第9章-複線化への覚悟があるのか、複線化の意味がわかっているのかー

1.天野提案・職業高校昇格による公立高専増加とその問題点

(1)実は、天野郁夫『日本的大学像を求めて』(230頁)においては、地方公共団体が地方の職業高校の年限を2年延長した形で公立高専をもっと作ってはどうかという、提案が示されている。この1991年出版のこの論考は、高専関係者に対してなされた講演が元になっているというから、高専関係者には馴染みが深いものであるはずだし、先に問題にした与党案もこれに近いことを言っている。

 高専増設策そのものについて、前章までで、その理由付けや効果に大変問題が多いことを指摘した。

(2)ただ、天野自身はこの公立高専増設策に可能性を感じていたようであるから、再度、別の観点から、天野の提案に疑問を呈しておきたい。第一に、天野は「進学者の強い普通科志向からすれば、問題となるのは(地盤沈下した)職業科ということになりますが、・・・」と述べ、普通科の方に問題が無いかのような認識を示していることである。ところが、人気が落ち、天野が言うように「地盤沈下した」とは言っても、職業科の生徒はその分野の職業教育に入っており、今でも現業職や地場中堅職に限定された割合とはいえ一定の引き手があるのであって、職業科に問題が生じるとすれば、不況時などにおける進路確保の問題と望んだ場合の継続教育が問題のメインとなる。ところが、前章までで述べたように、中堅下位の普通科高校卒業生こそ職業教育が問題となるはずなのに、天野はそのことをあまり意識していない。進学者の強い普通科志向を肯定するというなら、その後の、つまり18歳時以降の彼らの職業教育こそ充実させるべきである。逆に中堅下位の普通科高校が多すぎるから、その代わりに高専を増やすべきというならまだ分かるが、その県で伝統がありいまだに限定されているとはいえ一定の機能を果たしている職業高校を改編して高専にするというのでは何の解決にもなっていない。唯一の効果は、その増えた高専の中で国立高専が中心的に存在になれるという、既存高専のはかない権威化だけである。第二も「普通科志向」に関連している。普通科志向は基本的にその卒業後の高等教育に結びつき、政策的には大学教育の増設に向かうはずである。近時の大学増設はこの「普通科志向」が原因となっているのである。ところが、大学進学率が上昇すればするほど、高専卒の地位が相対的に低下することになるが、これは天野自身が指摘してきた重大問題ではないか。第三に、製造業に限ってのことだが、伝統工業高校に現業職から一定の引手があるのは、少なくとも量産型工場における業務においては、工業高校程度の教育で「足りる」と企業側が判断しているからである。これに中途半端に「専門性」を与える高専昇格は、逆に企業にとっては無駄になる可能性があることも考慮すべきであろう(AIの発達などで大企業現業職が不要になる、又は、逆に現業職にも学問的専門性が必要になるかは、よく見極めなければなるまい。もっとも、仮に後者だとしたら、今度は労働需要が大卒シフトする・・・などの可能性もある)

2.複線型としての高専

 天野提案が出たついでに、日本社会の根本にかかわる問題を指摘しなければならない

 仮に、本当に仮の話であるが、高専増設・充実化が進めば、①普通科高校、②職業高校、③高専という形で、本格的な教育制度の複線化・分岐化をもたらすであろう。本来、このような複線化施策は、国民的議論による教育制度の「大」改革によるべきものであって、徐々に特殊な学校を作ってそこに生徒を徐々に〝放り込む゛ような安易なこととをしてはならないのであるが、仮の例として、話を続けたい。高専は複線型・分岐型モデルの先行型ではあったが、これまで、あまりにも就学人口に占める割合が低いため、高専1つあったからといって、複線型・分岐型モデルが確立していたとは言いがたかった。与党案のそもそもの意図は、アメリカのような6-3-3-4の単線型教育制度への疑問を出発点にしている。戦前の日本の教育制度が複線型で、高等小学校、旧制中学、高女、実業学校、旧制高校旧制専門学校旧制大学といった形で各種コースが分かれていたし(ただし、中等教育以降に進むものが非常に少ないので現代の制度とは比較しにくい)、だいぶ様相が変わってきたといえ、ヨーロッパではドイツが代表的だが複線型・分岐型である。これは筆者が言うまでも無いだろう。しかし、日本では、高等教育以降は大学、短大、あるいは新設の職業専門大学、専門学校といった形である程度多様化しているので、ここで問題にすべきは、高専増設の規模次第では、15歳という早期、そして青少年が多感な時期に、いよいよ戦前日本又はドイツ並みに複線化・分岐化が始まるということなのである(本当に、仮の話ではある)。

