「意図的」(ある意味ではそのように仕向けられている)、「比較的」(大学並と称しているが、大学と比べて高校や大学教養の内容が省かれている)、「欺瞞的」(以上のことにあえて気付かせない)という教育のあり方そのものに関わることを背景に、しかも、これが制度化されているということも、極めて重要なことであって、以上の二つ書物を引用した次第である。農夫ならまだよいが、高専の専門技術偏重教育は、可能性のある人間の人生に向かう姿勢さえもイビツにしているのではないかと、危惧しているのでる。

 ところで、この章の表題には「蔑視」という言葉が入っている。確かに軽視されているが、蔑視などしていないという反論も聞かれそうそうである。なるほど、学校そのものはそう反論するかも知れないところが、以上に見た①「構造性」や「欺瞞性」が、今度は、生徒の方にも跳ね返って、高専の生徒の多くが教養を蔑視するようになってはいまいか。②早期の専門科目導入が一般教育を圧迫する弊害をうんでいまいか。高専生に「教養がない」とされるのは、教授する内容面に加えて、そういう教育を優秀者が受けるべき優れた教育と構成して、これを美辞麗句で覆い隠すこと自体にも原因があるのである。2年次高専生が(高専教育を特徴づけるとされる)「工学実験をやらないのといけないので、そんな暗唱課題を課さないで下さい、歴史の教科書を読む暇もありません」。そう言うわりには、アルバイトには精を出す。おそらくそんな光景は高専には珍しくない。このような気質を持つにいたる高専生が全寮制の名の下に一斉に学寮で同質の生活を営んだらどうなるか。学力が一定ライン以下に下がった高専では次のような事象が現れるに至る。過去問を持った先輩が、アイツの試験はどうだこうだと偉そうに説教し、その過去問を申し送る。入学時は純朴だった生徒も同じことをやり始める。それ自体はまだよいし、やってもよいが、先輩に最低限の知性がないからからただただ押しつけがましい。みんな一斉に同じことをやらないと睨まれると感じ始め、小さくなる。深い人間関係が形成されるが、悪く働くと悪の腐れ縁もまた続く。24時間、同じ専門しかも人文学や社会科学志望者はいない、同じく専攻者などもいない(中卒後専攻としてそのような学問をさせるべきではないから、いてもらっても困るが・・)、同じような価値観をもった人間としか付き合わないから視野が狭くなる。しかも、学生などとおだてられているため自由を履き違え始める。そして、いつからから、多くの高専の学寮では暴力事件や窃盗事件も頻発した(このような事実があったことと、その解決への取り組み例として、西田亀久夫『教育政策の課題』所収「高専の窓から見た学生指導」)。こんなところに「人間力」「教養」が育つわけがない。

 筆者は、高専における教養軽視を表しているものが、国語古典教育の圧倒的少なさ、英語教育における受験英語不在・文法読解軽視、時に、コマ不足のためにおこる高校課程に準じたオーソドックスな体系的歴史教育の不在、だと思っているが、以上の事例が理解できない一般の方々は、そういうことも念頭におかれるとよいと思う。一般論としては、普通科高校で国語古典教育が厚すぎるとも言えるが、しかし、しかるべき水準の生徒の教育として、自由が与えられた生徒の教育として、古典・文法・歴史がなくなったら、そういうことも起きることは肝に銘じてもらいたい。

 

  付言しておく。高専にも、問題意識の高い、優れた一般科目担当教員がいるのは、筆者も認めるのである。そして、教員の良心として、小さいながらも教養教育を充実させようとするのもわかるのであるが、私が出会った最も素直な教員は、「この学校では一般教育が非常に軽んじられているから、これが受け入れられない人は、3年でやめて大学受験しなさい」という者があった。

 ところで、高専一般科目担当教員には、

 ①大学教養課程担当者型

 大学一般教養担当者は、不当にも低く扱われてきた。その中にあって、しかるべき教養教育を実践した者もあったが、できれば専門学部に移りたいと願う者も多かった。高専の教養教育の組織基盤は極めて貧弱か無きに等しいが、高専の一般科目担当者には、例えば大学院修了後あるいは助手・助教の任期を終えた後に直ちに高専に赴任するなどしたため、この類型にあてはまる者もいる。但し、あまりに長く高専にいると、②のパターンにもなりうる。

 ②高専生え抜き型

 ①の類型と重なるが、院卒(昔は学部卒も多かった)後直ちに若くして高専に赴任し同じ高専に奉職するタイプ。(ⅰ)研究者の地位を有しつつ内部から高専教育を問うというような問題意識を持っている人、(ⅱ)まったく、問題意識の欠片もない、しかも、研究もしないタダの先生、(ⅲ)そこそこ研究するが、長く高専にいるため高専システムの歪さを感じられなくなってしまっている人、に分かれる。ちなみに、専門科目の高専出身生え抜きのことではない。

 ③高校教諭型

 教育者の義務として、職業教育を受ける者にも、最低限これだけは身につけさせようと努力するタイプ。なお、実際の高校教員は進学校にも職業高校にも異動するから、①の人たちとは異なり結構ドライにこれが出来る。実際、生徒指導の問題もあって、高専の一般科目担当者には高校教諭出身者もかなりの比率を占める。②の人でも「教育者」に徹すればこの類型に入れられる。

 ④お客さん型

 高専という学校があるらしいが、教員生活や研究教育機関(特に理系の物理や化学担当教員)勤務の中盤あるいは最後を迎えて、次は、「国立」の「教授」の肩書きも悪くはない。非常勤で大学で講義もできるし、好きな研究もできる。

 に分けられると思う。高専一般科目担当教員は、ある意味では高専の矛盾に気づいてそれを文章にできる人たちである。しかし、そうと知って、高専教育をそのまま肯定・礼賛する人たちに私は大きな不信感を抱く。教員自身による実態調査や教授法・教科教育法の成果は肯定できるが、しかし、例えば外部出身校長や高専に踊らされた人によるこんな教育実践例があってすばらしいという類の主張は、私にはまったく響かない。むしろ、冒頭に述べたような、本音を語り、ある意味では差別的な教員にも一分の理があると思う。ところで、こんなくだらない類型を持ち出した理由は、実は上記の②③の人たちが高専教育の矛盾に気づくパターンが多いからである。不思議なことに学者の端くれである①の人たちの方が、「ユニーク」などと言って面白がっている場合が多い。高専制度を面白がっているということは、逆に距離を置いて達観しているとも言えよう。高専の内にあって、意識は外にあるとも言える。外部出身校長もこの類型に入るだろう。決して高専は「面白い」存在ではないことは、次章以下でも述べていくことになる。ちなみ、この①の類型の人たちの中には、面白がったまま、大学に口があればさっさと転出していく。②(ⅲ)の類型の人たちにも、例えば、高専は大学と同じであるから、どんな大学学部にも接続できるのすごい存在であるとか、ドイツの何々という大学システムに相当する、などの妄想をする者が現れるにいたる。