第5章-高専増設批判(1)-

 平成28年目下の職業専門大学構想とは別に、それに先立って、高専の6年制化、学士の学位授与、早期の大学院進学、一県一校化、他分野への拡大などの、高専改革方針が、与党の一案として示されている。

1.職業専門大学構想との関連性のなさー学位授与権に関連させてー

 先ず、高専改革が、目下のところ、職業専門大学構想とは別立てで論じられていることである。そもそも学校教育法にあるように、高専は、「職業教育」機関である(高専は、高等教育機関の範疇にあるとは言っても、創立以来50年、学位授与権ははく、また、自治権もなく、「研究機関」としても位置づけられていない)。50年来、職業教育の高等教育機関として位置づけられてきたにもかかわらず、与党の青写真側からも、今度の職業専門大学案側からも、職業専門大学と高専との関係性については何ら構想が示されていない。例えば、職業専門大学にはIT分野、金属加工(これを例に挙げるのは何とも安直な気もするが・・・)、はたまた、調理師になることなど、あらゆる職業教育が含まれており、これらの職業専門大学には学位授与権を与える予定であるという。ところが、高専にはこの50年間、大学では無いとの理由で、学位授与権は与えられてこなかった。周知のとおり、学位を授与するのは学位授与機構である。①先ず、「学位授与権」そのものついてであるが、国が、高専の学位授与権に消極的であり、おそらく、今後も消極的であることは、高専と同じ準学士なる「称号」付与権を与えられてきたに過ぎない短期大学が、高専とは異なりいつのまにか「短期大学士」なる「学位」授与権を得たことでも明らかであろう。国は、やはり高専を大学ではないということを重く見ているのである。②また、今度の高専改革が、高専に「学士」の「学位授与権」を与える趣旨のものであるか定かではないが(学位授与機構の認定で、学士そのものにはなれる)、これには、短期大学側の反発も考えられる。つまり、高専設立当初の専科大学構想に猛烈な反対をしたのは短大であるが、このような短大が、自分たちには「短期大学士」なる学位を授与できるに過ぎないにもかかわらず、高専には大学院に進学できる資格である「学士」の学位授与権を付与することに賛成する可能性は極めて低い。

 問題はここからである。短期大学も残り、さらに高専高専のまま(改革をして)残るとしたときに、調理師養成や金属加工の技能職養成の職業専門大学には学位授与権があるにもかかわらず、一応は企業の技術職を輩出する高専側には学位授与権がないという、なんとも奇妙な現象が生まれるのである。実は、このような奇妙な現象は、いわゆるFランク校と呼ばれる私大の工学部に大学院があったり、あるいは、看護士養成が学士課程に移行しつつあるなど、近時、垣間見ることができる現象ではあるが、このイビツな現象が、いよいよネジレた形になると言っているのである。職業専門大学と短期大学および高専の存続とこれらの関係性に整合性を持たせ、矛盾を生じないようにする為には、少なくとも、これらを系統立てて論ずるべきであろうが、これは高専(あえて言うならば短期大学も)という中途半端な学校制度が存在することによって生じている問題ともいえるのである。

