第10章ー実践教育は高専の独占物ではないー

 高専教育の残る拠り所は、「実践的」「実習重視」「即戦力」ということになろう。特に、実習重視は設立当初から行われてきたことであり、確かに時間数が多い。高専は、大学との差をこのような教育目標に求めてきた。ところが、このような、教育目標は、実は、明治時代に体系的な工学教育が始まったときから言われていることなのであり、何も高専発祥のものではない。確かに、各種の工業系の学校が大学に昇格するにつれて、この「実習」「実践」(以下、旧来の使用法にならい「実技」と称する場合がある)の価値が薄れていった時期はあるが、これが致命的な効果をもたらしたのであろうか?ここでは『東京工業大学百年史 通史』(以下『百年史』)を題材として選び考えてみたい。工業教育史・研究史には厚い研究が積まれているだろし、下記の内容程度のことは理工学を学んだ者なら周知のことであろうが、仮定的に以下のような問題点を指摘しておきたい(なお、実技・実践的な教育をする学校設立の要請は経済界から出ていたものであるが、この要請と立法および政策形成過程の関係性についてはいくつか研究があるようである)。

1.製作学教場から東京職工学校、そして、実業専門学校へ。

 『百年史』では、事始めに、東工大の前身である工部大学校の編成上の主義としては、ドイツ・フランス流の「学理中心の教育」とイギリスの「実技中心の教育」の折衷がなされたのだという(9頁)。ところが、大学制度が確立されるにつれて様相が変わってくる。実技も大事であるはずの工学教育において、実技的要素が大学教育の現場から薄れていったのである。そこで、かの手島精一は自らが守ってきた「製作学教場」の理念を引き継いだ中等程度の工業技術の教授を目的とする工業学校の設立を熱心に建議し、ついには、東京職工学校設立に至ったのである(24頁以下)。この職工学校の教育編成には、「実技」「速成」なる用語が見え、職工学校は実習中心教育、速成教育が明確に謳われていて、帝国大学とは役割が異なった(89頁)。

 その後、「職工」という言葉へ誤解と教育内容の実際から、校名は東京工業学校となる(113頁)。さらに各県に(中等)工業学校が設立されていくにおよび実業学校令が制定される一方、実践的な工業教育の先駆者である東京工業学校は専門学校令による実業専門学校になった(193頁)。ついには、大学昇格運動が起こり、東京工業学校は戦前には東京工業大学となることは周知のとおりである。この大学昇格に際して専門学校的なカリキュラムが見直され、工業に関する広範囲な研究と教育を目的とするにふさわしいカリキュラムとなっていった。

 一方、戦前において、実業専門学校の全てが大学への昇格したわけではない。各地方には特色ある実業専門学校が設立され確立されていた。この実業専門学校のうち工業系は、実験実習(製図を含む)が重視され、週39時間の授業のうち、3分の1程度がこれに当てられたという。また外国語を除き教養科目はほとんどなかった(天野郁夫『高等教育の時代(下)』231頁~233頁)。言うなれば、東京工業学校的な教育理念は各地に波及していたのである。また、地方の実業専門学校において重要なことは、成長する産業資本のより直接的な人材養成が深くかかわっていたことである。例えば、秋田県における鉱山、群馬県における染織は有名で、その地区の工業専門学校は校名にその分野の産業名を冠し、かつ、その卒業生はその産業分野のリーダーとなっていったのである(天野郁夫『大学の誕生(下)』154頁)。

2.旧制実業専門学校の理念は新制大学工学部で失われていない

 以上に概観したように、日本の大学レベルの工業教育が、最初から、実技教育を軽視してきたわけではない(『百年史』はイギリスの実技中心教育に言及しているが、そのイギリスでは、技術教育は「機械工講習所」に始まり、技術カレッジ設置、大学への技術教育導入と進んできたのである(E.アシュビー著/島田雄次郎訳『科学革命と大学』83頁以下))。もっとも、制度が確立するにつれて大学が学理重視の研究教育に移行していくが、逆に今度は、実技教育こそ重視しなければならないとして東京工業学校やその後に続く実業専門学校が発展したのである。また、それらの学校における実習時間数も申し分ない。先ずはこのことを確認せねばなるまい。