 一般論としては、日本には多様化の基礎自体はあると筆者は考えている。

 ドイツでは、子供たちの就学コースは、成績評価や彼らの職業意識によって、①昔なら中学生になる前という早期に、②3つの独立区分化されたコースに枝分かれしていく。これにはドイツ国民の伝統意識が強く働いていて、職人は職人の道に誇りをもつ、一方、ギムナジウムに行く者もあるが、彼らは、相互の進路にあまり関心がないという、二分化された意識である(西尾幹二『日本の教育ドイツの教育』104頁以下)。もちろん、今日では、この意識やこれを前提とした仕組みはかなり変わってきているらしいし、制度的には、複線型・分岐型への反省や複線コース相互の交流も保証されているようであるが、ドイツ・ヨーロッパに少なくとも強く根付いていた意識であったのは間違いない。では日本はどうなのか。確かに、日本でも、ドイツと同様の意識を持った者も結構多い。そもそも、高専改革案を作った与党関係者がそのような二分論を理想としている。地方では、大学など行くより、手に職をつけて、という者が多いように思う。これは韓国などと比べれればわかることで、韓国のように全国民が一斉に一流大学を目指したり、人気のある職業に殺到するという事態までは生じていない。しかし、混在しているというか、同じぐらいの比率で、自分の能力に係らず、先ずは普通科高校(天野の言う「進学者の強い普通科志向からすれば、問題となるのは職業科ということになりますが、・・・」の、その普通科志向)、とりあえず大学(大学進学率は50%を越え、その大学とやらは、東大から定員割れの無名校まで、同一資格)という事態も進んでいるのである。しかし、半々という、そういう意味では、多様化の基礎はまだ残っていると言うことになるかもしれないが、徹底されていない。

 しかし、ここからが、日本らしいところだと思うのは、現在の制度では、15歳以降で、進学高校と職業高校の違いがあるが、これがドイツのように、コース別に“目に見える形で”区分化されていないことである。目的のみが異なるという建前なのである。進学高校と職業高校で使う数学や英語の教科書が実際は異なるが(一般に進学高校のほうがページ数も内容も厚い)、それは目的が違うと言う建前で成り立っているから、これは進学校用、これは職業高校用というふうに教科書に表示されているわけではない。つまり、両者はあくまで6-3-3の単線コース上にあり、目的こそ違えど、単線に乗っていることで精神の安定さえも保っている。ところが、高専は違う。高校コースとは異なる枠外にある。普通科と職業科を微妙に分ける単線型コースの枠外にある。第一に、それは5年制であり姿かたちが全く異なる。第二に、高専のみが理念として高等教育までの完成性・完結性がある。創立初期の高専に進学してきた生徒が、進学校から大学進学を選びうるにもかかわらず、あえて高専を選んだが、そこでぶち当たった袋小路や企業迎合教育という現実に闘争を起こしたことは既に述べた(第一章参照)。なるほど、普通科大学進学コース・普通科就職コース・職業科就職コースがあるらしいのは、当時の高専生も意識していた。ところが、高専のみ区分化されている。そして、その区分化はドイツの区分化された仕組みより残酷に作用した。というのは、さすがのドイツも、各コースに生徒を振り分けるのには、成績評価を使う。仮に、成績評価に関係なく、職人の子は職人という道徳に従う場合でも、かれらは伝統意識として他人の進路に関心が無い。ところが、当の高専生は、進学校から大学進学を選びうる水準だったし、既に述べたように、他人のコースに関心が全く無いというほどには、多様化は徹底したものではなかった。野村氏流に言えば、成績のいい子は当然に進学校から大学へ進学すべきであるという学歴主義が成立していない時期に、その資格自体はあるにもかかわらず高専を選び、それを何と思わなかったが、学歴主義が先んじて完成していた大企業の現実に接してしまった、ということになろうか(野村正實『学歴主義と労働社会』101頁参照)。