2.6年制化の功罪―長期化の問題性と可能性―

 第二に、6年制化については、功罪(「功」の方は、あくまで、この制度を残さなければならないという場合の話であるが・・・)相半ばする。

 高専教育は、これまで多くの中退者・留年者を生み出してきた。少なくとも1割、通常2割が退学、多ければ留年も含めて卒業時にクラスの4割がいなくなっていることも珍しくない。実は、これは高専の教育が格別厳しいからではない。①中学卒業後に専門分野を決めることによる、専門科目への不適応、②あまりに大きな割合、比較的高度な内容で、しかも早期に、専門科目を開始するというカリキュラムと、ほぼ同じ気質の生徒間の人間関係が長期に続くことから、生徒が自分の知的発達のバランスに不安を覚えること―中には、高専の教養軽視のカリキュラムと風潮に不満を覚え、中退して、大学進学する者もいる―、③5年の長期の就学期間内に大学受験が無いことによる中だるみ、④中途半端な自由を与えられるために生じる非行化、または、同一学校内に、大学生の年齢と中学を出たばかりの人間が混在することによる下級生側の圧迫感―全寮制を建前としていたころ、5年生が1年生に挨拶代わりに“シゴク”などの例もあったのである(第二章参照。運動部やスポーツ校の寮の話ではないことに留意されたい。暴力問題は、近時も時々見られたが現在では構造問題にはなってないようである)―、⑤高専そのものの入学難易度低下による学力低下高専が敬遠される理由に、中学卒業という少年の年齢から開始して、その後5年もの長期の教育課程を経なければならいことが挙げられる―、が大きな要因である。これらは、高専の教員から外に向かっては余り口に出されることの無い事実であるが、少しでも内実を知るものなら、合点のいく話である。つまり、「早期」、「長期」、「特殊」、「同質」であることが高専の退学・留年問題の根底にあるのである。効率的な教育を施しているつもりが、逆に、2割以上の撤退者を生むという「非効率性」に何故気づかないのであろうか。その高専の就学期間が5年ではなく6年になったときの帰結に、立法者は責任をもてるだろうか。入学者側からも、6年制化は魅力的に映らないであろう。高専は専攻科設置によって望めば22歳まで教育課程がある。専攻科を正式に修了すれば学位授与機構から学士号が得られ、その後大学院に進学することもできる。ところが、この課程が出来たときに高専の人気が高まったであろうか?魅力あるものに映ったであろうか。高専の入試倍率はジリジリ下がり、入学者の質も落ちつつあるが、この専攻科設置が起死回生の策となったとは言えまい。大方の反応は、どうせ22歳までの教育課程なら、あるいは、その課程を経た場合の処遇がどうなるかよく分からない以上、最初から大学に進学した方がいいというものであろう(こちらの方が逆に「効率的」であると一般的には思われるわけである)。一時的に入試倍率が上がったのは、長期不況で大学生の就職率が落ち込んだ時に過ぎなかった。

 よい面もないわけではない。18歳以降の課程が3年になって、その後に就職するのも、大学院に進学にするのも可能と言うことになれば、高専をバイパスに大学工学部への編入学などをする必要はなくなる。そうすると、“高専は、大学や専攻科への進学する者が4割にも達し、独自の人材を輩出しているとはいえないのではないか”、というある意味では非常にイタい指摘を受けなくて済むというものだ。高専教育が、高専関係者の従来からの念願どおり「完成教育」となるわけだが、そうであるなら、高専側も、大学工学部への編入学を目玉にして(センター(共通)試験を回避できることや受験競争がないことを目玉にすることさえある(この点、第三章9「編入学」の項を参照)。このような者に教育者の資格はあるまい。)入学者を誘うことは断じて止めてもらわねばなるまい。

3.6年修了後の、早期の大学院進学―一般大学側の反発とルートの奇形化―

 今でも、大学院入学資格は柔軟化されている。要件を満たせば、例えば高卒のプロ野球選手がスポーツ科学の分野で修士号を得たりする例もある。ところが、高専6年制修了者(1年若い年齢で)に一律に資格として大学院入学を認めることは、今度は大学側の大きな反発が予想される、というより大きな反発は当然のものである。多くの大学で、特に一流大学の大学院で、大学院入学の飛び入学を認められるのは、学部在籍時に格別に成績のよいもの等の要件があるはずである。自校出身者に対してさえ、そのような厳しい基準を設けるのに、大学ではない高専出身者にその資格として大学院入学を認めることはまずない。高専が大学より格上ということはありえないからである。大学院の教授陣どころか、学部学生も反発するであろう。経済的に、一部の人間が、特に優秀性を認められることなく得をしてしまうからである。あえて、先の6年制論と絡めて正当化するとすれば、6年修了後に1年の専攻科ないし予科を経て、大学院進学が可能ということになろうか。そうすると、元の木阿弥、最初から大学に行っていた方がよいということになる。

