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第3章-高専はモデルにあらず!(1)数学力と英語力の欠如-

1.ある小論から 

 かつて、学力低下と「ゆとり」教育批判の文脈で、西村和雄ほか編『分数ができない大学生』が話題となった。この時代の、これらの問題提起は、その後の教育政策にも影響を及ぼした。

 ところで、同じく西村氏が編者となった『ゆとりを奪った「ゆとり教育」』という本に、実は、高専とはどういうものであるか、を示した小論がおさめられれている。それが、ある高専教員による小論「モデルは高専にあり」である(以下、『モデル』)。この小論で述べられている、著者本人があげる高専についての「事実」は、第一に、高専とはどの程度のものかを示している。第二に、これらの著者本人が美点と思って挙げている「事実」は、よく事情を知った者や教育についての一定の知見、一定の知性を持った者なら、高専の美点ではなくて「欠点」であるに過ぎない、あるいは、なぜそのような高専についての事実が美点であるかの論理的説明が欠如している。そもそも、せっかく西村氏らが本質をとらえた問題提起をしているのに、ここで述べられている一編の高専教育論に限っては、学力低下という教育問題を問題として論じていないのではないだろうか。これまで高専教育に向けられてきた批判を一切理解していないのではないか。創立以来ジワジワ学力が低下している当の高専が、学力低下にかこつけて、高専こそモデルあるというのもいかがなものか。この小論を題材に、教養問題のほかに、高専およびその学生の学力問題を扱っていく。

 ちなみに、この『モデル』が書かれた年次は2001年と新しいものではないが、よく、高専教育の内容をよく表しており、また、書籍におさめられているという便利さもあって、あえて、題材にした次第である。現在の高専教育の実情は、(わたくし筆者が批判した価値的部分を除き)この本の内容とそんなに変わらないと考えている。

2.高専の一般科目は、高校理数系の半分の時間数。数学でさえ危ない!

 『モデル』91頁では、一般科目が、高校理数系102単位(当時)に対して、高専66単位であることを素直に認めている。普通の人なら、「たったの半分」という事実に驚愕するであろう。ところが著者はオカマナイなしに、高専では、数学だけは「同じく18単位」で、高校の内容を「二年生までにすべて学習し」、三年次には大学1年生が学ぶ内容を学ぶことを強調している。さらに、95頁では、物理などについて、大学受験の勉強を差し引いても、「少ない」ことを認めている。『モデル』では述べられていないが、化学については、物理以下である。

 以上の内容だけでも、高専とはどういうものか、どうも高専教員の問題意識は低いのではないか、ということはわかるのであるが、さらに、高専の実態に即して述べていこう。

 ゆとり教育で揺らいだ時期があったとはいえ、国立大理工系入試では、多くの場合、理科を2科目選択させられる。さらに多くは物理か化学は必須、物理・化学両方選択もありうる。大学工学部で物理と化学の理解を欠如すれば、学ぶ資格がないというわけで、入試によってその学力を担保しているわけである。そして、入試問題も、センター試験の基礎から二次試験の応用まで決して易しい水準ではない。名門私学の理工系でも理系科目については同様に難しい。ところが、高専では、そもそも、単位数が少なく、高校生が入試によって事実上時間を確保されている、演習時間さえもないのである。能力担保は、授業さえ聞いていれば何とかなる学内試験のみである。

 さて、数学力である。まず、高校生で国立大学工学部や名門私立大学工学部や中堅私立理工系大学に入学しようとする者は、数学Ⅰから数学Ⅲまで必須であり、その入学試験内容は、上記で述べた物理や化学同様、高い学力水準を要求している。したがって、しかるべき水準以上の高校生は、教科書だけでは足らず分厚い受験参考書で勉強しているのである。ところが、ここからが、物理や化学と若干違うところであるが、高専の場合、なるほど、3年生までに扱う範囲は高校よりも多いが、演習が少なく数学そのものの勉強の深度が浅い。つまり、高専の数学は工学科目に間に合わせるため、表面を高速でなぞっていくというのが実情なのである。物理や化学の入試問題を解くことは、数学よも技術的側面が強いが、数学で、このような勉強スタイルでよいのであろうか。筆者などが言うに及ばず、理工学の問題は、最後は数学の問題である。さらに、数学そのもので養われた抽象的思考は、理工学分野の応用問題を考える際の大きな武器になる。ところが、高専ではカリキュラム時間の関係上であろうか、それとも、そういう「思想」なのであろうか、あまりに、数学で養われる潜在能力や応用的展開に顧慮を払っていない。そして、ついには、企業側の評価でも、高専出身者(転換試験などを経て、あるいは編入学を経て大学院修了したものでさえ)が研究開発部門に抜擢された場合でも、彼らは「解析(微分積分)力が劣る」部分があるなどと評価されているケースがあるのである。なるほど、分数や小数が出来ない大学生はいるかもしれないがが、逆に、高専出身者では大学入試センター試験や二次試験の数学の問題を解けないものがほとんどである(そういうトレーニングを受けていないから、やむをない、というのは理由にならない。何故なら、彼らは、数学が出来ると自称しているからである。”出来る”というなら並み以上にやってみせろ、ということだ)。西村氏らの前著『分数ができない大学生』では、大学生に行われた簡単な算数や数学の学力調査が公表されているが、ここでは、大学生のおそるべき学力低下が示されている。しかし、よく考えてみたい。国立大学や名門私学の理系出身者については、分数や小数の計算ができるようにはならなかったということは絶対にあり得ず、もしそういう事実が現象として見られたならば、単に分数計算法や小数計算法を忘れてしまっているという程度のこであろう。この程度のことは、中学卒業後には基本的に入学試験を課せられることとない高専生にも当てはまると見てよい、否、その可能性大である(高専生の学力低下あるいは気質の劣化問題については、高専内部の紀要やまれに教育雑誌などに掲載されることがあるから、各自で参照されればよい)。なにしろ、大学受験生が紙と鉛筆で数学を勉強しているとき、高専生は計算機を与えられているのである。

