第2章-高専教育における教養軽視と教養蔑視(2)-

最後に、2つの新書から、引用させていただきたい。

 

「単純な種類の無知に対処する技術は職人的な専門技術の教授と呼ばれた。これにたいして『大きくて厄介な』種類の無知に対処する技術には、教育・教養((Paideia)という呼び方がほとんど全ギリシア人の間に普通に用い入れられてる」(廣川洋一『ギリシア人の教育―教養とはなにかー』69頁)

 

「農村出身者の子弟は都市でギルドやツンフト(手工業組合)の職人になる可能性があったし、大学に進学し、法律家や官僚、司祭になる可能性も生まれていた。このような可能性が開かれたとき、はじめて人は『いかに生きるか』という問いに直面したのである・・・これが『教養』の始まりであった」(阿部謹也『「教養」とは何か』53頁)

 

 教養とは、ある時点における教育課程ではなく、生涯を通じて醸成していくものである。また、教養一般については、ちゃんと人間として仕事をする中で醸成されていくとも言える。特に、阿部謹也によれば、農夫も「人生に向かう姿勢」としての「集団の教養」を有しているという。筆者が、高専及び高専の学生の教養軽視を批判して言う際に、〝高等教育としては゛、゛専門科目に比べて゛、゛可能性を閉じている意味において゛という趣旨の限定をつけたのは、その点に留保をつけるためであった。しかし、この限定された意味であっても、その教養軽視が、「構造的」「意図的」(ある意味ではそのように仕向けられている)、「比較的」(大学並と称しているが、大学と比べて高校や大学教養の内容が省かれている)、「欺瞞的」(以上のことにあえて気付かせない)という教育のあり方そのものに関わることを背景に、しかも、これが制度化されているということも、極めて重要なことであって、以上の二つ書物を引用した次第である。農夫ならまだよいが、高専の専門技術偏重教育は、可能性のある人間の人生に向かう姿勢さえもイビツにしているのではないかと、危惧しているのでる。

 ところで、この章の表題には「蔑視」という言葉が入っている。確かに軽視されているが、蔑視などしていないという反論も聞かれそうそうである。なるほど、学校そのものはそう反論するかも知れないところが、以上に見た①「構造性」や「欺瞞性」が、今度は、生徒の方にも跳ね返って、高専の生徒の多くが教養を蔑視するようになってはいまいか。②早期の専門科目導入が一般教育を圧迫する弊害をうんでいまいか。高専生に「教養がない」とされるのは、教授する内容面に加えて、そういう教育を優秀者が受けるべき優れた教育と構成して、これを美辞麗句で覆い隠すこと自体にも原因があるのである。2年次高専生が(高専教育を特徴づけるとされる)「工学実験をやらないのといけないので、そんな暗唱課題を課さないで下さい、歴史の教科書を読む暇もありません」。そう言うわりには、アルバイトには精を出す。おそらくそんな光景は高専には珍しくない。このような気質を持つにいたる高専生が全寮制の名の下に一斉に学寮で同質の生活を営んだらどうなるか。学力が一定ライン以下に下がった高専では次のような事象が現れるに至る。過去問を持った先輩が、アイツの試験はどうだこうだと偉そうに説教し、その過去問を申し送る。入学時は純朴だった生徒も同じことをやり始める。それ自体はまだよいし、やってもよいが、先輩に最低限の知性がないからからただただ押しつけがましい。みんな一斉に同じことをやらないと睨まれると感じ始め、小さくなる。深い人間関係が形成されるが、悪く働くと悪の腐れ縁もまた続く。24時間、同じ専門しかも人文学や社会科学志望者はいない、同じく専攻者などもいない(中卒後専攻としてそのような学問をさせるべきではないから、いてもらっても困るが・・)、同じような価値観をもった人間としか付き合わないから視野が狭くなる。しかも、学生などとおだてられているため自由を履き違え始める。そして、いつからから、多くの高専の学寮では暴力事件や窃盗事件も頻発した(このような事実があったことと、その解決への取り組み例として、西田亀久夫『教育政策の課題』所収「高専の窓から見た学生指導」)。こんなところに「人間力」「教養」が育つわけがない。