 次に、確かに、東京工業学校は戦前にいち早く大学となり、実業専門学校も戦後ほとんどすべて大学となり、上述のようにカリキュラムが大学の研究教育用に編成されていくから、実技的要素が薄くなった可能性はある。しかし、以上の工業教育の変遷を見たときに、高等教育工業教育に実技教育を軽んじる風潮が蔓延したとは言い難い。

 例えば、制度上は専門学校である早稲田の理工科が当初は「実用」を重視し高等工業をモデルにしていたが、「大学」の名称に憧れた学生からその実用重視や高等工業学校出の教員に不満を持ったりしたということもあったが(天野郁夫『大学の誕生(下)』108頁)、これは早稲田の「大学志向」が一時的に実用教育を軽んじようとする風潮を生み出したことを示している。同様のことは、地方の官立実業専門学校にも見られる。官立の旧制実業専門学校が大学に昇格する際には、大学昇格にふさわしく「一般教養の重視」するカリキュラムが組まれた。例えば、後発ながら官立の旧制実業専門学校からの歴史を有する新制鹿児島大学工学部のカリキュラムは、教養科目が1年半54単位である一方、専門科目が2年半93単位・うち実習科目が4分の1程度であるから(神田嘉延「鹿児島大学工学部の創設期の教育状況―稲盛和夫の学生時代の背景」鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要の巻末に掲げられた昭和35年・同大学工学部応用化学科カリキュラム表。これは昭和35年時のものであるが、証言から昭和20年半ば頃とほとんど変わっていないという。実際のカリキュラム表が掲載されていることから引用した。但し、本稿には、用語・固有名詞に混乱が見られる)、旧制実業専門学校に外国語を除き教養科目が存在せず、3年間で実技が3分の1であったのと比べると実技の割合が少ない。しかし、この鹿児島大学工学部の例で見たときに、実技科目は減ったが、決して致命的ではなく一定水準は保っているし(専門科目単位の4分の1)、実験に力が入れられなかったのは、昭和30年を過ぎてもなお日本は貧しく実験設備がままならなかったことも考慮すべきである。逆に、器具も無い、何も無い中で、教授と学生が協力して機器を手作りしなければならないという(前掲・神田263頁。実は、このような実例は戦前からの旧制工業専門学校において、多く見られる)、ある意味では、最大限に「実践力」を要する場面に向き合えたのである。さらに、この鹿児島大学工学部の例で見逃せないのは、他学科の科目を自由科目として履修できることで(実際は、人員不足でそうせざるを得なかった面もがあるだろう)、ツブシが利く結果にもなった。

 早稲田の例は早稲田らしいと言えばそうかもしれないが、この鹿児島大学の例は、おそらく、多くの戦後直後に設立の新制大学工学部や私立理工系大学にもあてはまるのではないだろうか。仮説的だが、東京工業学校がそうであったように、昭和30年以降も大学工学部はその“内部”において学理偏重への反動を内包し続けてきたのではないか。これが工学という学問の性質上当然起こるべくして起こるのではないか。先発の官立工業専門学校の後継校はどうだったのか。先の秋田大学鉱山学部はどうだったのか。あるいは、信州大学繊維学部はどうだったのか、あるいは東京農工大学はどうだったのか、あるいは東京や関西の伝統理工系大学群はどうだったのか、を丹念に調べていく必要があるだろう。

 もっとも、仮に大学工学部卒に実践力の低下が見られるとしても、その実践力の低下は、企業社会の実地に入れば縮まることも考慮すべきである。日本企業における企業内教育やOJTは有名であるし、高度成長期の時期では、とにかく人が入ってくれれば、どうにかモノになる人材が育っていったのである。そして、現在では、科学技術の急速な進歩によって、工学教育が長期化・後ろ倒しされている。現在の修士課程の教育は工学者になるためのあるのではなく事実上「実践」の場となっている。大学院修士課程修了者の大量採用はこれを反映している。早め実技を教えるメリットが少なくなっているのである。また、教養部改革によって専門科目の導入に工夫が見られるようになった。例えば、専門科目の基礎を前倒しして、学部後半は実習や研究に大きな時間を取ることも可能になったのである。

