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第4章-高専はモデルにあらず!(2)モデルの揺らぎと矛盾ー

  せっかく『モデル』のような高専内部者に登場頂いたので、これが高専の入り口(入試)と出口(教育効果)について、どのような評価を下しているか、これを見た後、その矛盾を指摘しておきたい。ちなみに、ここで言われていることは、高専関係者のみならず他の教育機関関係者からさえ、矛盾を指摘されている事実である。揶揄するものさえある。

1.高専入学者の学力は低くない-

 『モデル』88頁では、「入学者の学力は地元トップの進学校より少し低い」ぐらいで、優秀とされている。特に地方の高専には、このような傾向があり、これは、否定できない。むしろ、比較的優秀であるため、高専問題が発生するのである。

 ただし、高専の入試問題が、当地の公立高校入試問題と異なるため、単純な比較は出来ない面もあると考える。これと近時の志願倍率の低下の事実を併せると、実際は、高専の当地における見かけの偏差値に比べてかなり学力の低い者も相当に入学している、という推測はなりたたないであろうか。年次ごとに様々な調査があり一概には言えないが、入るのが簡単とはいえず、まあ秀才が入る学校ではあるが、玉石混交の面があり、近時は石の方もかなり多くなってきた・・・という感覚であろうか。

2.技術者採用の大学院修士課程修了者へのシフトー高専側も知る事実-

 『モデル』89頁では、「これからの技術者の採用は、次第に大学院」修了者に移っていく」と素直に認めている(というよりは、既に移っている)。高専としても、これに、対応する必要があるという。一方、就職者数は、(『モデル』の著者が所属する学校では)「状況がよいながら、少ない」としている。

 高専は一応5年の課程で教育を終え、一般的な高専の卒業生の6割程度は、何らかの技術職として就職することを前提としていることからすると、彼らへの教育効果と処遇をもっと分析して見せるべきであった。ところが、『モデル』89頁では、「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」として、これを放棄している。技術職が大学院修了者に移っているというならば、当の高専卒の処遇はどのように扱われているのであろうか。確かに、このテーマは高専側の最重要テーマであって、いくつか調査がなされてきた。しかし、高専側はこの『モデル』の著者のように、高専は大学工学部レベル(たとえば、現在では「専門的能力は大卒とほぼ同じ」という表現を使うが、中学生を含む普通の人なら、能力が同じなら仕事や待遇も同じと考えるであろう。また、かつては、“高専卒の仕事内容や待遇は大卒と同じ”であるとパンフレットや入学説明会で言われていたのは間違いない)という趣旨の宣伝を事実上継続する一方、現在は技術者に院卒が増えたのに対応して進学機能も充実化しているとして、一見矛盾した言動を見せるのである。つまり、高専卒の処遇問題を問題としては強く意識しつつ、進学率でカムフラージュしている。