 ただし、高専専用の大学院という手もある。これには、パイロットプログラム的に、都立産業技術高専産業技術大学院大学が存在する。もう一つは、豊橋、長岡の両技科大を完全に大学院大学にすることである。周知のとおり、両大学は高専生を主に受け入れる大学であるため大学側からの反発もあるまい。

 しかし、結局、高専問題はここに行き着くのだが、ここまですると、高専設立当初問題にされた出口の“ふさがった”袋小路”ではなく、出口はふさがってはいないが“殺風景な一本道がダラダラ長い(なんと中学卒業後修士まで8年同じ所!)”“ちゃんと本道があるのに、自分の背丈がやっと入る程度の狭い山道を1人で歩んだ上、到着点は同じ”“あえてこの道を選ぶ理由がなくなる”というだけの制度になりはしないか。次に、繰り返すが、そもそも、「中学卒業後」「5年一貫」の理念とは何だったのか。改革案では最短ルートで大学院に接続させようという。しかし、企業側は、中堅ないし中級あるいは下級技術職としての高専卒を重宝してきたのに、彼らがみんな大学院に行く仕組みを作ったら、逆に高専は意味を失うではないか。

4.一県一校化 ― 強制設立は地方自治に逆行する ―

  実は、高専の無い県が数県ある。そこで、既存の県立工業高等学校等を昇格させることで、地方公共団体設立で1県1校化しようというのである。電波高校等が電波高専に昇格した例もある。また、各県は職業訓練専門校等を、国の立法措置で設置してきたこともあったから、あながち不可能とは言えない。

 しかし、忘れてはならないことは、第一に、現在でも、地方公共団体による高専の設置は可能であり任意に進められてきたということである(東京都、大阪府、神戸市)。第二は、職業訓練専門校は、1年から2年の期間で行われる、まさに純粋に職業訓練という厚生福祉的な措置であるということである。厚生福祉的な措置であれば、国家による強制設立の立法に合理性がある。ところが、地方公共団体の高等教育機関を国が強制設立させるという、法技術次第では可能だとしても、前代未聞の措置が行われることになる可能性がある。というのは、自治体設立であれば、高専設立後に、高専を大学に昇格さたり(かつて札幌市立高専という学校が存在したが、現在は、札幌市立大学に昇格しているという例がある)、付属校化する自由もあるはずであるが(大阪府立大学付属高専の例)、これでは、国が高専地方公共団体に設立させた意味がなくなるので、自ずと枠をはめた強制設立となるからである。

 次に、やはり地方自治という観点も忘れてはならない。具体の名前を挙げて申し訳ないのだが、滋賀県には高専がない。一方、名門校である旧制彦根高商(現・滋賀大学経済学部)は、戦時下の一時期、彦根工業専門学校の時期があった。滋賀県は、その彦根工専の実質的な後えいとして、滋賀県立短期大学を育て、ついには滋賀県立大学工学部を実現させたのである。そこに、高専を作れと言われて、ハイハイと作れるものであろうか、むしろ、財政措置としても地方人の感情としても短大(つまり、高専と同様の修学年限の短い高等教育機関)から昇格した滋賀県立大学を育てたいのではなかろうか。滋賀県の財政規模から考えて、大阪府のように、滋賀県立大学の他に滋賀高専をつくれというのは酷というものである。短期大学工業科をやっとの思いで大学化した自治体に、今度は高専を作らせ永久維持せよというのか?それを拒否する自由は無いのであろうか?