 日本社会には多様性の基礎はあるにはあるが、徹底していない。そこで“目に見える”区分化されたコースを作るという意味での多様化までは馴染まないところだが、高専とはそういう性質をもっていた。そして、あたらしい区分としての、独自の仕組みとしての高専が確立されればされるほど、そして数が増えれば増えるほど、今度は、職業教育という目的だけは高専に近い職業高校は、普通科高校との微妙な関係から引き離され、かくして、①普通高校、②高専、③職業高校の3区分化・複線化されていくのではあるまいか。高専が増えていくということは、このようなことを意味している。しかも、それは、15歳という、まだ、自分の能力や進路決定に自身が持てない時期に始まる。

3.複線化への覚悟があるのかー“目に見える”区分化

 教育制度の複線化・分岐化においては、日本の国民が人間の意識の問題として、以上のような早期の区分化・分岐化に耐えられるのかということを問われなければならない西尾幹二が『教育と自由』において「日本の現代社会には多様性がない。従って学校制度だけ多様化しても、社会にはそれを支える根がない。そのため制度面での『多様化』の試みは、結果的には、おおむね『多層化』に終わる。社会のこの体質にあくまで制度で抵抗すれば、関係の子供たちを徒らに苦しめることになるだけである」と述べたことは既に触れた。筆者は、この西尾の分析を次のように解釈している。つまり、こういうことである。日本では、少なくとも進むべき道・生き方に多様性を認める考えが残っているのではないかと述べた。この点は西尾の理解と異なる。しかし、西尾の言うとおり、多様性の果ての多層性を受け入れて平然と生き抜き、これが自分の歩み道、他人は他人と割り切れるまでには至らない。代わりに、単線化された一見平等の中での、序列化又は整序化は受け入れ、この中に安定する。西尾・前掲『日本の教育ドイツの教育』『教育と自由』はそういう文脈で読むことが出来る。

 15歳少年あるいはその父母も、さすがに、自分らが他のみんなと同じルートを歩めるとは思っていない。しかし、一見明白に異なった別ルートを歩み、歩ませ、自分は自分、他人は他人、自分の子は自分の子、他人の子は他人の子と割り切れるまでには至らない。単線型ルートの中に、微妙に進学高校とそれより劣る普通科高校や職業高校を配置していったのは、あるいは、同じ「大学」の名の中に、大学と職業専門大学や短期大学を配置する考えが示されたのは、やはり、理由があることだったのだ。

 複線化せよ、相互乗り入れができればいいのだから、という者もあるかも知れない。なるほどそうだろう。しかし、今度は、今問題にしている高専をみるがいい。区分化されたコースに納得して入ったつもりの彼らこそが、相互乗り入れの権利を得た後でさっそく自分たちが入る大学を作らせ、ついには、大学入学競争をしているではないか。これは、彼らのエゴというよりも制度に内在する問題である。複線化の意味がなくなるなら最初からやらなければいいことであるし、複線化されたコース間を動くというのは、精神の自由として複線化を受け入れるのと同様の気力を要するのであるから、先ずは、複線化の設定問題は重要なのである。むしろ、微妙な位置づけで厳格には区分化されていない職業高校の方が精神の安寧を保って職業生活ないしそのための延長教育に素直に入っていっているというのも逆説的である。この辺が、ドイツと違うところである。ここまで考えたときに、つまり、たとえ複線化・分岐化の努力をしようとも、今度は複線化・分岐化された各コースから高次の高等教育(大学)への要求が生まれてくるという現象を見たときに、なるほどマーチン・トロウの有名な高等教育(大学)三段階発展説―エリートからマスへ、ついには、ユニバーサル化―は正しいと思えてくるのである。

 なお、アメリカでは、コミュニティカレッジは職業教育重視、州立大学は比較的実践的教育重視、リベルラルアーツカレッジは教養重視で専門教育を後倒しし、いわゆる名門総合研究型大学はその名のとおりの働きを中心とするが、少年期からの分岐化つまり複線化をしているわけではない。あたかも、日本の旧帝大、地方国立大学、私立総合大学、国公私立単科大学、短期大学の差のイメージに近いのではあるまいか。ただし、リベラルアーツカレッジの存在は、多様化でも階層的でもなく、“階級的”という可能性はあるが、そこまで論じるのはここでの目的ではない。