3.早期専門教育の問題点 

 高専の進学機能(大学工学部編入学又は専攻科終了後、最終的には、大学院修士修了に向かう)が高まっているというならば、高専5年の課程とは、どのような理念・意味があるのであろうか。むしろ、基礎科学や教養教育に重点を置かず、形式的に専門教育を施すことで青少年の柔軟な思考を奪ってはいないだろうか。第2章・3章に見たように、幅広く、ものの考え方の根本を学ぶ方が伸びしろが付くのではないか。教育の本義は潜在能力を認めこれを高めることにあるとすれば、高専はこれと逆のベクトルを有してはいないか。例えば、高専からの大学編入学生をして、問題を「柔軟、あるいは複眼的にとらえる」ことがに難があり「研究姿勢が硬直的」という指摘がなされることがある(鈴木浩平「高等専門学校からの編入学制度について考える」『日本機械学会誌』No.960)。一般の「早期教育」というのは、あまり功を奏しないものであったり、逆に、個性をつぶす、伸び代がなくなる、あるいは、下手をすると、その分野を嫌いになるという効果をもたらす弊害も指摘されている。もちろん、効果的な早期教育もあるのかもしれないが、こと工学でも同様なのではないか、ということはよく考えるべきである。早期の専門教育も効果があるのかも知れない。しかし、この考えを打ち砕いてくれたのは、戦後生まれの日本人ノーベル賞受賞者であり、かつ、エンジニアでもあった彼らの経歴であった。彼らは、早期の専門教育など受けなくても専門家たりえ、しかも「実験の鬼」たりえた。さらには、実践の名のもとに基礎原理の理解を疎かにすると、逆に実践さえも頭打ちになる場合がある。彼らは、無理にでもやった物理学や化学の理解のもとに、実験の鬼となり、独創的なものを創り、作り上げたのである。「エンジニア」で、しかも、「神がかり的な秀才」達じゃないことがポイントである。高専卒からもノーベル賞が出るかも知れないが、筆者は、逆に、早期専門教育などはしなくても、実践的な部分も含めて専門分野の能力は無限に伸びることが確認できたことの意味合いは極めて大きいと思う(もちろん、彼らのうち一人の方が言う、大学入試や大学教養部の問題にはよく耳を傾けるべきだ。もっとも、もう一人の方は文句も言わず、大学で外国語の単位をおとしちゃいました、と動じず平然としておられることも頭に入れておきたい。それぞれの方に真があると思う。結局、筆者は入試を軽視すべきではないし、入試が個人の能力を潰すとは言えないと考える。センター試験的な全般的・一般的な学力を”最低限”確保しつつ、特に理系志望者には過度の暗記競争がないよう、そして、才能をはかるようしてやるべきだとは思う。教養課程も無くすべきとは考えないが、同氏が在籍していた頃は硬直的・形式的に過ぎたと思うし大いに反省しなければならない。・・・・・しかし、それでも、”最低限”が保証されていない、教養教育の基盤さえもない高専とは次元の異なる問題であることは念を押しておく)

 ところで、アメリカの大学生や大学院生は、早期に専門科目を「組み込んで」いるから、創造力があるのであろうか、専門分野に長じているのであろうか。このことは、アメリカにおける高校・大学の峻別、そして理念上離れているものをいかにうまく「接続」(つまり、高専のように接着・同質化・混合化するのではない!しかも高専のように中卒後の話ではない!)させるべきかが問題となる単線型教育制度の下で、一部の早熟者への飛び級措置、これからその分野を学ぼうとする「高校生」があくまで「意欲」喚起と円滑な「移行」のために大学分野における学習を先行させようとする措置とは次元が異なる。先のリベラルアーツカレッジの例が思い出されるのであるが、このリベラルアーツカレッジは早期に専門教育を組み込むことが、たとえ「意欲」喚起や円滑な「移行」になる場合があるとしても、「専門」分野における能力を「顕在化」させるとは考えていない。ましてや、「かすがい」的(かつ楔形に)に組み込もうなどとは考えていない。bridgeを架けて欲しいところに、clampを打ち付ける必要はないのだ。

 もちろん、高専出身者にもベンチャー企業を興したり、そこに勤めようとする者もいる。しかし、システムそのものへの再考を迫るような思考やその実践に至ろうとする、社会を巻き込んで自分の技術を問おうとする、大企業を積極的に飛び出して、何かやってやろうという者は、やはり、高専出身者あるいは高専経由の大学出身者には割合的に少ないように見える。これにはやはり、高専の教育目標と早期の専門教育導入が影響していると考える。そもそも、最近では、高専生の気質や能力そのものが、どこか大企業に勤められれば・・・というふうになっている面もある。高専と比較する対象群の選定を誤っているのかも知れない・・・。

 それにしても、高専が専門科目や実験を学生に早期に施している一方、高校生のうちはせいぜいクラブ活動の科学部でちょっとした機器をいじっていた程度で、受験勉強を経て大学に入って、しかも、専門課程が本格的に始まるのは、まだ先だったという連中の方に、先に述べた“システムへの挑戦”“社会を巻き込んで”“大企業の枠に囚われず”何かやってやろうというアグレッシブな連中が目立つのはどういう訳か。もちろん、高専出身者にもそういう連中がいるのは否定しないが、やはり、割合的に少ない。

 逆に言うと、高専の教育というのは、大学とは制度も性質も異なり、特定分野における定型的・ノウハウ的能力を伸ばすのであって、そのような人材育成に徹し進学は予定していないというのであれば、社会や生徒に誤解を与えることもなかったであろう。ちなみに、高専生が「論理的思考」はたまた「創造的思考」において劣るという評価は、結構なされている。