3.高専の意義は何だったのか

 確かに、産業界は、旧制専門学校等に比較しての新制大学工学部卒の専門的能力に不満を抱いていてもいた。これが、新たな学校設立の契機となっている(天野郁夫・前掲『日本的大学像を求めて』214頁以下)。ところが、上で見たように、産業界と同じ問題意識をもった、あるいは産業界の要請を受けた大学関係者や当局の取り組みが、タイムラグを生じながらも功を奏し、産業界の不満は意外に早く解決され、その継続期間も短かったではあるまいか。また、高専設立の昭和38年頃には、旧制実業専門学校の伝統を持たない新設の国公私立大学工学部も大量に増設されているが、これらの新設大学工学部が産業界の要請を無視したはずがない。

 大卒も実技教育を受けていないわけではないし、むしろ、実技教育に回帰し、さらに彼らが企業で実務を積むうちに、実践力の差が縮まってくる。そうこうしているうちに、工学教育の主流は大学院修士に移っていくことで、産業界の不満は時の経過とともにいよいよ薄れていく。産業界特に大企業が、その後大学工学部卒に対して不満を表明し続けたのであろうか。また、高専卒の中には研究開発部門における実力を認められた者も多かったであろうが、何しろ、大卒大量採用の時代であり、高専の割合は大きくないので全体における効果のほどが計量しがたい。新制大学工学部卒に不満を持ったはずの産業界は、新制大学工学部卒に“代えて”まで、そのすばらしい高専卒のさらなる“大量供給”を要求してはいない。   

 「実践力」「実技」の能力の差は大卒と高専卒とで相対的に留まったのである。そして、野村氏も指摘するように、「中堅技術者」を定義できなかった高専は1981年に至ってやっと高専は「実践的技術者」を養成する学校であるとしたが、逆に言うとそれまで、高専は明確な教育目標を持っていなかったことになる(野村正實『学歴主義と労働社会』98頁)。つまり、期待される能力と立ち位置が曖昧な高専卒は、時には現業職に近い部門に、時には中間部門、時には研究開発職にと、確かに実践力自体はあるから、企業側に穴埋め的・階層的に使われたのではあるまいか(研究すべきは、高専卒の実技能力・実践力と職層・職階・労働内容との関係性あるいは無関係性についてであろう)。次第に今度は、大学工学部卒さえもどこにでも行かされるようになるのであるが、逆に、どこにでも行かされる大学工学部卒が増えてくると、高専卒の方は徐々に周辺的・補助的・現業的部門(作業的・反復的業務の者に工学分野の専門知識があった方が望ましいというのなら、そのような措置は昔からなされている)に配置される結果ととなる・・・。

 あの「実践的教育がよかった」と思うのは全く自由だが、 旧制工業専門学校の歴史を有する地方国立大学・私立大学を無視して、宣伝に使える文句ではないのである。筆者もよくわかるのだが、高専においては特に初期から中期にかけて、旧制工業専門学校出身教員が多数存在した。彼らの多くは企業で技手から出発して技師となった経歴を持っていた。彼らが、高専生に向かって「中堅技術者たれ」と言っていたのでる。

 ここで、私の実感を述べさせて頂く。高専専門科目・理系科目の教員の多くは現在では学位取得者となった。ところが、ひと昔前の高専教員には、大学学部卒や修士卒で企業に入り一線を退いて管理職になった元技師又は元研究者も結構多かった。彼らの企業内における実績は十分優れたものであったろうし、さすがは企業管理職であり人間的な魅力にあふれた人もいたと思う。一方、博士課程修了の学位取得者もちらほら揃い始めてきていた。生徒を専門知識においてリード出来たのはこの二層の教員たちであった(第三層の結構な割合で存在した不適格教員については終章)。ところが、これら企業出身技師が高専の初歩的、教育用の実験設備で「実践的」「実技的」なことを指導したり具体の開発課題を与えることができたかというと、そうではなかったのである。企業出身教員は大企業で最新鋭・特殊の設備に接してきていたため、逆に、一線を退いて管理職になったりすることもあって、初歩的な設備や器具を使って指導したり何かを作り出す感覚が落ちていたのである。一方、学位取得者(ちなみに高専出身者ではない)の方はどうかというと、高専よりははるかにマシとはいえ大企業よりは設備が整っているとは言えない状況で(例えば、ある地方国立大学工学系研究科出身者は化学系の実験でビーカー代わりにワンカップ大関を使っていたと言っていたー大学工学部の窮乏ぶりを揶揄するためによく取り上げられる事例であることは後に知ったー。電気系では真空管まであったというー真空管は今でも利用価値があるがー)、研究開発に従事してきたため、逆に、初歩的な実験器具を使って生徒を指導したり、その中で、どういうモノを作り出せばいいかを指導できる人もいたのであり、一部に存在する、優秀であり、かつ、こういうことをやってみたい、実践したい、という意識を持った者たちを引き付けたのは、むしろ、この学位取得者の方に多かったように思う。つまり、工学において実践的・実技的なことをやってきた教員が実践的・実技的なことを教えられるとは限らない、逆に、純然たる工学研究者が実践的・実技的ことを教えられないわけではない。ましてやーこの拙論のもう一つのテーマであるがー「早く」始めたからと言って「実践的」な人材として優れるということはない。ちなみに、これら大学院博士課程修了者や学位取得者(繰り返すが、高専出身者ではない)こそが、「高専生は就職やすぐ役立つことばかりに興味を持ちすぎている。もっとこの分野でこういうことをやりたいという気持ちをもって欲しい」などと赴任した矢先に言っていたのを思い出す。筆者が前項で後発の旧制工業専門学校の事例論文を挙げたのは、このような観察があったからなのである。手を動かし、汗をかき、かつ、頭も働かすのは、大卒・院卒技師、博士も同じなのだ。