 ちなみに、高専の数学教員のレベルは現在ではちゃんと高等教育レベルを保っていることは間違いなく、形式的な面でも、現在では博士号を持っている者が多い。筆者の如きに教育課程を批判されるのは、それこそ噴飯ものなのかもしれない。しかし、半分、同情もしていることを述べさせて頂きたい。筆者が知る、複数の数学教員(これらの人も大学教育経験者や学位取得者であった)に、まさに、「(高専1・2年次でやる内容を指して)これは高校の範囲ではない」という言動があった一方、「表面を・・」「演習が・・」「高校生で理学部数学科や物理学科、工学部応用物理志望者ならこの問題に食いついてくるのに・・・」といった言動もあったのである。筆者の知り合いには、数学を本格的に学ぶために高専を退学して、理学部数学科を受験したものがあった。高専にも稀に天才が入学してくることがあるが、彼は、「高専の数学」に文句は言っていなかった。天才は天才だから、勝手に「大学への数学」等をどんどん解いて喜んでいたのである。天才にとっては教科書や教授内容・方法はどうでもいいのである。こういう天才は、そもそも高校や高専の数学教科書を”やれやれ”といってバカにするわけだから、サンプルにはなりえない。 

3.基礎基本科目を軽視しているのは、高専である

 『モデル』95頁では、高専の過密?(この点については、後述)カリキュラムを解消するために、高専でも「カリキュラム削減」が行われたという。そこでは、「基礎・基本科目(小学校ならば国語・算数)には手を付けず後で、効率よく学べる科目(社会など)を削減すべきである」という。では、高専で、どのような科目を削ったかについては、記述がない。①数学だけは、最低限の水準を保とうとするはずであるが、それでも、大問題あり、ということは上述のとおりである。②そして、削られるのは、真っ先には社会というのであるが、次に、”すでに”徹底的に削られているものがある。それが、「小学校ならば国語」の「国語」である。

 なるほど、高専の人文科学や社会科学分野の教養軽視はすでに追及し、これが、ここに証明されたのであるが、筆者が本当に言いたいのは、次の視点である。専門科目や実習科目などの応用的な科目をなるべく増やす一方、中途半端な数学力や理科科目の理解、そして「小学校なら国語」の国語を無駄なものとして削るなど(「社会」などは論外。歴史の勉強などは全然足りていない)して「基礎・基本科目」の習熟に致命的な欠陥を生じてきた高専が、何の資格があって、このようなこを言うのであろうーその欺瞞性である。さらに言うなら、「社会」を削って、後で効率よく学べるというが、「学校教育内」でそれが保障せずにおいて、「後で効率よく学べる」などというのも欺瞞である。往々にして”後で学ぶ”ことなどはない。この欺瞞性の指摘は、もちろん、著者個人に向けたものではなく、高専制度一般についての論評である。

 ちなみに、数学の教科書は全国の高専でほぼ高専用の共通教科書(検定教科書は高専には設定されていない)を使う場合が多いが、物理や化学は、担当教官の方針で、高専用の教科書や検定教科書を使用せず、大学の教科書又は専門書を使用するケースがある。しかし、年齢的には高校生向けで、かつ、授業時間がすくないため、ほぼモノにならない。高専生は、分厚い大学向けの教科書を手元において、勝手に「スゴイ」と思っているが、学力水準は全く追いついていないのである。むろん、青年が難しい研究的教科書や専門書を手元に置いて背伸びをする効用は筆者も認めるし(高校や予備校でも、大学レベルのお話や参考書を紹介して、知的な関心を呼び起こすことが結構ある)、一般科目理系の教員の知的な反抗と捉えられないこともないから、規制すべきことではない。しかし、高専が全体として、そのような教育になっているとしたらやり過ぎだろう。高専教育には後期中等教育の内容が多く含まれているのであって、この内容を保証することも考慮しなければならないからである。また、そういうケースは、そういう先生がいて一部の生徒がこれに呼応するに過ぎないとしても、これに寛容になればいいことであって、別に「高専がスゴイ」わけではないことは念を押しておかねばなるまい。本当にスゴイ人は高専生でも高校生でも、教科書が何であろうと、勝手に専門書を読み込んでいくものである。

