第4章-高専はモデルにあらず!(2)モデルの揺らぎと矛盾ー

  せっかく『モデル』のような高専内部者に登場頂いたので、これが高専の入り口(入試)と出口(教育効果)について、どのような評価を下しているか、これを見た後、その矛盾を指摘しておきたい。ちなみに、ここで言われていることは、高専関係者のみならず他の教育機関関係者からさえ、矛盾を指摘されている事実である。揶揄するものさえある。

1.高専入学者の学力は低くない-

 『モデル』88頁では、「入学者の学力は地元トップの進学校より少し低い」ぐらいで、優秀とされている。特に地方の高専には、このような傾向があり、これは、否定できない。むしろ、比較的優秀であるため、高専問題が発生するのである。

 ただし、高専の入試問題が当地の公立高校入試問題と異なることと、優秀層が力試しに高専を受験することも多いので、単純な比較は出来ない面もあると考える。これと近時の志願倍率の低下の事実を併せると、実際は、高専の当地における見かけの偏差値に比べてかなり学力の低い者も相当に入学している、という推測はなりたたないであろうか。年次ごとに様々な調査があり一概には言えないが、入るのが簡単とはいえず、まあ秀才が入る学校ではあるが、玉石混交の面があり、近時は石の方もかなり多くなってきた・・・という感覚であろうか。

2.技術者採用の大学院修士課程修了者へのシフトー高専側も知る事実-

 『モデル』89頁では、「これからの技術者の採用は、次第に大学院」修了者に移っていく」と素直に認めている。確かに、現在は完全に院卒シフトしているし、高専教員の多くは大学院卒だから当たり前にそれを知っているのはもちろんのこと、かなり古い時代から院卒シフトすることは予測していたはずである。高専としても、これに、対応する必要があるという。一方、就職者数は、(『モデル』の著者が所属する学校では)「状況がよいながら、少ない」としている。

 高専は一応5年の課程で教育を終え、一般的な高専の卒業生の6割程度は、何らかの技術職として就職することを前提としていることからすると、彼らへの教育効果と処遇をもっと分析して見せるべきであった。ところが、『モデル』89頁では、「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」として、これを放棄している。技術職が大学院修了者に移っているというならば、当の高専卒の処遇はどのように扱われているのであろうか。確かに、このテーマは高専側の最重要テーマであって、いくつか調査がなされてきた。しかし、高専側はこの『モデル』の著者のように、高専は大学工学部レベル(たとえば、現在では「専門的能力は大卒とほぼ同じ」という表現を使うが、中学生を含む普通の人なら、能力が同じなら仕事や待遇も同じと考えるであろう。また、かつては、“高専卒の仕事内容や待遇は大卒と同じ”であるとパンフレットや入学説明会で言われていたのは間違いない)という趣旨の宣伝を事実上継続する一方、現在は技術者に院卒が増えたのに対応して進学機能も充実化しているとして、一見矛盾した言動を見せるのである。つまり高専卒の処遇問題を問題としては強く意識しつつ、進学率でカムフラージュしている。

3.早期専門教育の問題点 

 高専の進学機能が高まっているというならば、高専5年の課程とは、どのような理念・意味があるのであろうか。むしろ、基礎科学や教養教育に重点を置かず、形式的に専門教育を施すことで青少年の柔軟な思考を奪ってはいないだろうか。第2章・3章に見たように、幅広く、ものの考え方の根本を学ぶ方が伸びしろが付くのではないか。教育の本義は潜在能力を認めこれを高めることにあるとすれば、高専はこれと逆の方向性を有してはいないか。例えば、高専からの大学編入学生をして、問題を「柔軟、あるいは複眼的にとらえる」ことがに難があり「研究姿勢が硬直的」という指摘がなされることがある(鈴木浩平「高等専門学校からの編入学制度について考える」『日本機械学会誌』No.960)。スポーツや音楽などを除き、一般の「早期教育」というのは、さほど功を奏しない、逆に、個性をつぶす、伸び代がなくなる、あるいは、下手をすると、その分野に不適合を来たし嫌いになるという弊害も一般に指摘されている。「早期」に「専門」的職業能力を伸ばし「顕在化」させようとすると、若い柔軟な頭脳があるにもかかわらず、「特定」分野に関連した「役立ちそうなこと」のみに目がいってしまい視野が狭くなる、むしろ、若いうちに好きなこと”だけ”、しかも”特定”分野の”専門”性だけ高めるのは危険であるということも指摘できよう。もちろん効果的な早期教育もあるのかもしれないが、こと工学でも早期教育に問題があるのではないか、ということはよく考えるべきである。早期の専門教育も効果があるのかも知れない。しかし、この考えを打ち砕いてくれたのは、戦後生まれの日本人ノーベル賞受賞者であり、かつ、エンジニアでもあった彼らの経歴であった(いちいち名前をあげなくても、以下の内容を読めば、想定する人物は特定できよう)。彼らは、早期の専門教育など受けなくても専門家たりえ、しかも「実験の鬼」たりえた。さらには、実践の名のもとに基礎原理の理解を疎かにすると、逆に実践さえも頭打ちになる場合がある。彼らは、電気工学が専門であるが、無理にでもやった座学としての物理学や化学の理解のもとに、実験の鬼となり、独創的なものを創り、作り上げたのである。「エンジニア」で、しかも、「神がかり的な秀才」達じゃないことも重要である。高専卒からもノーベル賞が出るかも知れないが、筆者は、逆に、早期専門教育などはしなくても、実践的な部分も含めて専門分野の能力は無限に伸びることが確認できたことの意味合いは極めて大きいと思う(もちろん、彼らのうち一人の方が言う、大学入試や大学教養部の問題にはよく耳を傾けるべきだ。もっとも、もう一人の方は文句も言わず、大学で外国語の単位をおとしましたと動じず平然としておられることも頭に入れておきたい。それぞれの方に真があると思う。結局、筆者は入試を軽視すべきではないし、入試が個人の能力を潰すとは言えないと考える。センター試験的な全般的・一般的な学力を”最低限”確保しつつ、特に理系志望者には過度の暗記競争がないよう、そして、才能をはかるようしてやるべきだとは思う。教養課程も無くすべきとは考えないが、同氏が在籍していた頃は硬直的・形式的に過ぎたと思うし大いに反省しなければならない。・・・・・しかし、それでも、”最低限”が保証されていない、教養教育の基盤さえもない高専とは次元の異なる問題であることは念を押しておく)。彼らと言わず、日本のエンジニアたちのほとんど全員が高専教育など受けなくても日本の科学技術を世界トップクラスに押し上げついには多くのノーベル賞受賞者を生み出したことを考えると、中学卒業時点で専門分野を特定することなどは(こういうことは、高専が話題になると、高専で成功したと称する高専の中でもごく一部の人たちが飛びついて熱弁をふるうことが多い・・・こういう短絡的な人物群もいることは、ここで指摘しておかねばなるまい)、ほとんど無意味なことがわかるであろう。

