第1章-高専教育における教養軽視と教養蔑視(1)ー

1.教養軽視の構造問題

 高専の学生は、専門科目に比べて教養がなさすぎる(あるいは、端的に教養がない、教養がなさすぎる)と言われる。

 先ずは、高校普通科理系コース又は理数科と高専の教育編成表・カリキュラムを左右に並べて比較してみよう。高専によっても異なるが、時間数は、高校普通科理系コースと比べ国語5割、同じく社会7割、物理を除く理科一般7割から8割、英語7割から8割(意外に時間が多いように思われるかもしれないが、英語の時間数と学力の関係については第3章参照)、芸術系5割、数学と物理のみほぼ同等といったところであろう。これでも多めの見積りである。高校の学習指導要領にあるその他の科目もあえてカウントしていないし、高校理系生徒が大学受験のために行う家庭での学習も考慮していない。その他、数学と物理・応用物理は、確かに3年生で大学の内容を実施するが、これは単なる前倒しである。次に、大学教養科目に相当する科目群は、概論科目2から3科目と語学の単位若干といったところである。大学教養課程部分については、これがないのが高専なのであるから問題以前の話である。ちなみに、高専の宣伝では、受験がないので効率的に学習できて、・・・等と宣伝されているが、実際は、コマが少ないので、内容が薄く、省略、尻切れトンボ、ひどい例になると体系的な授業を諦めて単なる趣味的な授業にされているというのが現状である(特に社会科で、趣味的な授業をする教員は私学や国立の名門高校にも存在する。しかし、そこの生徒は大学受験があるので自分で教科書ぐらいは読み込む。高専にはこれがない。しかも、教育システムとして、最初からやらなくていいと宣言されているのと、いないのとでは大違いである)。

(1)第一に、高専制度とはそのようなものなのである。そもそも学校の設立趣旨が、短期で大学工学部並みの工学の学力を身につけさせるためと称して、大学の一般教養教育はもちろんのこと、高校でやる程度の一般教育をも大幅に省くというものであるからである。

 大学工学部並みの「工学科目」を修業年限を2年も短くして、取りそろえようとしたら、どうしても大学教養課程を省くことになるし、高校レベルの一般教育も軽視されることになる。現に、カリキュラムがそのようになっているから、これは弁明のしようがない。

(2)第二に、それは、目的でもある。この世のシステムとはどのようなものか、社会の行く末はどうなるのか、・・・そのようなことを考えるための基礎としての教養などは、彼らには必要ない。中堅・下級技術者・技能労働者には、黙々と働いてくれさえすればよいのである。これは、学歴主義的な人員配置をする大企業産業界の要請でもあろう。筆者はこのような産業界の要請を悪いことであるとか、陰謀などというつもりはない。指導者層は、自分たちを含む少数の者には徹底した教養教育が必要だが、多くの民衆は職業学校などで手に職をつけて堅実に生きていければよいという発想をする。しかし、仮にそうであっても(実は、筆者もそう思わないでもないが・・・)、後者の層に、本来ならしかるべき水準の教養教育と高度専門教育を受けるべき層が巻き込まれてしまう、あるいはこれが固定化してしまう、さらには、厚い教養教育を受ける層が極端に少ないというのであれば、それは非常に問題である(アメリカで、州立大学は役に立つことだけをやれと言っている人が、実は教養主義的な一流大学出身者である例を挙げているものとして、アキ・ロバーツ、竹内洋『アメリカの大学の裏側』217頁)

 学校教育法上の高専について、次のような指摘があり、筆者も、学校教育法をよく読んでみた。学校教育法における「大学」の目的規定には「知的」「道徳的」なる言葉が存在する。ところが、高専の目的規定には、これが欠落している。それどころか、さらに学校教育法をよく読んでみると、職業高校を含む高校の教育目標においてさえ「一般的な教養を高め」とあるのに、高専にはこれさえもない。なるほど、法律上、高専は、6-3-3-4制の枠外の特殊の教育機関であり、中学校卒業後は「知的」「道徳的」「一般的な教養を高める」ことは期待せず、職業教育を受容せよというわけだ。実際、一定水準以上の高校生なら、自分が何者かになろうとするとき、はたしてこれが正しいのか、を青年なりに逡巡しながら、進路を決定していく(後述するように、ドイツでは10歳でコースが分かれるが、ドイツでは厳密慎重な成績評価と社会意識の分断が基本にあることを忘れてはならない)。時には抽象的な思考を発達させていく。おそらく哲学・倫理や歴史の勉強は、長い目で見れば、この解を得るきっかけになるであろう。否、解などなくてもよいのだ。ところが、高専の場合、一定水準以上の生徒が青年なら青年なりの人生についての答えを得ようとするときには、進路は既に20歳という成人に至るまで規定されている。解は明確なものとして、解を得るプロセスなどお構いなしに、目に見える形で舗装されているのだ。青年としての逡巡は許されず、退学か3年ならまだしも5年も耐え忍ばなければならない。教養科目は、何事からも自由になれる自由学芸である。高専には、学校の理念としても、科目編成にしても、その存立基盤がない。自由学芸の可能性のある高校程度の一般教育科目文系は、入学後2年未満で時間単位数でいうと全く「処理」されているに等しい状態にある。数学でさえも、専門科目に間に合わせるために、速習され切られている分野さえあるのである