 ここまで述べれば、「高専があまり動かない間に」「周囲が自然に落ちていった」という見解の危機意識の無さとオメデタさを一々論破する必要性はない。

4.高専とは理念が反対の学校-アメリカ・リベラルアーツカレッジ

 『モデル』99頁は、蓮實重彦前東大学長の「アメリカでは大学院を持たない、いわゆるカレッジがたくさんあって」、その卒業後は、ハーバードやMITなどの「優れた研究型大学にどんどん人材を送り込んでいるのです」との言動を肯定的にとらえたうえ、カレッジを高専に準え、高専の「高大一貫」教育に意義を見出している。

 この理解にはは、大きな誤謬が含まれている。ここで蓮實重彦前東大学長が挙げておられる「アメリカのカレッジ」と呼ばれているものは、アメリカの「4年制」「リベラルアーツカレッジ」のことと見て間違いない。このリベラルアーツカレッジの特長は、確かに専攻や実験実習もありうるが、早期に専門科目を専門家になるために教え込むことに意味を見出さず、20歳や22歳までは、まさに広く一般教養を磨くことに重点を置き、卒業後に大学院で本格的に専門科目を学ぶことを前提にしている学校群なのである。いうなれば、「すぐ役立つことは、すぐに役立たななくなる」という理念があるのだが、これは、まさに高専の教育とは正反対の理念ではないか。日本にも、このリベラルアーツカレッジの理念を受け継いだ大学はたくさんあるが、例えば、ICU教養学部しかないのがその典型例である。

 気力を振り絞って、一言付け加えると、アメリカにはカレッジとはいっても、様々なレベルのものがあり、そこから、ユニバーシティに何らかの形で入学することもあるから、これに高専を準えたのあろうか。しかし、蓮實重彦前学長の発言が、「リベラルアーツカレッジ」を念頭に置いていないことは絶対にありえず、敢えて、批判した次第である。

 近時、アメリカリベラルアーツカレッジに言及したものとして、池上彰池上彰の教養のススメ 東京工業大学リベラルアーツセンター編』がある。実は、この本には高専についての皮肉な記述ー著者らは堂々たる教養人であるが、図らずも皮肉となっているーが見られる。つまり、みんながみんな頭でっかちになって、さらには大学を目指す必要などはない、多様な人がいてよいという、という文脈の中で、高専生は「身体的には頭がよい」というのである。この記述の二面性に気づけない人間はよほどの阿呆である。ほんの数行、必ずしも意図せず何気なく行われた対談内容についてコメントするのは気が引けるが、一応述べておきたい。

 「身体」で身についた「教養」、あるいは、前章において言及した阿部謹也「農夫の教養」というのは確かにあるのである。では、わずか1パーセントの特殊な枠に、あなた方には「身体的に」優れていればよいですよ、として精神的な面でも知的能力の高いはずの人間を押し込んでよいのか。後述するが「身体的に」優れた層が厚く存在すべきというなら、この枠に全体の3割以上の人間を誘いつつ(しかも高専のような欺瞞的な宣伝をせずにである)、また「精神の教養」を持った一定層も必要なのである。しかし知識階級は前者の層に入るのを望まないであろう。あたかも、この本の著者たちは自分の子弟を、身体的に優れる?="実践的"“実学的”?教育を標榜する学校ではなく、教養教育を徹底するするウェルズリー大学に行かせたいと、はしゃぎながら言っている。そもそも、この本は、すぐに役立つことはすぐに役立たなくなるとか、MITでは芸術や音楽も大切にするとか、実学重視が柔軟な思考を奪うとか、先のリベラルアーツカレッジのところでも述べたように正に高専教育とは正反対の思考のオンパレードの本なのである。彼らは、高専カリキュラムが教養ないし一般教育軽視の土台の上に成り立ち、中でも、高専の芸術や音楽の授業が極めて少なく薄いことをご存じなのであろうか(筆者の経験では、専任教員は皆無で非常勤講師がやれやれという感じで出講し、適当にスケッチして、音楽聞いて、という感じだったと思う。中学校の方がまだ厚い内容であった。国語が軽視されている以上の程度で軽視されているのである。もっとも逆に、高専でも音楽や芸術の授業がちょっとはあるのですね、と言われた時の方がショックだったが・・・)。芸術といえば、野村正實氏は自身のHP上で自分が大学生になったときに大学同級生がみな知っていた「エコールドパリ」を自分のみが知らなかったことを述懐している。「世界を変えた10冊の本」など池上のことを筆者は好きだが、池上氏らに限らず一般の知識人層は、この野村氏が感じたような(もちろん筆者も同じ以上の経験がある)ある種の“みじめさ″を理解できるのであろうか・・・。この池上氏らの本は有益であり、たまたま高専のことがほんの数行だけ話題になったにすぎないが、万が一にも高専関係者がこれを面白がって読んでいるとすれば(東工大つながりで、いずれ、誰かが言及するであろう)、繰り返すが、余程の阿呆である。高等教育機関と称してはいるが「教養」の存在そのものが問われている学校に、「身体」的な「教養」ならあるとしたり、ましてやこれに優秀層を誘うというのは例によって例のごとく欺瞞なのである。ちなみに、一時的には「身体的」には頭のよい連中が、通常ルートを歩んだ連中よりも、最終的にはたとえ実践的な面でも優れているとは限らないことは、本章3章と次章4章で、「多様性」のワナについては第6章で言及してある。また、第1章の『アメリカの大学の裏側』という本に言及した箇所も参照したい。

5.高専生に自己学習能力があるか?