 ところで、アメリカの大学生や大学院生は、早期に専門科目を「組み込んで」いるから、創造力があるのであろうか、専門分野に長じているのであろうか。早期に〇〇式教育やら〇〇養成教育行っているから、次々ベンチャー企業を興すのであろうか。アメリカは、高校・大学の峻別、そして理念上離れているものをいかにうまく「接続」(つまり、高専のように接着・同質化・混合化するのではない!しかも高専のように中卒後の話ではない!)させるべきかが問題となる単線型教育制度の下で、一部の早熟者への飛び級措置、これからその分野を学ぼうとする「高校生」があくまで「意欲」喚起と円滑な「移行」のために大学分野における学習を先行させようとするシステムである。リベラルアーツカレッジの例で言うと、このリベラルアーツカレッジは早期に専門教育を組み込むことが、たとえ「意欲」喚起や円滑な「移行」になる場合があるとしても、「専門」分野における能力を「顕在化」させるとは考えていない。ましてや、「かすがい」的(かつ楔形に)に組み込もうなどとは考えていない。大学段階では、特定された〇〇養成などではなく、課題を与えつつ「自由」に学ぶ中で新たな創造を生み出す思考力を蓄えていっているのではなかろうか。もちろん、アメリカにもリベラルアーツカレッジの他に、P-TECH等の独自のハイスクール-カレッジシステムがあるのだが、こちらは、どちらかといえば基礎教育のうえにキャリア・職業教育を志向しているようであり、優秀層の潜在能力や創造力の開発とは別の問題意識が必要であろう。

 高専出身者にもベンチャー企業を興したり、そこに勤めようとする者もいる。しかし、システムそのものへの再考を迫るような思考やその実践に至ろうとする、社会を巻き込んで自分の技術を問おうとする、大企業を積極的に飛び出して何かやってやろうという者は、やはり、アメリカと比べてはもちろんのこと、日本の大学生と比べても高専出身者あるいは高専経由の大学出身者には割合的に少ないように見える。これを現代流というか企業人流に言えば、高専教育では、幅広い視野に基づいた戦略的思考を発揮できない、外国人に日本の文化を説明できず渡り合えない、海外に目をやりグローバルな展開を志向できない、柔軟な思考力がなくなる、リーダーシップを取れないとでも言えばよいのであろうか。これには、これまで散々挙げてきた高専教育の特質(同質の人間が狭い範囲に長く囲われてしまっているというのは一例。この点、第3章9(4))の他に、皮肉なことに、高専の存在意義を必死に示そうとして高専が独自の〇〇式教育、〇〇養成教育をぶちあげればぶちあげるほど、教育が奇形化し、一般教育が圧迫され、視野も狭くなり、教員に与えられた特定の方法をこなすだけになる、ことで技術者や人間としての視野が限定されてしまっていることが影響しているのではあるまいか。そもそも、最近では、高専生の気質や能力そのものが、どこか大企業に勤められれば・・・というふうになっている面もある。高専と比較する対象群の選定を誤っているのかも知れない・・・。もはや、技術や経営でリーダーシップを取ることを諦めているのか、あるいは、高専とはそういう運命にある集団なのか?、それにしても、高専が専門科目や実験を生徒に早期に施している一方、高校生のうちはせいぜいクラブ活動の科学部でちょっとした機器をいじっていた程度で、幅広い科目での受験勉強を経て大学に入って、しかも、専門課程が本格的に始まるのは、まだ先だったという連中の方に、先に述べた“システムへの挑戦”“社会を巻き込んで”“大企業の枠に囚われず”何かやってやろうという連中が目立つのはどういう訳か。もちろん、高専出身者にもそういう連中がいるのは否定しないが、やはり、割合的に少ない。中学卒のみずみずしい感性を持った時期には、専門に凝り固まらず語学・文学・歴史・基礎科学に幅広く接していった方が正に感性が磨かれるのである。そこから専門分野や特定の教育方法に特化していっても遅いということは全くない。むしろそういう順序であるべきではないか。好きなことだけしてお買い得などではないのだ。早期に特定専門分野に凝り固まった実験・実習・実践は、多くの国の多くの教育制度にあるように、自ら発展的思考をなす者(そして工学部なら手を動かす)が第一に受けるべき教育ではない。例えば、英語やドイツ語ではない、ある特定の言語に習熟したい人がいるとする。実際、日本の外国語大学にはそういった言語の学科が多くある。これに習熟するためだけなら、中卒後から多少の教養科目を入れつつ徹底した訓練をすればよい。正に「早期」の「語学実習」である。では、そのような教育で政治家や外交官が作られるかを考えてみよ。指導的組織人が作られるか考えてみよ。否、そのような教育による人間がどのような類型に当てはまるか想像してみよ。戦前、実際はそういう学校ではないのにスパイ養成所と揶揄された学校さえも多くは旧制中学卒業生を入学させた。今なら高校生に幅広い試験を課して入学させる。そのような選抜を経て回り道させても、最終的にはちゃんと語学に習熟できる。次に、どうであろう、「鉄は熱いうちに打て」の論理で、優れた外科医を育てるためと称して、中卒後直ちに医学の基礎教育と外科の実践的教育を受けさせるべきなのか。バカも休み休み言えである。人生と人間の命について経験少ない少年にそんなことをさせられるものか。多少は手先が器用な程度の医者に体を切り刻まれるのはまっぴら御免である。以上のあげた二つの例はもちろん極端な例ではある。しかし、例えば「鉄は熱いうちに打て」の格言は、「早く」やればよいという価値だけを含んでいるのではない。「時期」が大切だという価値を含んでいる。そもそも「打ち方」を間違ってはどうしようもない。工学部や理学部志望者なら、「鉄は熱いうちに打て」の論理で、徹底して数・物・語学を中心に一般科目を鍛えるべきである。そうすれば、まさに、将来、剛性のある精神と技術が身につくであろう。