 もっとも、高専側からは、中学卒業時の選択が誤っていたのだという「自己責任」論をもって反論がなされるだろう。しかし、敢えて言う。誤りを犯したくなければ、高専を選択するな、と。

(3)筆者は何も、大学の教養部や教養課程に問題がないと言いたいのではない。旧制高等学校→大学教養部→教養部解体による①教員の大学学部・研究科分属、②学部化・大学院化、③大学教育センター設置の過程の中で、本当に「教養とは何か」「教養教育がいかにあるべきか」が問われたかといえば、かなり怪しい。また、当の大学生側も、教養課程を「パンキョー」等と呼び、かなり侮蔑した感情さえも持ってきた(加藤博和『大学・教養部の解体的終焉―新制九州大学のなかの教養部の足跡』などを参照)。堂々たる名門大学出身者、大企業役員、官僚の本棚が、文芸書と経営指南書や狭い分野の専門書と、せいぜい人気歴史作家の小説のみということも珍しくない。アメリカのリベラルアーツカレッジやヨーローッパ・ドイツの「ギムナジウム」や「孤独と自由」の場としての大学の存在理由に比べれば、日本の新制大学教養教育はかなり貧弱な可能性がある。

 しかし、高専にいたっては、繰り返すが、冒頭で述べた設立趣旨や存在形式からして、教養教育の基盤そのものが存在しない、または、形式のみが小さく整っていているとしか言いようがない状態なのだ(高校の教育内容が省かれているのに、リベラルアーツセンター等と称している学校もある)。基盤のないところに、理念も、解体も、あるいは、リコンストラクションへの変遷さえもあろうはずがない。一言で言えば、高専教育の基盤とは「短期間に、高校程度の一般科目さえ削りに削って、専門科目を増やして、その専門科目もスグに役立ちそうなことをやる」というそれだけである。なるほど、一般科目担当教員もおり、彼らのうち一部の意識の高い者のみが小さな努力をする場合もあるが、高専学生の気質の方が、それこそ高専教育に染まっており、この小さな努力はほぼ徒労に終わる。これが「優秀者」が学ぶべきシステムなのであろうか?

2.教養軽視の程度問題

 「教養とは何か」ということは、難しい問題であるので、ここでは、安直な定義を避ける(さしあたり、廣川洋一『ギリシア人の教育-教養とはなにか』(岩波新書)等を読んで考えてみるのがいいだろう)。また、世の中の人間の全てが高等教育を受けているわけではない。そして、全ての人間に教養課程が必要とは言えないし、そのような課程を経ていなくても、立派に生活を成りたせている人間は無数にいる。これは美徳でさえある。

 ところが、あらゆる高等教育専門科目は、数学、語学、哲学、論理学等の基礎学問の上に成り立つものである。従って、高等教育専門課程に学ぼうという者は、一定水準以上の教養教育を経ているはずである。高専もそういう建前を低い水準では維持している。しかし、ここで言いたいことは、たとえ高専側から教養教育が「程度問題」だとの反論がなされても、この程度問題こと重要だと反駁しなければならないということなのだ。第一に、同じ学力のAとBがいる。AとBに同じ水準の専門学力を身につけさせようというとき、Bには、古典も英文学を読めるだけの語学も高度の数学や物理学の探求も、相応でよい、時間は少なくてもよい、場合によっては必要ない、と宣言された時のその青年の心理に与える影響を考えたまえ。そして、A郡とB郡の比率が9対1だったときの、比率1側の青年の心理を考えたまえ。何事にも即物的なものの考え方に偏るか、バカにされたと憤るか、のいずれかである。そもそも、AとBの学力水準が異なっており、A郡がB郡より学力が高ければ問題は少ないだろうし、むしろ好ましい場合もある(大学工学部の教育と工業高校の教育)。ところが、高専側の考えは、しかるべき水準以上の大学工学部の工学科目の教育内容に耐えうる生徒(同じ学力水準のAとB)を想定し、これを、自校に誘い続けてきたのである。おまえはAにもなりうるが、Bでもよい、というのだ。第二に、専門能力は高次になればなるほど、抽象的思考訓練が必要である。抽象的思考訓練の深度・程度は、より高次の専門学力を目指す者に重要な要素なのだ。物理学への深い理解、量子力学の理解なしに、現在の電子工学が“深く”理解できるだろうか、“深く”理解しようとする科学的態度が生まれるであろうか・・・などというのは一例に過ぎない。抽象的な内容の英語を読み込む訓練が出来ていない者は、高度の電子工学の日本語論文を読みこなすことはできない・・・。基本に立ち返り、時に他の学問分野からの接近を試みるなどして、深く、そして自由に理解することは、そして、次の応用的展開を生み出す原動力になる。この抽象的思考訓練の程度が低く、むしろ、「実践的」の美名のもとにこれを軽視する教育に、教育程度をして大学工学部相当等の標語を掲げること自体が論理矛盾である。もっとも抽象的思考も度を過ぎると害になるが、高専教育は、度を越して、即物的なのである。第三に、時間軸で考えた程度問題、つまり、“早期”に抽象的思考訓練を軽視することは、上記の傾向をより顕著なものとするのは言うまでもない。そもそも、その人間の知的態度は、知的世界への入り口でにおいてかなり影響される。学校に入学していきなり、歴史の授業が少ない、古典は学習しないに等しい、数学や物理は超特急で表面をなぞっていき演習さえもない、となれば、学ぶ者にこれを軽侮する知的態度が現れるのは当たり前ではないか。また、ある理系の素養がある人間が、その勉学次第で、工学にも理学にも、医学も、接近しうる「可能性」があるのとないとでは、大違いである。例えば、高校2年生で数学や物理を履修する。物理学や数学は、工学の導入科目としてだけでなく、その学問そのものの探求、他の学問分野の基礎になり得るものとして学習することは、その後の、知的発達に全く異なる影響をもたらすのは当たり前ではないか。