 『モデル』100頁では、高専には、その勉強のための学習塾や受験参考書がないため、高専生は「自己学習能力」の意識が高いという。

 これは一面をみたものである。高専の学生間には、実は、過去問が流通していて、これで勉強している(勉強しないものは、過去問さえやらないが・・・)。高専の教員は基本的に異動がないので(高校や大学から移ってくるケースはある)、過去問の効果は絶大である。もうひとつは、やはり「教養がない」ことである。教養がないなら、自分で教養を身につけるようにしてもらいたいところだが、これはしない。高専生のメンタリティには役に立たないものはやらない、生徒間の雰囲気としても教養を軽視あるいは蔑視する風潮があるからである。さらに、高専の教育は短期間に多くのことをやろうとしすぎるあまり、これをこなす勉強になってしまっている。その学校の少ない割合の優秀者は放っておいても勉強するというなら、その程度の現象はそこそこの水準の学校で当然見られることである。

 そもそも、マニュアル受験勉強というが、その受験勉強さえも、工夫してやらないと、つまり、自学の意識が低いと、成功しないものである。受験勉強も高次のものになると、今日はここまで覚えたが、こういう解き方をしたが、次は、こういう方法でやってみようというプロセスがないと身につかないのである。また、その過程で本物の知に目覚める場合もあるのである。

 そして、受験勉強を経た高校生も、ちゃんとした大学に入ったら、ものすごい密度で勉強する。工学部や医学部が実習で忙しいのは有名な話である。かれらは、大学という自由の場で、やらなければ落ちるだけという場で、結局は、自学自習になるのである。彼らのうちに脱落者を見るのは大学に自由があるからである。確かに、高専は、高校と比べたら、やらなければ落ちるところまで落ちる。しかし、逆に、これさえやってくれれば落とさない、という風にもなっている。高専からの脱落者は「自由」の産物であろうか。本当は「自由」がないところに勝手に自由を感じ、そして、自由そのものを履き違えているだけではないのか。

 もう一つ見逃せない問題がある。高専の中だるみ問題である。①高専は長期5年間の在学で、②大学受験がないこと、③高専の専門技術教育重視の特殊な教育内容への適合不安も重なって、早い例になると2年生あたりから、本格的には、進学高校生が受験勉強している期間である3年生あたりから、勉強に意義を見出せず、留年・退学・自堕落・非行が目立つようになる。このことは他の章で述べることになるし、全国の高専教員の共通した悩みである。自己学習能力どころか、学習への意欲を失っているのである。筆者は思うのである。18歳で区切ってやれば、こんなことは起こらないのではないか、逆に、18歳で区切ったからといって工学教育が受けられなくなるわけではないのではないか、むしろ、区切ってあげた方が、よい教育効果を生むのではないか?

6.高専生は英語ができない
 『モデル』101頁は、高専教育の問題点を「例えば英語」で片付けている。この英語について高専生の英語力は、大学工学部に一般入試で入学した者の英語力と比較にならないほど低い。受験英語は、語彙の増加、大量の英文を高速で読む訓練、抽象度の高い英文を読みこなす訓練になるが、高専には受験がないので、ついつい、おろそかになるのである。受験勉強というのは、先の数学の例と合わせて思わぬ効用を生むものであるが(受験英語の効用については、渡部昇一平泉渉『英語教育大論争』。特に渡部は、先の数学の例同様、受験英語をはじめとする読解と文法重視の英語学習は「知」を開く働きがあるという。)、高専生のほとんどはこの効用に気づいていないか、たとえ気づいたとしても、やる動機が働かない。ある大学工学部生(高校→大学)に聞いたことがあるが、工学文献の輪講でつまるのは、ほぼ高専からの編入学者であるという(なお、応用数学演習のような基礎科学的な授業についていけないのも高専出身者が多いということである。代わりに実験などはできるそうだが、修士課程の終盤になると高校出身者-というよりも、この方が圧倒的に多いのであるがーも実践力が身についてくるため特に差はつかないそうだが、英語力や数学力は最後の最後まで差となって残るようである)。