 ところで、高専生が大学工学部に編入学するようになってからは、大学工学部教員になる者も増えてきた。工学専攻者の1割が高専出身者だとして、さらにその高専生の4割が専攻科又は大学に進学するとすれば、その比率ぐらいの割合、つまり、3パーセントから多ければ5パーセントぐらいの割合で、私学を含む全大学工学部教員の割合を占めてはいるだろう。しかし、高専出身者が高等学校からの一般入試を経た大学工学部生より優れているというならば、工学科目を一度履修したうえ大学で重ね塗りして、高専側の論理によれば「優秀」であるはずの彼らのこの比率が圧倒的でなければならないが、そうでもない(仮に、本当に仮の話だが、大学の工学者の1割が高専卒だとしても、一応、「工学」専攻者に占める高専卒の割合は1割いるから、比率的に「多い」などとは断じて言えない)。逆に言うと、先の例と同様、大学工学部の研究者の圧倒的多数は高校生のときに特に工学において顕在化された能力を伸ばしたわけではない。むしろ、潜在能力を伸ばす方向にあったのだ。もちろん、この一部の高専出身者が専攻分野においてすこぶる業績があることは素直に認めなければなるまいし、中には、世界的研究者になった人もいるだろう。また、技科大は地方国立大学を中心に多くの大学工学部に人材を輩出している。その価値を貶めようというものではない。しかし、結局は、大学教育を経由した結果であることを忘れてはならない。そして、特に高専経由の大学出身者の主である技科大については、技科大に、これが設立後一定期間、全国の高専の学科トップが殺到していた時期があったことも考慮せねばなるまい。つまり、技科大は、ある時期まで、地方の秀才である高専トップの生徒を独占していたという背景がある(本来、地方の進学高校の工学系志望トップクラスは、いわゆる旧帝大をはじめとす難関大学を目指し、進学先も全国の大学にばらけるはずだなのだが、高専生は一部を除いて技科大しかないという状態だったのである。また国側の配慮で、平均的な地方国立大学より早くから博士課程が設置されていた)。

 そもそも彼らも最初から普通に高校・大学と行っておればよかったことである。なるほど、企業はどうか別として、工学研究者の世界は実力評価の社会である。どこどこの高校とか高専であるか等は、しかるべき研究者はあまり見ておらず「高専卒だからスゴイ」という見方などしないのだ(但し、高専からの大学進学者が極めて少なかった時期は、マイナーなはずの高専出身者が優秀ぶりに驚いたはずだし、評価して見せた大学教員もいた。また以上の技科大の例もある)。このことは、少なくとも工学部の世界で「○○高校はやはり数学に強い」とか「スゴイ」などと言わないことを考えればわかるだろう。どうせそうなら、最終的に同じ程度の専門科目を学ぶのであれば、むしろ、受験という試練、文理双方の広いもモノの見方を身につける、異なるものの考え方をする人と接する、環境を変える等をした方が、長いスパンで考えて、その人間にとってはいいのではあるまいか。以上にも少し触れたが、青年のうちは、たとえ受験を通じてであれ、数学や語学分野の基礎学力と潜在能力を伸ばした方がよい。優秀であればこそ、そうして欲しい。そして、筆者は、一歩踏み込んで高専の存在意義と結局は大学教育を経由している彼らが高専教育独自の成果なのかを問うているのである。高専出身者が大学研究室に一定割合でいるというのは、大学・大学院進学を許された高専の学生割合からは当然の割合であって特筆すべきことではない。旧帝大や独立大学院大学の大学院に全体の学生比率・割合よりやや多くの高専専攻科出身者が在籍するのは、地方国立大学の大学院が博士課程まで充実化してそこの出身者が昔のように他流試合をしなくなっている面も強いと聞いたことがある。また、高専専攻科卒ではハクが付かないという隠れた理由もあるだろう。技科大についても、技科大が高専学力低下に巻き込まれ、あるいは、高専トップを独占できなくなってくると、技科大出身者の大学教員を含めた研究職はその割合を減じてくる可能性がある。