 逆に言うと、高専の教育というのは、大学とは制度も性質も異なり、特定分野における定型的・ノウハウ的能力を伸ばす(これだけなら量を課せば簡単に出来る。高専の内実を知らない者が高専生を「優秀」などと誤解しているのは、この点を見てのことである)のであって、そのような人材育成に徹し基本的に進学は予定していないというのであれば、社会や生徒に誤解を与えることもなかったであろう。ちなみに、そうした高専教育の結果というべきか、高専生が「論理的思考」はたまた「創造的思考」において劣るという評価は、結構なされている。

 ところで、高専生が大学工学部に編入学するようになってからは、大学工学部教員になる者も増えてきた。工学専攻者の1割が高専出身者だとして、さらにその高専生の4割が専攻科又は大学に進学するとすれば、その比率ぐらいの割合、つまり、3パーセントから多ければ5パーセントぐらいの割合で、私学を含む全大学工学部教員の割合を占めてはいるだろう。しかし、高専出身者が高等学校からの一般入試を経た大学工学部生より優れているというならば、工学科目を一度履修したうえ大学で重ね塗りして、高専側の論理によれば「優秀」であるはずの彼らのこの比率が圧倒的でなければならないが、そうでもない(仮に、本当に仮の話だが、大学の工学者の1割が高専卒だとしても、一応、「工学」専攻者に占める高専卒の割合は1割いるから、比率的に「多い」などとは断じて言えない)。逆に言うと、先の例と同様、大学工学部の研究者の圧倒的多数は高校生のときに特に工学において顕在化された能力を伸ばしたわけではない。むしろ、潜在能力を伸ばす方向にあったのだ。もちろん、この一部の高専出身者が専攻分野においてすこぶる業績があることは素直に認めなければなるまいし、中には、世界的研究者になった人もいるだろう。また、技術科学大学(以下、用例は様々あるもののの、技科大)は地方国立大学を中心に多くの大学工学部に人材を輩出している。しかし、結局は、大学教育を経由した結果であることを忘れてはならない。そして、特に高専経由の大学出身者の主である技科大については、技科大にこれが設立後一定期間、全国の高専の学科トップが殺到していた時期があったことも考慮せねばなるまい。つまり、技科大は、ある時期まで、地方の秀才である高専トップの生徒を独占していたという背景がある。

(本来、地方の進学高校の工学系志望トップクラスは、いわゆる旧帝大をはじめとす難関大学を目指し、進学先も全国の大学にばらけるはずだなのだが、高専生は一部を除いて技科大しかないという状態だったのである。また国側の配慮で、平均的な地方国立大学より早くから博士課程が設置されていた。筆者は、高専経由技科大出身の大学研究者の多くはこの技科大に高専最優秀層が殺到していた技科大設置初期中期の時期の人たちではないか、そうすると、各地方国立大学に博士課程が整備され、しかも、技科大が高専トップを独占できなくなると、技科大出身の大学研究者は割合的に少なくなっていくのはないかと推察している。もちろん、初期高専生ならぬ、初期技科大生や前述した山梨大学等の初期編入学生が専門分野において大変優れており評価されていることは疑いを得ないことである。)