  地方公共団体に設立させる場合でも、財政措置として政策誘導することは考えられる。通常はこれであるが、この場合でも上記の視点を忘れてはならない。

 特別立法による場合も考えられるが、これには、地域の特殊事情も考慮する必要があるだろう。地域の特殊事情といえば、最後に高専が作られたのは沖縄高専である。ここに国と県との間に他の都道府県とは異なる独自の内部的な協力関係があったのはもちろんであろうが、形式的には従来型の国立高専設置である。沖縄の場合、歴史や経済、地政学的要素も無視できず、一般化出来ない。その他、実際は近い時期に沖縄科学技術大学院大学も設立されており、学校設立の動向に二面性がある。もし、現在は沖縄高専が成功しているとしても、かつて旧設の高専と同様の問題に直面する可能性も十分ある。沖縄の場合、琉球大学の存在感が圧倒的であることとの関係も見逃せない。

 以上、特に技術的な側面から考察してきたが、これは、そもそも高専が必要か、という根本問題とも関係するので、これは別述しなければなるまい。

5.高専の拡大、あるいは、他分野への拡大―そもそもの誤解と高専のインフレ化―

(1)先ず、高専についての誤解を正しておかねばならない。実は、高専の見かけの就職先や就職率がいいのは、高専入学者の犠牲の上に成り立っているということである。

高専の就職先と率がいいのは、①比較的成績優秀層を独自の文句で誘い、②彼らに中堅以上の企業にわずかにある、中堅・中級・下級技術者枠―綺麗な言葉で言い直せば、生産技術や製品化技術部門、研究開発部門の補助者、現場の中級管理者、あるいは高卒現業職のリーダーたる下士官ということになろうか、高専は自らの役割をして「中堅技術者」「実践的技術者」「臨床的技術者」養成であるなど、言葉を時代によって使い分けてきた―を独占させてきたからである。③企業側としても、彼らを大卒未満の待遇で中堅・中級・下級職に配置都合よく配置できた(企業側が高専卒を「大卒より2年若くて使いやすい」(こうした文言は、中学生向けパンフレットや学校史に肯定的に引用されている)とする背景には、この人員配置の都合があるのは間違いない)。・・・それだけなら問題はないという者もあるかもしれないが、これが問題ありなのである。

高専関係者は、入学者を誘う文句として、①上述の「中堅技術者」「実践的技術者」「臨床的技術者」という中学生には綺麗に響く言葉とともに、②高専卒は大学工学部と同等などいう美辞麗句を並べてきたのである。ところが、日本の製造業は、とっくの昔から、研究開発又は技術職として大学院修士課程修了者や名門大学工学部出身者を大量採用しているのは周知のとおりである。あるいは、日本の製造業の特質として、大学理学部や学芸学部出身者も技術職として受け入れていることも大きい。その数は、高専卒の数の比ではない。しかも、実際は、企業は高専卒を大卒・院卒とは実質的には別枠で採用していると言われ、これも間違いない事実である。これらの、高専側の教育目標と企業の採用行動を考えれば、論理的には、高専卒には大卒・院卒とは別の役割を担わせようとしている、つまり②「大卒相当」のみがウソであるのは明らかなのである。③また、当の高専卒側もよりよい仕事内容と待遇を求めて大学工学部へ編入学するという行動パターンでこれを証明している。高専卒で社会に出た者は、大学工学部卒と思って入学し勉強して会社に入ったら、仕事内容が大卒と違った(花の、そして、実際は待遇もよい、研究開発職に配置されない、配置されても補助的業務)、しかも賃金が違う(転換試験を受けるなどして業務は同等となったのに給与のみ違う等)ということでその現実を知るのである。あたかも、この帰結は、学歴主義の根強い日本の企業では当然のことであったし(野村正實『日本的雇用慣行』89頁)、このような高専の存在は日本の企業(の学歴主義的な雇用慣行)にインパクトを与えなかった(野村正實氏のHP)。つまり、特殊な部門のための特殊な教育目標で、しかも、比較的優秀層を誘い、彼らを企業側の都合により形成された「独占市場」下に組み入れてきたという構造のものとでは、さらに高専の数を倍増したところで、増えすぎた彼らに職がいきわたると言うわけではない、という結果をもたらすだけなのである。高専増加論者は、増えすぎて低学力化した大卒にそれに応じた仕事が無いので、学生を非大学であり「実践的」教育を行う高専に誘えば、学歴インフレ問題や大卒就職難が解消できると考えているようである。逆なのである。高専の生徒のいくらかは、高校卒業後、本来なら相応の水準の大学工学部へ進学できる層を含んでいる。比較的優秀とされる彼らに、一般教養教育や理論教育を軽視・圧縮した教育を受けさせ、しかも、大卒相当と信じ込ませるが、実際は大卒未満として就職しているからこそ、企業側から見ると高専卒のコストパフォーマンスが高くなり好評価を得て就職率もいいというわけである。大学がインフレ化し価値が落ちたことの解決の為に、高専をインフレ化させ価値が落ちるのというのは、なんとも皮肉な話である。