3.教養軽視の段階問題

 仮に高校普通科から専修学校に進学する場合でも、一般科目を、十分に履修している。但し、大学教養課程はないが、専修学校は自らの学校を、「大学相当」等と欺瞞的な説明はしない。工業高校は高等教育ではない。そして、高校普通科から専修学校に進学する者は、自身の学力水準に納得して進学しているはずである。納得できなれば大学受験を続ければよい、という自由がある。

 高専とは一体何のか。高等教育を標榜する学校が、それより下位の(と高専側は思っている)専修学校生徒よりも、結果的に一般科目が削られているという事実を何と捉えるか。はたして、このようなコースに成績優秀者が学ぶべきなのか。学んでいるとしたら、なにがしかの欺瞞があるのではないか。次に、たとえ高専進学が生徒自身の間違いだったとして、間違いを正す精神的な自由を認めているであろうか。私は私も含めて、複数以上の生徒、複数以上の出身者に、聞いたことがある。3年修了時に(退学を条件として)大学受験をしたいと申し出た生徒に対する高専側の対応は、彼らをドロップアウトとみなし、就職なんかないぞ!大学受験など無駄だ!大学に受かるはずがない!などの冷淡な態度であることが多いという。これは、高専3年時では既にクラス担任が専門科目担当教員に移っていることも関係しているが、よく高専の体質を表している事実というべきであろう。狭い世界で自分たちの特殊な教育を礼賛し続ける高専教員たちが、自ずからそうなることは当然と言えば当然であるが、逆に、彼らは実は内心こう思っているかもしれない-自分たちの学校カリキュラムでは一般入試に受かるわけがない・・・つまり、英語や社会はできないし、数学さえも間に合っていないとー。当の高専生も、一般入試の大学受験などは念頭にないので、教員と同様の態度を示すことが多い。それは、そうである。3年次、気づいたら近くの普通科高校生より英語が出来なくなっている、数学ができると思い込んでいた連中が大学入試の数学を書店でみたとき面食らうことぐらい、彼らでもわかるのである(英語については単なる学力不足、数学についてはトレーニング不足なのであるが)。

 自分は、その段階の、その能力に応じて、いかほどにも成り得る、逆に、成りえない、という精神における自由こそが、自由学芸を学ぶ基盤になる。高専に入学するのも高専を退学するのは自由だから、その意味では高専にも”物理的な”自由があるが、日本の95%以上の18歳段階の生徒に、能力に応じて担保されている、精神における自由が、高専にはない。そのとき学ぶべき自由学芸の基盤が高専にはない。17歳、18歳葛藤の時期に入るときには、古典や語学はそこそこに、3年先まで続く専門教育がすでに機械的に開始されていた・・・退学の自由のみ存在していた。そのようにして学校を去っていった者が多くいた。

 高専の生徒の水準が今より、格段に高かった設立当初、彼らは、以上の構造に気づいていた。いわゆる高専闘争は、極めて学力水準が高い自分たちが受けている教育をして「職工教育」「企業迎合教育」と批判したのであった。この高専闘争に対して、学校・国側は、いわゆる大学工学部への編入学という「袋小路」問題の解決で応じた。しかし、全章を通じて指摘する高専問題が残る限り、この措置は単なるガス抜きにしか思えない。

 高校科目を圧縮し、大学教養科目を省いて、早期に専門科目を組み入れる。こんなものは普通、大学と呼ばないが、彼らの論理によれば大学並だそうで、優秀者よ来たれとやっている(しかも、大学並みだというのに、その後大学にも行けるという。さらには、中卒後22歳まで学んで自校では学位を出せない。自動的に認定されることもない)。このように、比較的優秀者を誘いながらも、どの段階で、どの程度、どういう内容の教育を、どういうバランスで授けるかという問題に無頓着な教育制度である高専制度は、それが残る限り、教養教育問題を内包し続けていく・・・、欠陥教育として存在し続けていく・・・それだけならまだしも、犠牲者を量産し続けていくのである。