 次に筆者なりに気づいた点を申し上げていくと、高専の英語教師の質は必ずしも低くはない。ところが、受験がないここと教養を軽視する高専生の気質が相まって、彼ら教師が独自の教室運営に走ってしまう傾向がある。例えば、「効果的なLL教室の運営」とか「特定目的(工業英語等)の英語読解」などの研究成果を、受験がないことをいいことに、試そうとする傾向がある。受験英語は少なくとも、日本という多くの国民が英語を使う必要性に乏しい国柄の国家にとって、少なくとも”読む””書く”ことの能力の基礎を作ってくれ、その基礎があってのLLなり特定目的の英語なのであるが、繰り返すが、受験がないので受験英語さえ蔑ろにされて基礎がないところに応用を組み入れようとするため、モノにならないのである。第二、英語の学力を高めるためには、家庭での学習が重要である。現在の高校生の在宅学習の多くは英語に振り向けられているという。ところが、高専は、受験がないことに加えて、高校生の同時期に専門科目側からのの時間的・心理的圧迫があって、授業時間外の予習・復習にあまり時間をさく風潮がないのである。このことをも大きいと考えられる。高専生の英語力は、平均していえば、高専5年間で、高校2年生が身につけるべき英語力に及んでいないであろう。中学生レベルで止まっていると指摘されることさえもある。受験英語あるいはこの理念に基づく英語教育さえも放棄したら、どの程度の学生が生まれるかという好例である。もちろん、古色蒼然たる受験英語には批判もあるのだが、読解・英文法、あるいはその題材としての英文学や内容あるエッセイを読むのは無駄という発想で、都合良く、TOEICTOEFLだけ得点を上げようというのは、いかにも寂しい発想で、また、効果はあがるまい。ただ、最近では、TOEICが英語力の指標にされていることもあって努力目標を立てているようである。また、一流大学ではさすがにTOEIC400点では相手にされず、そこを目指す生徒は高スコアを得る努力をしているようである。しかし、一流大学を含めて大学編入学をする者でさえ、一般入試組より、抽象度の高い英文の読解力・解釈力、語彙力、英作文等の英語力一般(筆者は、これらの能力はTOEICでは測定しきれないと考えている)が格段に劣っていると考える。

7.後期中等教育年齢における一般教育

 ところで、この「モデル」氏のことではないが、高専教員の中には、後期中等教育年齢の生徒に人文社会分野の一般教育を行うのでも、学位を持った教員が教えていることを高専教育の特質に挙げている者もいる。例えば、高校の内容を教えるのに学術的な内容を基盤にして、興味を喚起することが出来るなど、と。

 この点については、筆者の経験を述べておく。

 国語の教員は2~3名ぐらいいたと思うが、そろって文学修士であり博士課程修了者もいたはずである。それぞれ、近代文学、古文、漢文の各分野で、本数的には学者とまでは言えなくても、自校の紀要を中心に、ときには学術雑誌に、いくつか論文があったと思う。確かに、その専門分野の話を組み入れるのであるが、逆にクラスの生徒の”誰一人として”古文や漢文を読めるようならなかったことを断言しておく(後に、筆者ともう一人のクラスメンバ-のみが大学受験のため、相応に読めるようになった)。徒然草の文学的鑑賞、老子の思想等は、趣味的にお話ししてくれたが、それで終わり。他の分野も似たり寄ったりだった。Fランク大学でも、一応、担当教員は博士課程修了者であろうが、受講生はみんな居眠り。むしろ、こちらの状態に近かったのではあるまいか。

 ところが、学部卒で高校教員をしていたという、ある文系分野の担当教員の授業はオーソドックスに教科書に沿っていくのであるが、非常に面白く、筆者もその分野の本を手に取ったことがあった。クラスの人気も非常に高かったと思う。

 つまり、中等教育段階における教育は、しかるべき王道の内容について、「教室」で出来ることに「徹して」もらえばよいのである。その中で、意識の高い教員は、時に面白おかしく、時に学術的にと「知」への扉を開いてくれる。中等教育段階における一般教育というのは、そういうものなのである。

 だいたい、今時、高校教員でも、専修免状で修士号を持った者が多いのである。オーバードクターで高校教師になった者さえ珍しくない。しかるべき水準の高校では、学部卒業者であれ、修士号取得者であれ、その高校教員の授業によって、数学や物理の面白さに目覚め理学部や工学部志望になったりするのである(ただ、高等学校普通科教員にも、理科等の分野で工学部出身者がもう少し多くなって工学部志望へはずみをつけてくれればとは思う)。一般科目理系では、学位取得者による授業によって、多少の厚みを加えることが出来るかもしれないが、基本的には同じことが言えると思う。また、上述の通り、高専の一般科目理系は、カリキュラム的に意外に基盤が弱い。