(2)次に、農業や商業の分野で高専をつくることは、かなり効果が怪しい。農業や商業の分野には、中堅企業又は大企業におけるような中堅技術者的部門・基盤が存在しないか薄い。これらの分野では、一定割合の人間の頭脳に任せれば、あとは、直感的な能力や地道さや人員数の確保という要素が成果を決定するという面があるのも理由であろう。

 日本の農家に就学意識があるとすれば、先ずは、農業高校に進学して、次にチャンスと意欲があれば農業大学校等に進むと言う慣行が成立している。工業高専と異なり、就職「先」がいいというイニシアティブが先の基盤の無さと相まって働かない。しかも、農業分野の被雇用者数自体が少ない。農学や農芸技術は、国や地方公共団体のにおいて、一部の大学農学部出身者が研究者的な働きをしつつその成果を農家に還元している実態があり、国立大学中心でやや飽和状態にある。工業分野よりも、より特定された狭い範囲で、国立大学や伝統私立大学が根を張ってきたわけである。人材供給でみたら、帝国大学農学部、旧農業専門学校、農学校のラインは明治時代から磐石である。磐石の基盤と大幅な拡大的発展(既存の規模そのものが小さい)が望めない分野に新設学校が食い込めるのであろうか。もっとも、農学そのものが学際的で様々な取組があり、そこからの派生発展はありえ、評価は難しい部分もある。しかし、"手に職の工業”と異なり、中卒後5年一貫で「農業」を決意するのは、余程の勇気がいる。

 商業分野については、①そもそも、工業教育分野におけるのと異なり(機械加工技術等)商業教育に求められる固有の知識や理論がないため(野村正實『学歴社会と労働社会』95頁)、「中学卒業後」の初期初級から長期にわたっての教育内容を体系化するのに無理がある。②また、企業が一流大学の大学経済学部・商学部経営学部出身者を採用する場合に、工学部と比較して、低い期待でして専門性を見ていない。③商業分野で高度な頭脳が求められる場合でも、実は、上述の大学農学部と似ていて、ごく一部の一流大学経済学や商学部出身者、あるいはアメリカなどではビジネススクール出身者がまさにエリートして頭脳部門を担うという実態がある。地方の商業や地方の金融分野の中堅的業務は、短期大学出身者や下層の大学出身者が一般職や地域限定営業職として業務に就くが、銀行業務を含めて非常に単純又は技術性の薄い業務が中心となっている。以上の3つの観点から中堅的な高等教育機関たる商業高等「専門」学校としての「専門」性を特徴付けられず、需要を満たさない可能性がある。ただし、“大会社”に限定すれば、これまでは高卒者が担ってきたが、企業成長に伴って業務が複雑化・高度化したため、大卒者が進出してきた「修正された」「学歴開放的職業」領域が存在する(野村・前掲『日本的雇用慣行』50頁以下)。しかし、ここには、既に大卒者が進出し根を張っており、しかも、この大卒勢は、おそらくは、商学部などが中心の中堅伝統校にして一定水準を満たしている大学や私立の地域拠点校であるはずだから、商業高専との代替を許さないであろう。ただし、経営工学や経営情報学等の文理融合系では考えられるが、結局、工業高専と同じ問題を生み出すか、これらの分野で非大卒では地位を保てず、高専編入予備校化するだけのことである。高校が大学受験の予備校化していると揶揄する向きもある高専が、今度は自分が、少しばかり専門科目を先行していることだけを理由に編入予備校化するのも皮肉な話である。