 そもそも彼らも最初から普通に高校・大学と行っておればよかったことである。なるほど、企業はどうか別として、工学研究者の世界は実力評価の社会である。どこどこの高校とか高専であるか等は、しかるべき研究者はあまり見ておらず「高専卒だからスゴイ」という見方などしないのだ(但し、高専からの大学進学者が極めて少なかった時期は、マイナーなはずの高専出身者が優秀ぶりに驚いたはずだし、評価して見せた大学教員もいた。また以上の技科大の例もある)。このことは、少なくとも工学部の世界で「○○高校はやはり数学に強い」とか「スゴイ」などと言わないことを考えればわかるだろう。どうせそうなら、最終的に同じ程度の専門科目を学ぶのであれば、むしろ、受験という試練、文理双方の広いもモノの見方を身につける、異なるものの考え方をする人と接する、環境を変える等をした方が、長いスパンで考えて、その人間にとってはいいのではあるまいか。青年のうちは、たとえ受験を通じてであれ、数学や語学分野の基礎学力と潜在能力を伸ばした方がよい。優秀であればこそ、そうして欲しい。そして、筆者は、一歩踏み込んで高専の存在意義と結局は大学教育を経由している彼らが高専教育独自の成果なのかを問うているのである。高専出身者が大学研究室に一定割合でいるというのは、大学・大学院進学を許された高専の学生割合からは当然の割合であって特筆すべきことではない。旧帝大や独立大学院大学の大学院に全体の学生比率・割合よりやや多くの高専専攻科出身者が在籍するのは、地方国立大学の大学院が博士課程まで充実化してそこの出身者が昔のように他流試合をしなくなっている面も強いと聞いたことがある。また、高専専攻科卒ではハクが付かないという隠れた理由もあるだろう。

 最後に、厳し言い方だが、“大学教員になる人もいる”などと言う前に、一人の工学者を作るために、一人の優秀なはずの退学者、一人の優秀なはずの下級技術者を生み出していることも考えてほしい。高専から大学工学部教員になりうる比率が一般入試工学部出身者の2倍はあるという安易な仮説もあるようだが、高専で「工学」を志したはずの者のうち、脱落者が入学者の2割、高専からの大学又は専攻科に進学しない者が5割いる(8割残ったその6割)ーなぜそのような現象が生まれるからは次章以下で十分説明するーのもとでは、全然意味のある数値ではない。また、工学専攻者には、企業研究者や開発従事者というもう一つの優秀層の山があることも忘れてはならない。歴史的には、高専は大学とは異なる独自の教育機関であると標榜しながら、結局今となっては、“大学教員になる人もいる”と居直るのだから、開いた口が塞がらない。

4.賃金は大卒・院卒と異なる。下級技術者化する高専卒。しかし、「一部」には優れた最終学歴「高専卒」もいる

 『モデル』氏の「卒業生の学力をどう見るかは難しいので、進学率を見ればよい」という問題意識の低さはさておき、以上の点を含む高専教育の位置づけと成果については、野村正實『日本的雇用慣行』及び同HPから厳しく問題を指摘されている。『モデル』の著者は高専の「存在意義」が問われるこの問題提起にどう答えるつもりなのであろうか。重要な指摘だが、あえて引用をしない。是非、野村氏の本書を確認して頂きたい(賃金は大卒と高卒のせいぜい中間、下級技術者化する高専卒、独自の高専教育において人材を社会に供給しているとは言いにくい等)。

 ちなみ、高専問題を問題として的確に認識しながら、現在では大卒がインフレ化しているので、高専卒の実践的な能力が高く評価されていくのではないかという者もあるかもしれない。しかし、①野村氏が前掲書で指摘するように、高専卒の地位が相対的にに低くなったのは、大学工学部の定員増加や増設があったこともひつとの理由で、この大卒郡には、旧帝大・名門私学理工系・地方国立大学の他に、大量の中堅上位の工科系大学出身者も含まれていることを忘れてはならない。それらに比べてもなお、(当時の秀才であった)高専卒は、下位に扱われたのである。②また、同書によれば、依然として、大企業は学歴主義的な人員配置をしていることが示されている。③さらに、大企業における特に若手の待遇は「高卒並み」と高専卒が吐露しているケースがあり(野村前掲書や『学歴主義と労働社会』では、高専卒は大卒と高卒の中間に位置するという調査結果が引用されている。ただし、近時は様々なデータが出ており、待遇問題については留保すべき部分もある)、これは、あながちウソに見えない。つまり、このような“高専卒が見直されていく”という意見は、高専卒は、中堅大学に増設された大学工学部卒業者や中堅理工系大学卒業者に比べても不遇を買ってきたが、今日に至って本格的に、下級技術者や技能労働者として処遇されるようになったということを、言い直しているに過ぎないのである。大卒インフレ問題は、なるほど下位大学理工系において進んでいるかもしれないが(下位文系ならなおさらだろう)、中堅以上の大学特に理工系では進んでいないと考える。そして、ついには、中堅・下位大学の工学部出身者が下級技術職や技能職に食い込んできて、高専は益々存在が薄くなるという事態にまで陥いる。