 ちなみに、筆者のいた東日本地区の高専では、奇妙なことが行われていた。若い博士号をもった教員が高校生の範囲に相当する1年生基礎数学の授業をもち、修士や博士号どころか一編の学術論文もない、ただ教育実践例の小論のみが御業績というベテラン教員が工学部相当と称する3年生「応用数学」の授業を担当し続けていた(この教員は県下2番の進学校で教えていたことだけが自慢のようであった(自身も県下2番の高校卒業生か?)。50を過ぎて高校から高専に来たようだった。他の世界を知らない当の高専生さえ不満を漏らす者があったほど講義内容は薄い。散々、高専をこっ酷く批判してきた筆者であるが、県下2番(実際は学区があるから2番の集団ではない)の進学校というのは大したことがないものだと思った)。一般科目理科系の教員なら、何も一流学会誌に何本も論文を載せろとまでは言わないまでも、研究機関ではない高専においては、紀要等に学術的な内容を生涯で1ダースでもいいから書いていれば、生徒側の方も納得するものなのにそれさえもしない。高専設立50年において少なくとも35年以上こういうことが長く続けられていた。先の文系分野の元高校教員の例とは反対に、理工系専門と称する分野でこのようなバカげたことが行われていたのである。一般に高専の教員のレベルは低くはなく、現在では学位をもった者が多数を占めることは先に述べたが、歴史的にはこのようなことも多発していたのである。冒頭で述べた「学者による教育」などは実は高専の歴史において根付いてきたものではない、むしろ、高等教育としてはオカシなことが長く行われてきたことを述懐の形で述べさせて頂いた。また、筆者が専門分野の担当教員なら、文系であれ理系であれ基礎科目をちゃんと先生に習ってから上がって来いという。三文学者による趣味的な文系科目の講義などは不要である。そういう講義は、高校の内容をちゃんと固めてから受けるのであれば、何某かの益はあるだろう。

8.楽しい高専生活?

 『モデル』は、最後に、高専は「忙しい学校」であるが、クラブ活動や音楽などの趣味に楽しみを見出している者が多いという。(「ゆとり教育」問題にかこつけて)「忙しさがゆとりを生み出している」だという。このような、受験がない分、専門科目の学習が充実しているというのも、高専入学者を誘う文句になっているようである。

 まず、趣味に楽しみを見出す時間があれば、英語や数学をちゃんと勉強しろと言いたいところだ。次に、「忙しい」というが、その忙しさは、高校3年生の受験生の比ではないはずだ。さらに、クラブ活動の充実というのは、進学高校でも見られるところで、何も高専に限ったことではない。そう考えると、ちゃんとした高校生の方が、忙しく苦しくもある受験勉強の合間に、よく、クラブ活動もやっているということにならないか。さらに、大学生になったら、教養課程で中だるみが生じる場合があるにしても、少なくとも、理系では、非常に忙しい日々を送り、なお、恐ろしいのは、「自由」もあるので、退学・留年も普通に行われることである。

 筆者は何も、進学高校の連中が偉いと言いたいのではない。彼らの中には空回りした空虚なエリート意識が強いものもいて、それだけの人間なら大嫌いである。また、進学校と称する群の中には、大量の強制学習の割には大学合格率は大したことがない学校群もあってこれは軽蔑さえしている。しかし、『モデル』は、あまりにも後期中等教育普通課程及びこれにある者の姿を見ていない。今の時代、低学力者を探せばいくらでもいるが、どの時代でもちゃんとした者も大勢いるのだ。例えば、普通高校でも科学部や物理部がある。彼らは、それらが純粋に好きで、科学コンテストなどで大学生顔負けの研究発表をしたりする。京都市堀川高校のように、研究課題をもちながら京大に一般入試で大勢合格するような学校もある。高専は理系科目・専門科目を先行して学び自由時間もある割に、科学コンテスト等への入賞率が低いように見受ける。逆に、ロボットコンテストはよくやっていると評価できるが、しかし、「堀川の奇跡」はあっても「高専の奇跡」はない。そのロボット工学の分野でも一般入試を突破している者がほとんどだし、最初の大学が文系だったり例もある。

 戦前日本はすでに、世界有数の科学技術・工業技術をもっていた。トップレベルと言ってよい。アジア・有色人種では唯一とも言える。その中心的役割を担ったのは、言うまでもなく、旧帝大や私学を含む旧制大学旧制専門学校出身者であった。かれらのほとんどは、“旧制中学卒業後”に、専門科目を学び始めるか、あるいは“教養”主義的な高等学校を経てその後に専門課程に入った。また、実業学校からの入学もありえたが、そもそも実業学校に進んだ時点でその時代は選抜されたエリートであったし、入学試験はむしろ難しくなる方に作用した。そのために、ハードな受験勉強も当然突破している。彼らに対して、受験勉強ばかりしているから、戦争に負けるような工業技術しか持ち得なかったと批判ができようか(文系官僚や軍人については、その批判は当てはまるかもしれないが・・・)。

9.編入学問題

(1)最後に、高専生は、その辺の平均的な高校生やいわゆるFランク大学生よりは、マシだという意見があり、これと比較すべきだというかもしれない。しかし、(国立)大学工学部に相当する学力や地位などという、以上の論によれば虚偽の宣伝をして比較的優秀者を誘ってきたのは、当の高専側である。