 筆者は、高専における教養軽視を最大に表しているものが、国語古典教育の圧倒的少なさと英語教育における文法読解軽視、だと思っているが、以上の事例が理解できない一般の方々は、そういうことも念頭におかれるとよいと思う。一般論としては、普通科高校で国語古典教育が厚すぎるとも言えるが、しかし、しかるべき水準の生徒の教育として、自由が与えられた生徒の教育として、古典と文法が全くなくなったら、そういうことも起きることは肝に銘じてもらいたい。

 

  付言しておく。高専にも、問題意識の高い、優れた一般科目担当教員がいるのは、筆者も認めるのである。そして、教員の良心として、小さいながらも教養教育を充実させようとするのもわかるのであるが、私が出会った最も素直な教員は、「この学校では一般教育が非常に軽んじられているから、これが受け入れられない人は、3年でやめて大学受験しなさい」という者があった。

 ところで、高専一般科目担当教員には、

 ①大学教養課程担当者型

 大学一般教養担当者は、不当にも低く扱われてきた。その中にあって、しかるべき教養教育を実践した者もあったが、できれば専門学部に移りたいと願う者も多かった。高専の教養教育の組織基盤は極めて貧弱か無きに等しいが、高専の一般科目担当者には、例えば大学院修了後あるいは助手・助教の任期を終えた後に直ちに高専に赴任するなどしたため、この類型にあてはまる者もいる。但し、あまりに長く高専にいると、②のパターンにもなりうる。

 ②高専生え抜き型

 ①の類型と重なるが、院卒(昔は学部卒も多かった)後直ちに若くして高専に赴任し同じ高専に奉職するタイプ。(ⅰ)研究者の地位を有しつつ内部から高専教育を問うというような問題意識を持っている人、(ⅱ)まったく、問題意識の欠片もない、しかも、研究もしないタダの先生、(ⅲ)そこそこ研究するが、長く高専にいるため高専システムの歪さを感じられなくなってしまっている人、に分かれる。ちなみに、専門科目の高専出身生え抜きのことではない。

 ③高校教諭型

 教育者の義務として、職業教育を受ける者にも、最低限これだけは身につけさせようと努力するタイプ。なお、実際の高校教員は進学校にも職業高校にも異動するから、①の人たちとは異なり結構ドライにこれが出来る。実際、生徒指導の問題もあって、高専の一般科目担当者には高校教諭出身者もかなりの比率を占める。②の人でも「教育者」に徹すればこの類型に入れられる。

 ④お客さん型

 高専という学校があるらしいが、教員生活や研究教育機関(特に理系の物理や化学担当教員)勤務の中盤あるいは最後を迎えて、次は、「国立」の「教授」の肩書きも悪くはない。非常勤で大学で講義もできるし、好きな研究もできる。

 に分けられると思う。高専一般科目担当教員は、ある意味では高専の矛盾に気づいてそれを文章にできる人たちである。しかし、そうと知って、高専教育をそのまま肯定・礼賛する人たちに私は大きな不信感を抱く。教員自身による実態調査や教授法・教科教育法の成果は肯定できるが、しかし、例えば外部出身校長や高専に踊らされた人によるこんな教育実践例があってすばらしいという類の主張は、私にはまったく響かない。むしろ、冒頭に述べたような、本音を語り、ある意味では差別的な教員にも一分の理があると思う。ところで、こんなくだらない類型を持ち出した理由は、実は上記の②③の人たちが高専教育の矛盾に気づくパターンが多いからである。不思議なことに学者の端くれである①の人たちの方が、「ユニーク」などと言って面白がっている場合が多い。高専制度を面白がっているということは、逆に距離を置いて達観しているとも言えよう。高専の内にあって、意識は外にあるとも言える。外部出身校長もこの類型に入るだろう。決して高専は「面白い」存在ではないことは、次章以下でも述べていくことになる。ちなみ、この①の類型の人たちの中には、面白がったまま、大学に口があればさっさと転出していく。②(ⅲ)の類型の人たちにも、例えば、高専は大学と同じであるから、どんな大学学部にも接続できるのすごい存在であるとか、ドイツの何々という大学システムに相当する、などの妄想をする者が現れるにいたる。