 最後に、厳し言い方だが、“大学教員になる人もいる”などと言う前に、一人の工学者を作るために、一人の優秀なはずの退学者、一人の優秀なはずの下級技術者を生み出していることも考えてほしい。また、工学専攻者には、企業研究者や開発従事者というもう一つの優秀層の山があることも忘れてはならない。歴史的には、高専は大学とは異なる独自の教育機関であると標榜しながら、結局今となっては、“大学教員になる人もいる”と居直るのだから、開いた口が塞がらない。

4.賃金は大卒・院卒と異なる。下級技術者化する高専卒。しかし、「一部」には優れた最終学歴「高専卒」もいる

 『モデル』氏の「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」という問題意識の低さはさておき、以上の点を含む高専教育の位置づけと成果については、野村正實『日本的雇用慣行』及び同HPから厳しく問題を指摘されている。『モデル』の著者は高専の「存在意義」が問われるこの問題提起にどう答えるつもりなのであろうか。重要な指摘だが、あえて我流の引用をしない。是非、野村氏の本書を確認して頂きたい(賃金は大卒と高卒の中間、下級技術者化する高専卒、独自の高専教育において人材を社会に供給しているとは言いにくい等)。

 ちなみ、高専問題を問題として的確に認識しながら、現在では大卒がインフレ化しているので、高専卒の実践的な能力が高く評価されていくのではないかという者もあるかもしれない。しかし、①野村氏が前掲書で指摘するように、高専卒の地位が相対的にに低くなったのは、大学工学部の定員増加や増設があったこともひつとの理由で、この大卒郡には、旧帝大・名門私学理工系・地方国立大学の他に、大量の中堅上位の工科系大学出身者も含まれていることを忘れてはならない。それらに比べてもなお、(当時の秀才であった)高専卒は、下位に扱われたのである。②また、同書によれば、依然として、大企業は学歴主義的な人員配置をしていることが示されている。③さらに、現在、ネット上では、大企業における特に若手の待遇は「高卒並み」との指摘もあり、この実態をHPに暴いているものもある。これは、あながちウソに見えない。つまり、このような“高専卒が見直されていく”という意見は、高専卒は、中堅大学に増設された大学工学部卒業者や中堅理工系大学卒業者に比べても不遇を買ってきたが、今日に至って本格的に、下級技術者として処遇されるようになったということを、言い直しているに過ぎないのである。大卒インフレ問題は、なるほど下位大学理工系において進んでいるかもしれないが(下位文系ならなおさらだろう)、中堅以上の大学特に理工系では進んでいないと考える。

 同様に、高専卒を、大企業におけるリーダー的高卒現業職になぞらえ、この高卒現業職も研鑽を積めば、将来大卒を指導していけるなどという、いかにも大企業における現場道徳な価値観を持ち出す者もあるかもしれない。しかし、これは、大企業高卒現業職が全体の就業者の中でそんなに多くはなく、仮ににその恩恵に預かれるとしたらごく一部の伝統的な工業高校の中のさらに一部の生徒であり、しかも、採用数が偶然的要素(団塊世代では、とにかく都心部に出ていけば、大企業の工場労働にあやかれたのである。今はちょうど、その団塊世代が完全引退して、その波が来ている。しかし、このわずか前には、地元の古い工業高校を出れば得られていたはずの、地元進出大企業工場への就職がシュリンクしたのを思い出したまえ)決まっていることを忘れている。しかも、当の高専出身者自体が、(工業)高校卒では単純労働にしかつけないと考えて、高専を選んでいるのを忘れいてる。高卒で会社に入ったベテランが、“一時的に”大卒に仕事を指導するなどという例は、どこの会社のどの時代にもあったことである。ちなみ、私筆者は、学歴はないが「素手で」日本の製造業を支えてきた、中小零細・下請けの職人・技能労働者への尊敬を忘れたことはない。待遇が抑えられ不況になれば真っ先に泥をかぶる彼らと大企業内の非正規労働者の犠牲のもとに、同程度かそれ以下の仕事していない大企業現業職の待遇は支えられているのである。あるいは、中小企業の開発力には目を見張るものがあるが、これと、大企業中堅下級技術者との関係についても同様であろう。

 以上で上げた2つの例は、そんなことをいう人がいるのかとイブカシがられるかも知れない。しかし、意外に、地方や非学歴保持層ではよく見られる、悪く言えばいかにも通俗的な考え方である。