 同様に、高専卒を、大企業におけるリーダー的高卒現業職になぞらえ、この高卒現業職も研鑽を積めば、将来大卒を指導していけるなどという、いかにも大企業における現場道徳な価値観を持ち出す者もあるかもしれない。しかし、これは、大企業高卒現業職が全体の就業者の中でそんなに多くはなく、仮ににその恩恵に預かれるとしたらごく一部の伝統的な工業高校の中のさらに一部の生徒であり、しかも、採用数が偶然的要素(団塊世代では、とにかく都心部に出ていけば、大企業の工場労働にあやかれたのである。今はちょうど、その団塊世代が完全引退して、その波が来ている。しかし、このわずか前には、地元の古い工業高校を出れば得られていたはずの、地元進出大企業工場への就職がシュリンクしたのを思い出したまえ)決まっていることを忘れている。しかも、当の高専出身者自体が、工業高校卒では単純労働にしかつけないと考えて、高専を選んでいるのを忘れいてる。高卒で会社に入ったベテランが、“一時的に”大卒に仕事を指導するなどという例は、どこの会社のどの時代にもあったことである。ちなみ、私筆者は、学歴はないが、素手で日本の製造業を支えてきた、中小零細・下請けの職人・技能労働者への尊敬を忘れたことはない。待遇が抑えられ不況になれば真っ先に泥をかぶる彼らと大企業内の非正規労働者の犠牲のもとに、大企業現業職の待遇は支えられているのである。あるいは、中小企業の開発力には目を見張るものがあるが、これと、大企業中堅下級技術者との関係についても同様であろう。確かに、大企業から技術度や熟練度の低い業務が外部化される傾向はあるだろうし、大企業内に熟練度や専門度の高い労働者がいるだろう。しかし、高い技術力や熟練度を持った者が、所属する企業規模が小さいというだけで待遇が低い、逆に、能力一般や技能面で下層に位置する大企業単純労務職の方が待遇がよい(と当人らは思っているが、経営側はそうしたいと考えているだろうか?)という面もあるわけである。たとえば、部品産業で神業ともいえる技術や技能をもっているのは中小企業なのであるが、これらが正当に処遇されてきただろうか。また、特異な技術をもった中小企業や数人で起こしたベンチャー企業が対等にコラボレーションする事例も見られる。このような労働問題や産業構造あるいは企業論理への視点を忘れて、工業高専から大企業下級技術職・技能職、工業高校から大企業現業職についた者を、その教育がすばらしいからそのような企業に入れるのだと宣伝するのは、いかにも視野が狭い。

 以上で上げた2つの例は、そんなことをいう人がいるのかとイブカシがられるかも知れない。しかし、意外に、地方や非学歴保持層ではよく見られる、悪く言えばいかにも通俗的な考え方である。

 筆者も、高専出身者が全て「下級技術者」に過ぎないなどというつもりはない。中には資質を認められて、中核的・中心的技術者になるものもいる。国立高等専門学校機構『目指せ!プロフェッショナルエンジニアーわれら高専パワー全開』にはそれが表れている。ところが、この本に出てくる面々、特に研究職や大企業開発職にあるのは、年代的にはほとんど初期生以降の7期8期生ぐらいまで(もちろん年齢的に中心的存在になるという要素もある)、また若手の学歴は最終的には理工系大学に編入学した大卒・院卒以上がほとんどであるということである(また、なぜか、高専は「中堅技術者」「臨床的技術者」を養成すると標榜しこれになった者の方が多いはずなのに、生産管理等の部門に配属された者の紹介が非常に少ない)。優秀者が高専に入学してくる、あるいは、高専卒で大企業開発職に抜擢される者があるというのは、大学進学率や社会意識などの「時代性」があるのである。また、現在では大学に進学しないと開発職には就きにくい時代になっているのである。若手でも、能力や専攻分野次第では高専卒の肩書で院卒に優るとも劣らない仕事をしている者もあろうし、また、場合によっては「転換試験」で上級技術職に就く場合もあるだろう。しかし、その実数がどんどん減ってきている、無くなりつつあるというのが多くの高専卒の人たちの実感であるはずだ。また、この面々もそれを知っているはずだ。心を鬼にして申し上げておく。こういう本と同様の「美辞麗句」を高専は繰り返してきたのである。彼らがなくてはならない存在であることと、高専がなくてはならない存在かは、別問題である。ほかの個所でも述べるが、彼らは時代が時代なら条件が揃っているなら「高校」「大学」でよかった人たちなのである。また、この面々の裏に優秀でありながら不遇を買った者、あるいは複雑な心境・状況におかれた者も限りなく存在するのである。全国高専の選りすぐりを集めたこの本と同じ論理で、”工業高校生も昔は凄かった””技術職に就きたかったら工業高校に行きましょう”という本が出来るであろう。

  野村正實『学歴主義と労働社会』108頁は、学歴社会は「1960年代後半」あたりを学歴社会が成立した時期としている。一方、筆者は、「7・8期あたりまでは集団としても凄く優秀だった」という高専教員の述懐を聞いたことがある。高専7・8期の入学時期は1970年前後である。あたかも、1960年半ば以降1970年半ばまでは、大学進学率が急上昇している時期であるのはよく知られる事実である。逆に言うと、1970年頃は、まだ学歴主義を内面化できずあるいは「大学進学」を視野に入れない層が、地方を中心に厚く存在・混在していたと言えるのではないだろうか。1970年のこの時期、高専の入試倍率はまだ3~4倍を保っており、1973年頃には2倍程度に落ちていった。