 ところで、もし、「実技」「実践」の価値を「技能」「器用」「定型的業務への習熟」の趣旨に理解しているなら、そのような学校であると明確に誤解のないように標榜してくれればよいまでのことである。あるいは「実技」「実践」が高専が従来から標榜してきた「中堅」的意味だというのでも同じことなのだが、その「実技」「実践」力は、実際は大卒・院卒技師でもそういう力量は普通にあると言っているのである。高専の内実を知らない者は、高専そのものの教育"だけ”を観察して、実験・実習が多くてすばらしい、という実感を抱くであろう(その感覚は、良くも悪くも中学生が体験入学の時に抱く実感に似ている)。ところが、そのような実験・実習は大学でも見られるし、あるいは、教科としての実習そのものの時間は少なくても、卒業研究で、かなりの実習的要素の学習は得られる。さらに、もし、大学が本気になって1年次2年次から実験実習を多めに取れば(そういう私立工業大学は存在する)、高専はあっという間に追い越されてしまうであろう。専修学校・専門学校でも、実習と就職を意識して教育を提供している。要するに、諸制度との比較なし、あるいは、比較の対象を誤って(例えば、三流私大の文系よりマシだ等・・・)、さらには、「量」の定型的観察で、高専を評価しているケースが非常に多い。

 理論と実践は両輪である。「実践」力は、その意味するところを考えればわかるとおりカリキュラムで得られるとは限らず、それこそ、(理論学習の後に)実際の研究や開発をしている教授や院生を手伝いながら徐々に得られることもあるのである。

4.旧制専門学校の大学昇格熱の冷却―高専と同じ轍―

 ここで、旧制実業専門学校のついて、ある事実を見ておきたい(以下、天野郁夫・前掲・『高等教育の時代(下)』334~335頁)。

 大正10年教育評議会において専門学校改革が議題にとりあげられた。そこでの議題の主なものは専門学校における①学士号の授与と②専攻科設置問題だった。天野によれば、この専攻科設置の狙いは専門学校卒業生の向学心を満たすことではなく、官立専門学校の間に高揚した大学昇格熱の冷却をはかることにあったという。

 まるで、現在の高専における問題と同じことが既に大正時代に旧制専門学校で起こっていたのである!そして現在の我々は、前章で挙げたcool downそしてcool out がその中身の学生に対してだけでなく、高専という学校制度そのものにも向けられていることを知るのである。

 高専関係者が好む「5年一貫」「楔形」の主張も、結局は、後期中等教育の年代を含む青年が存在することを理由に昇格を冷却させる根拠となるだろう。それだけならまだよいし、筆者も高専が一般大学に昇格することや、大学増設に価値を見出していない(職業専門大学への合流・転換は認める)。また、確かに高専における「実技」「実践」科目の割合の多さは評価材料にはなる。しかし、工学教育において万人が共有し続けてきた「実技」「実践」の価値が、高専のそのままの“存続”と“冷却”の隠れ蓑に使われることは憂慮している。これは戦前から既に科学技術立国・ものづくり大国であった我が国そのものにとっても許しがたいことなのだ。