4.15歳からの複線化の意味

 日本には、大学・職業専門大学・短期大学もあるが専修学校がある、アメリカでも総合大学やリベラルアーツカレッジのほかに、コミュニティカレッジがあるから、どのみち、事実上の複線化ではないかと言うかも知れない。

 高等教育からの多様化を、教育制度論上、「複線化」と位置づけてよいかは筆者もよく理解出来ない部分があるが、複線化とは、時期的・時系列的価値を含む概念である。例えば、藤田英典『教育改革』100頁では、「教育機会という点で重要なことは、どの時点からカリキュラムを異にする学校タイプに分かれているか、どの時点で重要な選抜・振り分けが行われているか」であるという。かつてのドイツの進路選択の例で、日本人が驚くのは、複線化そのものに加えて「10歳」という、その時期なのであった。また、人生が「20歳」から分岐化すると言われても、なるほどそうだと思うしかないだろう。

 繰り返すが、我々の生き方に様々な可能性をあるとして15歳で自分の道を決められるであろうか。人間の知的能力や精神の発達はこの15歳から18歳の間に最も伸びるのである。多少抽象的な内容の本に手を出して読み出すのもこの時期である。この時期は潜在能力を伸ばす為の教育を受けるのが最適である。例えば、一定の可能性のある青少年がこの時期に一般的な学力を高めておけば、その後にしかるべき機会があるときに、どのような道にも参加のチャンスがある。逆に15歳で絵を書くことしか学んでいなかったどうであろうか。自分やその親も一定以上の期待可能性があるなら、この時期はそうしたいと願うのは当然のことだ。ところが、複線化というのは、「あえてこの時期に」、成績や社会意識によって区分化する方が、「わずかの可能性しかないならば」「他の世界に未練を残すより」幸せであるという、考え方の具体化である。この「あえてこの時期」にという早いか遅いかの視点と、先に述べた「目に見える」かどうかという点が、区分化の最重要要素なのであると考える。

 人間の進路選択における、機会の平等性、青少年の心理面、選択の効率性、進路変更の機会確保などの点で、複線型と単線型は対抗関係にあること(藤田・前掲書119頁以下。ちなみに、ヨーロッパ(ドイツ)・モデルとアメリカ・モデルの相克は明治時代の早い段階からあったのである(天野郁夫『高等教育の時代(下)』340頁))、一般に複線型より単線型の方が青少年の発達と機会均等に柔軟な対応が出来るのではないかということは、よくよく頭に入れて置いた方がよい。ところが、この意味を軽く考え、人間は15歳くらいから自我に目覚め多様な考えをもつにいたるから、制度も15歳くらいから多様化すれば良い、程度の認識では困るのだ。

 そうすると、例えば、日本の18歳入学の専修学校生が、階層性に巻き込まれているかといえば、巻き込まれているに違いないのだが、しかし、その深刻度は、15歳時よりは圧倒的に小さい。筆者は、大人になろうとする自分の“能力への得心と納得”は15歳と18歳で異なるとしたのであった。先の藤田・前掲書「どの時点から」というのは、このことだろうと考えている。

   教育制度の複線化というのは、階層化・階層性の問題を常に根底において考えなければならない。日本では、知識人さえこれを見落としていることがあって、多様な価値観、多様な制度、すばらしい職業教育、「ドイツでは・・・」などといって、教育制度を複線化してしまえば(表立っては出来ないからなし崩し的に)、いろんな教育問題が解決できると考えているのである。第7章でも示唆したが、中学生段階でのまさに複線化は日本にはそぐわない。高校生段階では多様化・総合化し適性を見極めさせ、これに基づき18歳以降の教育を上に延ばし、職業教育と大学教育に枝分かれさせる・・・のが単線型教育制度としてうまく機能するように思えるる。日本では、この単線型の機能に能天気に変な枝接ぎをしていて、16歳からの早期の職業教育、逆に18歳以降の大学教育が膨張しすぎているという問題が生じているわけである。もちろん、このような単線型モデルに対しては逆に、同質的に過ぎる、選択と多様性がない、などと批判される場合もあるが、筆者は申し述べておきたい。「同質性の中にこそ、それを脱皮しようとする選択と多様性が生まれる」。

 なお、付言しておくと、発達段階との関係で複線化の時期が決まるという事情のほかに、今日の産業の高度化・自動化によって、15歳からの熟練を要する業務は極めて少なくなっているなどの、産業構造の変化との関係も視野に入れるべきである。あたかも、ドイツの複線型コースは有名なマイスター制度と連動しているが、このマイスター制度がドイツの産業構造の変化に縛りを掛けてきたという指摘は有名である。技能的熟練に限らず、科学技術分野についても、その急速な進歩によって、科学技術教育が長期化・後ろ倒しになっていることを考えなければならない。

5.多様な生き方への尖兵役?