 筆者も、高専出身者が全て「下級技術者」に過ぎないなどというつもりはない。中には資質を認められて、中核的・中心的技術者になるものもいる。国立高等専門学校機構『目指せ!プロフェッショナルエンジニアーわれら高専パワー全開』にはそれが表れている。ところが、この本に出てくる面々、特に研究職や大企業開発職にあるのは、年代的にはほとんど初期生以降の7期8期生ぐらいまで(もちろん年齢的に中心的存在になるという要素もある)、また若手の学歴は最終的には理工系大学に編入学した大卒・院卒以上がほとんどであるということである(また、なぜか、高専は「中堅技術者」「臨床的技術者」を養成すると標榜してきた割には、そのとおりに生産管理等の部門に配属された者の紹介が少ない)。非常な優秀者が高専に入学してくる、あるいは、高専卒で大企業開発職に抜擢される者があるというのは、大学進学率や社会意識などの「時代性」があるのである。また、現在では大学に進学しないと開発職には就きにくい時代になっているのである。若手でも、能力や専攻分野次第では高専卒の肩書で院卒に優るとも劣らない仕事をしている者もあろうし、また、場合によっては「転換試験」で上級技術職に就く場合もあるだろう。しかし、その実数がどんどん減ってきている、無くなりつつあるというのが多くの高専卒の人たちの実感であるはずだ。また、この面々もそれを知っているはずだ。心を鬼にして申し上げておく。こういう本と同様の「美辞麗句」を高専は繰り返してきたのである。彼らがなくてはならない存在であることと、高専がなくてはならない存在かは、別問題である。ほかの個所でも述べるが、彼らは時代が時代なら条件が揃っているなら「高校」「大学」でよかった人たちなのである。また、この面々の裏に優秀でありながら不遇を買った者、あるいは複雑な心境・状況におかれた者も限りなく存在するのである。全国高専の選りすぐりを集めたこの本と同じ論理で、”工業高校生も昔は凄かった””技術職に就きたかったら工業高校に行きましょう”という本が出来るであろう。

  野村正實『学歴主義と労働社会』108頁は、学歴社会は「1960年代後半」あたりを学歴社会が成立した時期としている。一方、筆者は、「7・8期あたりまでは集団としても凄く優秀だった」という高専教員の述懐を聞いたことがある。高専7・8期の入学時期は1970年前後である。あたかも、1960年半ば以降1970年半ばまでは、大学進学率が急上昇している時期であるのはよく知られる事実である。逆に言うと、1970年頃は、まだ学歴主義を内面化できずあるいは「大学進学」を視野に入れない層が、地方を中心に厚く存在・混在していたと言えるのではないだろうか。1970年のこの時期、高専の入試倍率はまだ3~4倍を保っており、1973年頃には2倍程度に落ちていった。

 科学技術振興機構『科学者になる方法』には、ある高専生が、高専に入ったものの、工場見学で先輩が中堅研究者や中堅技術者という位置付けで働いているのを見て、もっと自分の能力を発揮できる道を選ぼうと考え、高専を中退して旧帝大理学部に入り直した話が出ている。この高専生は、年齢的には高専7・8期あたりである。この人は高専の教育「内容」に文句は何も言っていない。逆に満足していたかもしれない。しかし、自身も優秀でありながら、初期高専生たる先輩たちの姿を見てきた7・8期生の肖像として興味深い。

5.偽りの言葉

 狭い範囲で通用する道徳的な教訓には、もちろん真実が含まれている場合も多いが、高専に限ってはそうではない。下記の言葉は、パンフレットに出てきたり、筆者がこの耳で聞いたことがある言葉である。ここまでくると、洗脳である。

①「進学校では遊んでしまうので、国立大学工学部へ入れない」

 信じがたい話だが、国立大学工学部学生の大部分が進学高校出身者であることを忘れて、このようなことを言う教員や学生がいた。なるほど有名進学校でも落ちこぼれてどこの大学にも入れないということは結構見られる例であるが、高校生が受験で必死になっているときに、高専生は遊んで留年退学・・・お家芸である。