 科学技術振興機構『科学者になる方法』には、ある高専生が、高専に入ったものの、工場見学で先輩達が中堅研究者や中堅技術者という位置付けで働いているのを見て、もっと自分の能力を発揮できる道を選ぼうと考え、高専を中退して一般入試を受け旧帝大理学部に入り直した話が出ている。この高専生は、年齢的には高専7・8期あたりである。この人は高専の教育内容に文句は何も言っていない。逆に満足していたかもしれない。しかし、自身も優秀でありながら、初期高専生たる先輩たちの姿を見てきた7・8期生の肖像として興味深い。

5.偽りの言葉

 狭い範囲で通用する道徳的な教訓には、もちろん真実が含まれている場合も多いが、高専に限ってはそうではない。下記の言葉は、パンフレットに出てきたり、筆者がこの耳で聞いたことがある言葉である。ここまでくると、洗脳である。

進学校では競争が激しいので落ちこぼれて、国立大学工学部へ入れない」という嘘

 信じがたい話だが、国立大学工学部学生の大部分が進学高校出身者であることを忘れて、このようなことを言う教員や学生がいた。なるほど有名進学校でも落ちこぼれてどこの大学にも入れないということは結構見られる例であるが、高校生が受験で必死になっているときに、高専生は遊んで留年退学・・・こちらの方がよほど深刻である。論法が逆である。競争に参加すればどこかに入れる。院でやり直しもきく。

②「大学生は理論ばかりやっているので実験が出来ない」という妄想

 理論ばかりやっている大学生はいるにはいるが、大学生も学部終盤になると、基本的な実験作法を身につけている。というより、明治時代からそうしてきている。有名なところでも後発の私立大学工学部では学生実験がままならないところがあるが、地方国立大学では少人数で学生実験が出来るから、そちらに進学しなさいと、進学高校の先生がアドバイスするくらいである。だいたい、理論ばかりのその学生も勉強するだけ全然マシである。日本では東京理科大学が理学中心でありながら、実験精神をも伴っているだろう。そういう大学もあるのである。名門私学にも古くから工学部は設置されてきているし、旧制専門学校を前身にもつものも数多く、実学・実技・実践教育を標榜してきた。高専の場合、工業高校と同様カリキュラム上実験実習が早くから導入されているが、実技・実習教育の淵源は明治時代にさかのぼることができる先輩の学校がちゃんと存在するのだ。しかも、その高専の実験施設は貧弱である(ただ、これには同情すべき点がある)。先輩面っていうやつだ。ただ、地方国立大学・新制大学工学部でも、これが出来た頃、旧制専門学校・高等工業時代と異なり形式的に一般教養課程を導入したので、実践力が落ちた“時期”があったことは、他の章でも触れる予定である。また、大学院までを見越した教育や、大学院生との研究・実験まで考慮に入れれば、高専の方が実技・実習が充実しているとか高度などとは到底言えない。

 その他、今日に至っても、大学工学部では「設計製図」をやらないとか、大学工学部の専門科目の時間数は高専の半分以下、という尾びれのついた話を信じている者さえいる。高専は実習が多いと標榜する一方、大学の卒業研究(学部4年生のほとんどの時間数)の単位はカウントしないわけである。

③「高専生は4年5年の時に実験実習に追われるが、大学生は教養課程で遊んでいる」という無知

 なるほど一見そうである。ところが、ちゃんとした大学の工学部生は、まず、受験の段階で大変な努力をしているが、高専生はそれをしていない。一般教養で一時だらける場合もあるが、専門課程に入ったときの忙しさは配属先によっては高専の比ではない。そもそも一般教養が削られていることを何とも思っていない時点でどうであろうか。かつては、企業側や大学教員側も同様のことを言う場合もあったが、教養部改革と工学教育の主流が大学院修士に移ったため、それは当てはまらなくなった。高専関係者は、モデル氏のように「周囲が勝手に落ちていった」とか「勉強しない大学生」などと強調する。仮に大学一般にそういう面があるにしても、工学部ではそうではない。落ちて、勉強しなくなっているのは当の高専生も同じではないか。大学工学部には実験やレポート、学内試験がないとでもいうのか。

「あなた方は学生です」がおりなす逆作用

 これは、高専生は、高等教育機関に属しているのであるから自立心・自律心をもって行動すべき、という意味で設立当初から使われている言葉である。筆者も入学式か何かで強調されていたことを覚えている。ところが、これを逆用して、あるいは逆に作用して、高校生の年代でピアス・茶髪・喫煙、あるいはもっとヒドい非行に走るものが結構多い。これはネットの罵詈雑言を取り上げたものではない。現実に高専の紀要等でも取り上げられる厳然たる事実である。また、バイクや自動車事故もかなり多い。それだけなら、一部の有名私立高校や放任型名門高校でもありうる。しかし、5年間受験あるいは就職活動がない、あるいは私的共同体的な(名門)私立高校のように茶髪等の自由は与えるが一定ラインを超えたら直ちに処分等の措置もしにくいため、生徒側に自制心が働かなくなるのである。また、男子生徒が圧倒的多数で、しかも、これが「長期」にわたることから学校やクラスの雰囲気が退廃的になってしまい、そのまま単なる不良の集まりみたいになることも多い。中学時代に比較的成績が良かった者が(も)入学する学校としては異常な事態である。逆に設立当初は、学業と気質の面で生徒の質が今より格段に上だったにもかかわらず、管理教育を行っていたと聞く。しかし、これら結構な割合で存在する素行不良者(中には、救いようのないクズやカスもいた。正確に言えば「クズ」と「化した」というべきか?)の中に混じって、一部に優秀層や純朴な生徒が在学している(これには「専門」さえやっていればいいのだから高専が天国という者の割合が大きい。あるいは、家が貧しいからここで学ぶしかないという者もある。筆者も貧乏の出だったから、こういう言い方をするのを許してほしい)というビミョーな雰囲気は、内部の人間でなければわからないであろうし、逆に高専生や教員はこれを何とも思わくなっている。