 西尾・前掲書195頁は、「高校教育に耐えられない能力の生徒が、目に見えない圧力から高校に進学せざる得ない状況にこそ、じつは日本社会に関係の深い深刻な悩みがある」とした。本来なら、勉強以外の価値で自分を発見し、これへの自信で、自分は自分の価値観で社会に巣立ち生活を成り立たせてもよい人たちが、「勉強」という価値で進学競争に参加させられていることこそ不幸なのであると。重要な指摘である。それどころか、現代の日本では、高校までが義務教育化し、今度は「大学」レベルでこの指摘が当てはまる状況がある。

 日本では偏差値による均一化された進路設定が昔から問題とされてきた。もっとも、東大にいけなければ、他の旧帝大や名門私学がある。それもダメなら実力のある地方国立大学という選択肢がある。偏差値による輪切りは、例えば、東大最下位層とそれにギリギリ及ばなかった層とを輪切りにしているが、高学力層の中にも各層があるという程度のことに過ぎない。しかし、偏差値輪切りにされた最下位層には残酷に作用する。偏差値教育の最大の弊害は、学力基準による区分けを最上位層にまで及ぼしたことよりも、最下位層にまで及ぼしたことの方に大きく作用した。昭和50年代の校内暴力や非行等の教育荒廃の原因が仮に偏差値教育によるものだとしたら、その問題を引き起こしたのは、まさに学力最下位層だったのである。当時のマスコミによる偏差値教育批判は、上澄みの受験教育や東大批判を行っているケースが多く問題を混同している(昭和58年発刊のNHK取材班『日本の条件 教育②』等を参照されたい)

 例えば中学校を卒業して料理人になることも大変立派な道である。筆者もそう思うし、日本には、まだこのような腕一本で立とうとする人間を尊敬する風潮がまだまだ残っている。非常にすばらしいことである。おそらくは、ドイツの複線型・分岐型コースも、成績評価で厳然とコースを分けるが、この成績評価によるコース分け後は、むしろ、「勉強」以外の基準で自分の仕事を見つけ生きていくことに価値を見出しているのであろう。そして、「勉強」以外のコースもマイスター制度で資格化され職業的威信は保たれている。

 複線化論を言うならば、先ずもって、「勉強」以外の価値で生きていこうとする人たちへ、制度面で道を確立させる、あるいは、社会意識の面で彼らを評価してみせるところから始めるべきなのに、この人たちが全く念頭に入っていない。むしろ、勉強が出来ず可愛そうなので、大学をたくさん作ってこれに入れてあげようとするという始末である。ドイツにおける複線化は、そもそも大衆が無学を恐れていないからこそ、また、無学であっても他の面で人間を評価できる仕組みが出来上がっているからこそ成り立つ制度なのである(西尾・前掲書126頁。日本の知識人層はドイツの複線化コースやマイスター制度が好きであるが、このドイツ人の意識を見落としている。また、既に指摘したように、自動車やエレクトロクス分野の「産業型」マイスター制度が、科学技術の進歩に対応できず、むしろ硬直的・独善的・排他的に働いていることを理解していない。)。何故、いきなり、「高専」(高専は一応、知識労働者を育成しようとしている)なのであろうか。大学コースのほかに職業教育のために高専コースがあってもよいとしたいらしいが、それ自体は、なるほど複線化の一端ではあるが、生き方の多様化そのものをもたらすものではない。具体的には、(ⅰ)本章2③の職業高校ないし職業学校と(ⅱ)この道からもはずれようかという人たちの道をどう確立するかがポイントになるように思うのである。筆者は高専との比較において職業専門大学を評価して見せたが、その職業専門大学に対しても同様の疑問をぶつけることが出来る。もちろん、日本でも菓子職人などの技能的な職業が徒弟的な修行を経て身につけられるが、これがドイツのマイスター制度などように制度化・社会化されていない、あるいは、そこまで国家や団体が関与すべきではない、というある意味では良いことともいえる要素があることも考慮に入れるべきであろう。しかし、先に狭義の複線化への覚悟を問うたほかに、そもそも複線化とはどういうことなのか、どこから始めるべきなのか、ということが全く考えられていないことこそ問題なのである。