(3)最後に、ここでも職業専門大学との関連性である。職業専門大学では高校卒業後にあらゆる分野の職業教育が想定されているという。そうすると、職業教育を望む者でも多くの割合の者は高校3年の進路選択期間を経てから職業専門大学に進んでも遅くはないと考えるであろう。中卒後3年という期間を区切られた、しかも初中級的な教育ならまだしも、あえて中学3年次で自分の適性についてリスクを犯してまで、特定分野の長期の中堅高等教育的な職業教育を選択する者がそんなに多くの割合で発生するであろうか。そもそも、中学卒業時に進路を決定してしまうこと自体が、極めて難しいことなのだ。

6.高専制度の輸出?

 高専制度をモンゴルやタイ等に移植することが行われているという。

 ここで指摘できることは、これらの国は、未だに先進国ではないことである。自前の科学技術や産業の基盤のないところに、海外版・高専卒業生の活躍の場があるのかという根本問題がある(すでに述べたとおり、我が国おいてすら、高専生が社会に出たのは、戦前にはすでに大学・旧制専門学校を整備したうえ、科学技術立国として飛躍しそこで大量の大学工学部卒が活躍した「後」のことである)。逆に、さらなる科学技術と産業の進展があると、高専制度の方こそマイナー化し、近時は、大量の院卒を前に影に埋もれているか、下級技術職化していっているのも日本なのである。

 次に、これらの国おいてさえ、高専制度がメインルート又は重要なルートになりうるかどうかである。これらの国にも当然に高等教育制度は確立されている。エリートコースも確立されているはずである。むしろ、エリートのためにこそ少数の大学が準備されているか、先進国に留学する場合もある。民族意識の問題もあるだろう。そうすると、高専制度は、補助的な教育制度、メインルートから離れた者のための教育制度、高専制度が一時的に一定の範囲で一部の者に有用になりうる場合でも(例えば進出企業において)、国が先進国に近づくにつれて高専制度がもつ問題点に遭遇するのではあるまいか。逆に、日本側からは鏡写しになる。高専制度が先進国ではなく開発途上国に受け入れられたということは、日本の高専に入学した成績優秀者は何だったのか・・・。これらは将来性のある国である。しかし、これらの国の既に確立されたエリートコースに乗った(ある意味では日本のエリート層より少数精鋭)指導者層は、先進国日本から、開発途上国ないしそこから脱皮しようという自分たちの国に輸入された、短期高等教育制度にどのような位置づけを与えるであろうか。逆に、高専側は自分たちの学校を、どのような位置づけで輸出するのであろうか。ところで、マレーシアは高専制度をそっくりそのまま受け入ようとしてきたわけではない。主に日本の高専への編入留学であるという(筆者の時代にもマレーシアから技術分野における何らかの高等教育ないし予備教育を受けたと思われる人が留学してきたから、それとなくわかる)。マレーシアは、日本に見習い工業化を進めるという政策を取ってきたから、日本の工業化の歴史を十分理解しているはずである。従って、(帝国大学的なものはアジア各国にあるとして)、我が国戦前・旧制工業専門学校と戦後・新制大学工学部の実績と実力までをも視野に入れているはずだし、そこへの留学生も多かった。本国の主要な工学高等教育制度と比較対象されているのはおそらく日本の大学群あるいは歴史的に欧米圏の大学群であろう。次の段階へ何ステップも進んできたマレーシアが、現在、高専制度に期待するものは何か、これと長年交流してきた高専側の意識とのギャップがないかは興味深い。

 高専制度の特殊性を、何でも、都合の良い結果に結びつけ宣伝材料に使う常套手段を、途上国にも及ぼうそうというのか?否、既にそうしたからこそ、途上国が飛びついただけのことではないのか?

 

 

 

*平成28年5月時点、文部科学省から発表された「高等専門学校の充実について」では、高専の大幅な増設・拡大は予定されていないようである。また、逆に、特筆すべき提案もない。