 以上のような生徒の気質と学校全体の雰囲気、そして、教員も企業や大学・博士課程出身者が多く若年生徒への厚生指導や生活指導の経験が浅い者が多いため、さらに、1年生から5年生(専攻科を含めれば7年生)まで指導すべき生徒の年齢層が多岐に渡るため(しかも、大学と異なり、出てこなきゃいいのにという「学生」も教室には仕方なくやってくる)、うまく生徒指導・教育指導が出来ず、ついにはあきらめていることが多い。文部科学省の位置づけどおりとはいえ研究機関であることはあきらめた代わりに、やたら「教育機関」であることを強調してこの体たらくである。社会の「中堅」たれ、「実践的」であれ、「工業社会の・・・」のと声高らかに叫ぶが「教育」一般には疎いわけである。

高専は「1条校」の「高等教育機関」である、というコンプレックス丸出し

 専修学校も高等教育機関である!専攻科も含めた工業高校も「1条校」である!短期大学も高等教育機関である!

 その論理でいけば、専修学校も工業高校専攻科も大学同等の高等教育機関であるということになり、高専はそれに類するということになるはずである。名称的にも高専は「高等」がつくだけで「専門学校」であることには変わりはない。「専修学校」との区別がまぎらわしいので「専門学校」という語を外してほしいと長年望みつつ文部省からはこれを却下され続けてきた歴史がある。そのくせ、専修学校や工業高校とは異なる”大学同等の高等教育機関″であるとうそぶいてきた(高専側によれば「専科大学」ならよいそうである。一方矛盾していることに、「専」は明らかに「専門学校」の「専」なのに「高専」なる略称は大好きである)。要するに、高専高専でしかないのであり、それでよいではないか。1条校だの高等教育機関だのは無意味な修飾である。

 高専設立当初から言われてきたことだが、現在でも高専内部ではやたらと強調されているので、これを真に受けた新人高専教員や年齢を重ねてもこれを信じ抜け出せないベテラン高専教員が、本当は大学に戻りたい、戻れていたならとの思いと裏腹にこの「高等教育機関である」を強調することがある。大学に戻れたらなら、そんなことは言わなくてすむので、頑張って転出して頂きたい。大願成就の暁には、たいていの教員は、あれ、俺そんなこと言ってたっけ?ということになろう。上述のごとく無意味、又は、後述のごとくせいぜい勘違いを生み出す標語だからである。

 「あなた方は学生です」と並び高専ならではの標語と言えば標語である。中学生に向かって「高等教育機関」といえばエラくたいそうに聞こえるが(何を隠そう筆者がそうだった)、高校生が大学や専門学校に行く場合、自分は「高等教育機関」に学ぶのだ!とはならないはずである。実際は、中学卒業後この学校程度で「高等教育」を「終えてしまう」という結果になりかねない。もっと言えば、「後期中等教育」の教育内容を疎かにしてもよい(第1章1)、生徒の生活指導や厚生指導は疎かにしてもよい(前項④)とする一大要因にもなる。数少ない心ある教員の中には赴任していきなり「高専は高等教育機関であ~る」と言われて違和感をもつ者もあるようである。中学生ならいざ知らず、これがまともな「大人」の感覚というものである。

「大学に行ったら就職がない」という俗論

 当の高専は最近は進学を売りにしておきながら、高専内部では「大学に行ったら職がない、中小企業にしか入れない」等と"豪語"する者もいる。高専生は視野が狭いあるいはそのように仕向けられるので、ちゃんとした大学ならしかるべき就職先があることが分かっていないのである。例えば、小規模ながら伝統のある化学メーカー、コンサルティング会社、特化型の基盤部品産業、試験研究・調査型企業、大手企業グループ内で卓越した技術力を誇る専門分野特化型関連会社に一流大学・国立大学の工学部や理学部出身者が入る例は結構あり、彼らはその企業で中心的立場に立つ。一般には聞いたことがない企業でも、伝統と実績があり実は東証一部に上場しており、あるいは非上場であっても、その業界では知る人ぞ知る世界的にも有名な企業が日本には非常に多いのであるが、一応は工学分野にあるはずの高専生はあまりそれらの企業群が視野に入っていない。もちろん、これは高専出身者が就く職種や職階、高専側の宣伝にも関係している微妙な問題でもあるが、その構造はこの文章全体を読んでもられば理解できると思う。但し、専攻科修了生を大卒並みに評価する一部の上場中堅企業や中小企業も存在するので、その企業群まで見込んで就職活動をすると、「知る人ぞ知る」企業に目が向く場合もあるだろう。もっとも、専攻科が大卒並みに扱われる場合があったところで、高専問題はそれはそれで残る。

 もちろん、大学進学率50%を超えた今日、その半分にその学歴に応じた仕事がないということは当然起こっている。しかし、以下に述べるように、時には勝手に国立大学工学部と比較しておいて、就職のときだけ、都合よくFランク校と比べるという論法は、高専関係者がよく行う。