 高専の設立には、戦後、旧制専門学校が大学となり、また、産業界から見て彼らの実践力が落ちているように見えたので、それに代わる学校を、との経緯があるようである(原典資料の他に、天野郁夫『日本的大学像を求めて』にもこのことは書いてある)。従って、上述の旧制大学高専の例は、そのことも考慮する必要がある。しかし、逆に言うと、このことは、旧制大学新制大学の次の第三群(これを階層とみるかは別の話として)としての高専の地位を確認していることになる。また、この第三群には、そこへの入学時を除きその後の受験的選抜が想定されていないことから、潜在能力を磨く時期が失われているし、それが高専の目的となっているということを指摘したいのである。

 ところで、高専には受験的選抜が想定されていないと述べたが、これに対しては、「編入学試験」があると言われるかもしれない。しかし、高専から大学へ編入学する際の試験は、英語や数学については、難易度の問題として、一般受験生よりハードルはかなり低い。是非、試験問題をご覧になって頂きたい。

 次に専門科目である。専門科目で受験させるということ自体が、「潜在能力」をはかっておらず、単に「到達度試験」になっている面がある。もちろん、「到達度」を評価尺度にすべきというのも理解できるが、「潜在能力」あるいは「一般的学力」の評価が甘くなってはいまいか。旧帝大や名門工業大学あたりになると、そうとは言えないかもしれないが(電気系に化学や応用物理を課す等。しかも、入学定員が非常に少ない。それでも学科によっては内申点を重視したり、極端に志望者が少なかったりして、かなり一般的な学力が低いものでも合格する例が時々ある。但し、2年次編入の東大・京大は、さすがにそうはいかないようであるが、入試科目数自体は少ない)、多くの高専から大学への編入学試験は潜在能力や一般的学力をはかる試験内容になっていないのは確かである。また、「競争的」な要素も低い。学力を競争的結果で評価することに異論を唱える教育学者もいるが、競争には、健全な競争もある。また、編入学においては非常に大きな割合で推薦入試が実施されていることは、見逃せない事実である。 たとえば、①「受験勉強したのは4年生の終わりの春休みからだった。高専の1年生の時から勉強をしていた人はいなかった」という類の述懐が高専生に見られる。一般入試を受ける平均的な受験生からすると、勉強時間がかなり短い。②「範囲が高校1年~大学2年生までになるので難易度では編入試験のほうが難しい」という類の述懐もみられるが、いかにも高専生らしい世間知らずである。なるほど、そういう建前であるが、編入学試験では、専門科目と範囲が限定された応用数学などの組み合わせの場合が多く、設問も教科書の練習問題レベルのものが多いので、高専でやった定期試験をかき集めて対策したら合格することが多い。ちなみに国語や社会はまったく試験科目になっていない。 「高専生が遊んでいるのは受験がないからです。編入試験に多くの時間を取りません」とういう例もあるのだが、本人は悪びれてはいない。

  高専生は、1年生から専門科目をやるのだから、それを突破していくだけでも大変だというかもしれない。しかし、それは違う。それは能力の問題というよりは適性の問題に過ぎない。例えば、平均以下の大学の工学部生でもそれしか道はないと考えて専門科目は突破する。また、一般の工学部受験の高校生は数学や物理で大学の範囲に及ぼうかという難易度の試験を課せられたうえ、古文さえ読めるようにしなければならず、その準備に追われる。そうであるならば彼らにこそ、その範囲で到達度試験か数学の超難問を5時間かけて解かせるなどの完全純粋な才能試験を課してくれればよいのだが、その母数に比べて機会が極めて少ない(特別入試。例えば、数学オリンピック入賞者に科目入試を課さない等)。初期の高専生では、きわめて優秀だったにもかかわらず進路の袋小路が大きな問題となった。そこで、国は高専向けに長岡豊橋の両技術科学大学を作った。そこまでは、まだよいとして、高専生の学力が落ちているにもかかわらず、一般大学への編入学措置は試験内容的にポジティブアクションが過ぎるのではあるまいか。高専からの編入学試験は、あえて言うならば、工学研究科大学院入試 に近いだろう。しかし、大学院修士修了が普通になった今日、高専生が大きなワンステップを回避しているのは間違いない。もっとも、国立難関大学でも高校生向けにセンター試験を課さないAO入試等の特典などがあり、入試の簡素化は高専だけの問題ではなさそうである。しかし、高専の場合、やや、制度にうまく乗っている面が強い。。「好きなことだけして」「お買い得」というのは、いかにも、さもしい考えである。