②「大学生は理論ばかりやっているので実験が出来ない」

 理論ばかりやっている大学生はいるにはいるが、大学生も学部終盤になると、基本的な実験作法を身につけている。というより、明治時代からそうしてきている。有名なところでも後発の私立大学工学部では学生実験がままならないところがあるが、地方国立大学では少人数で学生実験が出来るから、そちらに進学しなさいと、進学高校の先生がアドバイスするくらいである。だいたい、理論ばかりのその学生も勉強するだけ全然マシである。日本では東京理科大学が理学中心でありながら、実験精神をも伴っているだろう。名門私学にも古くから工学部は設置されてきているし、旧制専門学校を前身にもつものも数多く、実学・実技・実践教育を標榜してきた。高専の場合、工業高校と同様カリキュラム上実験実習が早くから導入されているが、実技・実習教育の淵源は明治時代にさかのぼることができる先輩の学校がちゃんと存在するのだ。しかも、その高専の実験施設は貧弱である(ただ、これには同情すべき点がある)。先輩面っていうやつだ。ただ、地方国立大学・新制大学工学部でも、これが出来た頃、旧制専門学校・高等工業時代と異なり形式的に一般教養課程を導入したので、実践力が落ちた“時期”があったことは、他の章でも触れる予定である。また、大学院までを見越した教育や、大学院生との研究・実験まで考慮に入れれば、高専の方が実技・実習が充実しているとか高度などとは到底言えない。

 その他、今日に至っても、大学工学部では「設計製図」をやらないとか、大学工学部の専門科目の時間数は高専の半分以下、という尾びれのついた話を信じている者さえいる。

③「高専生は4年5年の時に実験実習に追われるが、大学生は教養課程で遊んでいる」

 なるほど一見そうである。ところが、ちゃんとした大学の工学部生は、まず、受験の段階で大変な努力をしているが、高専生はそれをしていない。一般教養で遊ぶ人もあるが、専門課程に入ったときの忙しさは配属先によっては高専の比ではない。そもそも一般教養が削られていることを何とも思っていない時点でどうであろうか。かつては、企業側や大学教員側も同様のことを言う場合もあったが、教養部改革と工学教育の主流が大学院修士に移ったため、それは当てはまらなくなった。

④「あなたがたは学生です」

 これは、高専生は、高等教育機関に属しているのであるから自立心・自律心をもって行動すべき、という意味で設立当初から使われている言葉である(但し、筆者はこのブログではあえて「生徒」と呼んでいる)。ところが、これを逆用して、あるいは逆に作用して、高校生の年代でピアス・茶髪・喫煙、あるいはもっとヒドい非行に走るものが結構多い。これはネットの罵詈雑言を取り上げたものではない。現実に高専の紀要等でも取り上げられる厳然たる事実である。また、バイクや自動車事故もかなり多い。それだけなら、一部の有名私立高校や放任型名門高校でもありうるが、5年間受験あるいは就職活動がないので自制心が働かず、また、男子生徒が圧倒的多数で、しかも、これが「長期」にわたることから学校やクラスの雰囲気が退廃的になってしまうことも相まって、そのまま単なる不良の集まりみたいになることが多い。中学時代に比較的成績が良かった者が(も)入学する学校としては異常な事態である。逆に設立当初は、学業と気質の面で生徒の質が今より格段に上だったにもかかわらず、管理教育を行っていたと聞く。ちなみに筆者は、パチンコ屋に高校生の年代の高専生が出入りするため、教員が厚生指導のためパチンコ屋を巡回していたのを見たことがある。おそらくどこの高専でも似たような事例は頻発しているだろう。しかし、これら結構な割合で存在する素行不良者(中には、どうしようもない、クズやカスもいた)の中に混じって、一部の優秀層が在学している(これには「専門」さえやっていればいいのだから高専が天国という者の割合が大きい。あるいは、家が貧しいからここで学ぶしかないという者もある。筆者も貧乏の出だったから、こういう言い方をするのを許してほしい。しかし、貧乏でも優秀なら大学生活ぐらい何とかなるというのも事実である)という奇妙な雰囲気は、内部の人間でなければわからないであろうし、逆に高専生や教員はこれを何とも思っていない。また、教員も若年生徒への厚生指導や生活指導の経験が浅いためか、あまりタッチしようとしないケースが多い。