勝手に国立大学工学部と比べる愚行

 高専関係者は、同じ「国立」というだけで、勝手に高専を国立大学工学部と「同等の教育内容」「準じる」「その割合中、いくらかは・・・」等とやり、眉唾ものの怪しい数字を出すこともあるが、ちょっと待ってほしい。他の個所でも述べたが、日本には、結構な数の私立大学理工系があり、これには、戦前からの伝統がある大学も多く、実力を蓄え就職も悪くない。伝統私学に工学部が新設される例もあったが、これが高専の後輩ということはなく、すぐに大学院課程が設けられた。新興の理工系大学についても。学生の質に問題があっても、教員は学位をもっており学位も授与でき、実験設備も大学としての体を保っているし、選ばなければどこかのメーカーに就職自体はできるだろう。高専関係者は、高専の存在を生徒や社会へのアピールのために、私学の存在を無視することが多いのである。これには、高専の校長が当地の国立大学工学部教授出身者ということも大きく影響している。特に地方では、私学の工学部がない、あるいは大都市圏の私学への進学が一般的でない地域もあることも影響しているだろう。ところが、日本全体でみたときに、勝手に「国立」枠で括って何を言いたいのであろうか?そんな括り方をしていいなら、地方では大体、各県に国立大学工学部1つと国立高専1校があるのであるから、どうとでも言えてしまうではないか(「国立」工学系学生の4分の1は高専卒等・・)。ちなみに、高専卒が、高専卒で就職したときに、入社時に驚くのは、東大京大等のとてつもなく頭のいい連中に出会うことと、それまで高専生が眼中においていなかった私立理工系出身者の数に圧倒されることである。地方国立大学工学部卒ももちろん根を張っている。これらには、実は、大したことはない連中もいることもあるわけだが、頭から私立理工系を無視するのは全く不当であり、誤解を与える。

 他にも、「一般教科の授業時間数は、普通高校の理系コースから大学工学部の2年までに学ぶ類似科目の時間数とほぼ同じ」というデタラメ・嘘八百や、「確かに一般科目は少ないが、受験がないので効率的に学べる」という伝統的な虚栄を張っている高専も数多い。いつまでそんなことを言い続けるのか?誠に罪深い限りである。逆に、受験がないから英語が出来ない、効率的に学ぶというより手っ取り早く済ます=軽視する風潮を生んでいるのである。

高専はエリート校である」というやはり欺瞞

 この種の言葉は、入学後のオリエンテーションであったと記憶しているが、教員ではない学生課長か誰かが言って挨拶していたのを思い出す。先進国で、いな、日本でも、教養教育を軽視した学校をエリート校とは呼ばない。なんでエリートの処遇が大卒と比べてこれだけ問題となるのか。狭い高専世界で、しかも1年生に向かって、実態に合わないことを吹き込むのは、「洗脳」と揶揄されても仕方あるまい。

「そんなことも知らないのか」という傲慢

 高専のカリキュラム上、たまたま、早く学んだだけの内容を盾に、大学工学部学生や大学工学部出にぶつける言葉。それを言えば、工業高校3年生が大学工学部2年生をバカにできるであろう。見苦しいだけである。ものごとには順序がある。英語の学力や数学の応用的能力が劣っている、あるいは、「後」に大学生が学べば一気に追い越されることをわかっていない。しかし、筆者は、そういうことを言ってしまう高専生「個人」を非難したり憐れんだりまではしない。そういうシステムに巻き込まれたらそういうメンタリティになってしまうというだけのことである。

 同様の事例として、企業などにはいったばかりの高専卒が、自分の学力水準は棚に上げて、新卒の大卒・院卒が企業における仕事になかなか馴染んでいけない姿を見つけては、このようなことは高卒だろうが大卒だろうが試練として降りかかるものにもかかわらず、「大卒はたいしたことないな」などという勝手な感想を抱くケースがある。3年後、彼らがいつしか間に仕事に慣れていき、あるいは、開発部門などに移っていく姿が見えていないのである(あるいは本当に会社を辞める人もいるが、それは高専卒も同様である)。高専から大学工学部編入学生が、まだ本格的に専門課程に入っていない大学工学部生をとらえては「高専卒ってすごい」と妄想を抱く、社会人バージョンである。その”大したことない″大学工学部生が卒業研究や修士課程で伸び行くことは既に他の箇所で述べた。

 視野の狭さと劣等感(というよりも妄想の優越感か?)が合体するとこういうことが発現する。

「20歳までの教育は高専に任せていただき、大学は20歳から教育研究指導をしてほしい」という内弁慶思考

 誰も読まないだろうと思って、あるいは、本当に井の中の蛙になってしまって、あるいは、内弁慶的思考で、教員が紀要等に書いたりすることがある。胸に手をあてて考えてほしい。そういうことを無責任に言い放つ者に限って、自分の子弟だけは別だったりする(筆者の知る限りでは、生え抜きを除く高専教員で、自分の子弟を高専に入学させようとしたり、実際に入学させた教員はいない)。逆に自分の問題ではないから、そういうことが言えてしまうのである。

 まだまだあるが、これ以上は止めておく。やや、俗な言葉で語ってきたが、彼らの言葉の背後にあることを炙り出すために、あえてそうした次第である。真面目な生徒もいること、しかるべき知見を持った教員がいることは否定しないが、真面目だからこそ、世間の常識からかけ離れた論理を信じてしまう場合がある。