 高専からの編入学者はその大学で優秀な成績を治めているという指摘がされる。しかし、これは、比較的優秀である高専の中のさらに優秀層が、早くから専門科目を履修しそれに偏重しているのであるから、当たり前の話であるし、英語や数学を含めればそうとは言えない可能性が大である。むしろ、当たり前が当たり前になっていない事実の方が重要である。つまり、高専からの編入学者が、専門科目を一度やっているはずなのに学力不振に陥いる例が多くなってきているのである。例えば、あまりにも周りが勉強しない中、真面目にノートを取り続けてクラス上位、推薦を得て大学に編入したはよかったが、大学の授業に全く付いていけず、大学院にも受からず、というケースを結構聞く。かわいそうなケースは、一般入試入学者とあまりにも数学や英語の学力がかけ離れていているため、自分の方で勝手に自信を失ってクラスや研究室から孤立する、という事例さえ見聞する。上位ではない、高専ボリュームゾーンの生徒は大したことがないという評価も聞く。高専専用の技科大は学科の1番が入学していて周りもほぼ全員高専出身者であるからあまり問題にはならない。むしろ、推薦や内申重視がうまく機能しているだろう。あるいは、近時はそうではなくなっていても内部的な問題で済む。また、他の一般大学でも一握りの優秀者のみが編入学していた時代では、実際成績が良い者が多かったろうし、そうでなくても員数が少ないこともあってあまり問題にならない。しかし、これだけ、一般大学への進学者が多くなった今日では、学力不振は受験学力の否定と無関係ではないと考えられないだろうか。筆者は、序章で、高専はあまり人に知られないがために、不当に扱われていると感じた高専関係者の宣伝用の美辞麗句が一人歩きしているのではないかと言った。しかし、「高専からの編入学生は優秀」というのにも、その傾向が現れていると見ている。大学教員側に申し上げておくと、自校の大部分を占める一般入試突破者(彼らもこの大学に入って工学の勉強がしたいと努力し、念願かなって入学してきたのだ)に、最低限センター試験を課すぐらいは当然として選抜方法の工夫や、大学での勉強の心がけを説くことや、工夫した教育を行わず、その責任を棚に上げて、以上のような性質をもつ高専出身者を重宝して見せるのは、どうであろうか。学生は実験助手ではないのだ。まっさらな人間を伸ばしてやることこそ大学教育だろう。もちろん大学教員には、高専生の解析力や語学力不足、資質・物の考え方を、問題にしている者も多いだろうし、筆者も直にそのような声を聞いたことがある。高専からの編入学は、受け入れ当初は、受け入れ大学も少なく、試験内容、入学枠的に厳しかった、厳しすぎたという。逆にこの厳しさを突破してこそ、選りすぐりが育っていった。山梨大学工学部あたりが高専生を受け入れたと聞く。確かに、ここには、極めて強い向学心をもって入学し非常に優れた卒業生を生んでいるようである。しかし、はっきり言って、今の編入学は、一部の大学を除いてかなり緩くなっている。

高専生の学力については、私が見た生徒についての実感や印象をもとにしている。また、筆者は一般入試の勉強をして大学に入った後に、高専生はどんな試験を受けるのであろうかと振り返って編入学試験も数多くチェックしてみたりした。筆者の見聞に基づく以上のような評価があながち間違っていないのではないかと考え始めたのは、教員側であられたI博士の見解(HP。筆者の過激な高専批判とI博士の洞察と建設的な意見・提案が混同されては同氏に失礼と判断しお名前を伏してある)に触れたからである。もちろん、抜群の成績を得ている者がいることは認めるし、この者たちの資質にはしかるべきものがあろう。しかし、これが高専教育の成果かと問われれば非常に疑問が残る。本人および指導する高専教員の個人的な資質による成果というなら認めるが・・

 また、日本の大学入試に問題がない、なかったという気はない。この点は、ところどころで言及してある。

(2)ただ、この編入学については、留保事項がある。

 まず、数パーセントの高専”最”優秀層にとっては、英語や数学でハードルが下がっていることが失礼な結果になっている面があるということである。教養問題の章でも述べたとおり、この高専最優秀層はもっと英語や数学を鍛えられてよいし、鍛えれば出来る。逆に言うと、本来の学力水準からしても相応の水準の大学に入っている、つまり、過度のポジティブアクションは働いていないのであるが、しかし、英語力や数学力さらにはその他の人文社会科学分野の能力の涵養プロセスが省かれているというそのプロセスに問題があるわけである。もっとも、当の高専生がそれでよいと納得しているのであれば、彼らは、確かに優れた専門的学力の持ち主には違いないのであるが、真の意味で「優秀」などとは断じて思わない。

 次に、短期大学からの編入学よりはまだマシという点である。つまり、短期大学では、科目数や内容面でのポジティブアクションの度合いが、高専よりも遥かに強く・露骨に働いている。学士入学者またその水準にある人にとっては適切な試験内容でも、そもそもの学力水準が非常に低い短期大学出身者が当たりに当たって入学しているケースがある。

10.進学高専?の怪

 I博士のように、高専の問題性を喝破しつつ、高専を選んでしまった学生のためには編入学でもさせるしかないというのであれば、まだ理解できる。

 ところが、私は驚いたのだが、最近は「進学高専」という言葉もあるそうである。そこでは進学校ばりに補習を行って進学者数を競うそうである。そもそもその言葉は、言語的用法からして完全に誤っている。その矛盾は他の箇所で触れることになろう。ただ、ここでは、「大学進学したけりゃ高校へ行け!もっとまっとうな努力をせよ!」とだけ言っておく。ちなみに、ここで散々問題にしてきた『モデル』氏は、俗に進学高専と呼ばれる高専に所属している。