⑤「大学に行ったら就職がない」

 当の高専は最近は進学を売りにしておきながら、「大学に行ったら職がない、中小企業にしか入れない」等と"豪語"する者もいる。高専生は視野が狭いあるいはそのように仕向けられるので、ちゃんとした大学ならしかるべき就職先があることが分かっていないのである。例えば、小規模ながら伝統のある化学メーカー、コンサルティング会社、特化型の基盤部品産業、試験研究・調査型企業に一流大学・国立大学の工学部や理学部出身者が入る例は結構あり、彼らはその企業で中心的立場に立つ。一般には聞いたことがない企業でも、伝統と実績があり実は東証一部に上場しており、あるいは非上場であっても、その業界では知る人ぞ知る世界的にも有名な企業が日本には非常に多いのであるが、一応は工学分野にあるはずの高専生はあまりそれらの企業群が視野に入っていない。もちろん、これは高専出身者が就く職種や職階、高専側の宣伝にも関係している微妙な問題でもあるが、その構造はこのブログ全体を読んでもられば理解できると思う。但し、専攻科修了生を大卒並みに評価する一部の上場中堅企業や中小企業も存在するので、その企業群まで見込んで就職活動をすると、「知る人ぞ知る」企業に目が向く場合もあるだろう。もっとも、専攻科が大卒並みに扱われる場合があったところで、高専問題はそれはそれで残る。

 もちろん、大学進学率50%を超えた今日、その半分にその学歴に応じた仕事がないということは当然起こっている。しかし、以下に述べるように、時には勝手に国立大学工学部と比較しておいて、就職のときだけ、都合よくFランク校と比べるという論法は、高専関係者がよく行う。

⑥勝手に国立大学工学部と比べる

 高専関係者は、同じ「国立」というだけで、勝手に高専を国立大学工学部と「同等の教育内容」「準じる」「その割合中、いくらかは・・・」等とやり、眉唾ものの怪しい数字を出すこともあるが、ちょっと待ってほしい。他の個所でも述べたが、日本には、結構な数の私立大学理工系があり、これには、戦前からの伝統がある大学も多く、実力を蓄え就職も悪くない。伝統私学に工学部が新設される例もあったが、これが高専の後輩ということはなく、すぐに大学院課程が設けられた。新興の理工系大学についても。学生の質に問題があっても、教員は学位をもっており学位も授与でき、実験設備も大学としての体を保っているし、選ばなければどこかのメーカーに就職自体はできるだろう。高専関係者は、高専の存在を生徒や社会へのアピールのために、私学の存在を無視することが多いのである。これには、高専の校長が当地の国立大学工学部教授出身者ということも大きく影響している。特に地方では、私学の工学部がない、あるいは大都市圏の私学への進学が一般的でない地域もあることも影響しているだろう。ところが、日本全体でみたときに、勝手に「国立」枠で括って何を言いたいのであろうか?そんな括り方をしていいなら、地方では大体、各県に国立大学工学部1つと国立高専1校があるのであるから、どうとでも言えてしまうではないか(「国立」工学系学生の4分の1は高専卒等・・)。ちなみに、高専卒が、高専卒で就職したときに、入社時に驚くのは、東大京大等のとてつもなく頭のいい連中に出会うことと、それまで高専生が眼中においていなかった私立理工系出身者の数に圧倒されることである。地方国立大学工学部卒ももちろん根を張っている。これらには、実は、大したことはない連中もいることもあるわけだが、頭から私立理工系を無視するのは全く不当であり、誤解を与える。

 他にも、「一般教科の授業時間数は、普通高校の理系コースから大学工学部の2年までに学ぶ類似科目の時間数とほぼ同じ」というデタラメ・嘘八百や、「確かに一般科目は少ないが、受験がないので効率的に学べる」という伝統的な虚栄を張っている高専も数多い。いつまでそんなことを言い続けるのか?逆に、受験がないから英語が出来ない、効率的に学ぶというより手っ取り早く済ます=軽視する風潮を生んでいるのである。

 まだまだあるが、これ以上は止めておく。やや、俗な言葉で語ってきたが、彼らの言葉の背後にあることを炙り出すために、あえてそうした次第である。真面目な学生もいることは否定しないが、真面目だからこそ、世間の常識からかけ離れた論理を信じてしまう場合がある。