 高専生は複線化の尖兵となった。しかし、彼らさえもが、小さな世界においてではあるが人知れず犠牲となった。「多様」な生き方という価値観や「勉強」以外の価値で生きていこうとする人達に何の影響も与えず、単に、小さな世界の少ない尖兵は現実世界の壁にぶちあたっていった。初期高専生の一部は言うかもしれない。おれ達は企業の中でちゃんとした地位についていると・・・。しかし、自分たちの受けた教育が大学工学部より厚いと言えたか、2年の短縮が大きな差になっているのではないか、広いキャンパスの中で色んな背景をもった青年と語らってみたかったのではないか・・・。

6.大学「大衆化/反対」「市場化/賛成」

 前項で、高専を多様性の尖兵としているのではないかと問うた。与党案が暗に批判しているのは実は「大学大衆化」つまり進路の均質化である。日本にはあまりにも大学が多すぎて教育制度を歪めているというのである。大学を乱立させたのは当の与党であったが、いわゆる下位層の大学卒業生の学力や就職が良くない。そこで、専門学校や高専などの非大学高等教育を評価して、大学進学に歯止めに掛けようとする思惑があるように思える。矢野眞和『大学の条件』はその序章において、大学「大衆化/反対」「市場化/賛成」のベクトルがあることを指摘した(本書では、データを駆使して人々の大学教育へのアプローチを検討してある。結論的には大学大衆化には好意的な分析をしている)。「大学」「大衆化」の中で中途半端な規模の非大学群がどのような地位となってしまうかについては、改めて言うまでもないだろう。

7.高専入学者の批判的類型論

 高専の増加は、人の生き方について多様性を認める基盤が徹底していない日本社会に、これと不相応な本格的な教育制度の複線化・分岐化をもたらす。仮に、増加させなくても、初期においては、人知れず多層化に巻き込まれる結果をもたらした。現在でも、少なからず多層化に巻き込まれる者がいるが、逆に、当の高専が複線化の意味を失わせる行動をし始めている。「15歳」からの複線化の重大性についても述べた。さらに、高専をして「大学大衆化」への、はかないカウンターパートの地位を占めさせようという動きがあるのではないかということも指摘したが、こうした動きには、人間の人生の行く末にあまりに顧慮を払っていない。

 以上を前提に、高専教育を受けた者を批判的に類型化してみたい。

 A:高専を退学した者

 退学率はおよそ1割以上、2割近くとみて間違いない(文部科学省のインターネットによる情報開示等を総合した)。入学者の1割以上退学は異常である。あるいは、留年など最終的に不適応を示した者もこれに含めてよい。「高専」を選んで後悔した理由は何だったのであろうか。初期高専生が示した複線化・分岐型コースに内在する問題、あるいは現代でも自分たち「のみ」がこの特殊な制度に置かれていること自体への違和感(特に初期高専生に対しては、この複線化・分岐型コース設定が袋小路問題として具体化した)への不満でなかったと言い切れるだろうか?

 B:高専を卒業してすぐに社会に出た者

 高専は、昔はより露骨な表現で(「大卒相当」)、現在でもかなり誤解を生む表現(「大卒相当」に「なりうる」)で入学者を誘っている。ところが、既に見たように、高専卒は特に大企業では下級技術者や技能労働者として扱われつつある。それどころか、大衆化して増えた大卒は中小企業の末端にまで及んでいる。言うまでもない、「大卒相当」を信じた彼らは騙されたのである。

 仮に大卒並みになれたとする。ところが、高専出身者は大卒が受けている一般教養教育は省略されている。彼らはバカにされたのである。仮に大企業に限らず中小企業において実力があって地位が上がっても、自分の部下が自分より高学歴者なのである。これは単なる学歴問題を言いたいのではない。学力・能力があればこそ、期間の長い、本流の教育をうけるべきなのではないか。

 彼らが、多層化を受け入れて、平然と生き抜きわが道を行く人間たちであったかは、入り口で「騙し」が入っているので、何とも言いがたい。しかし、次に見る進学者の増加を考えれば、「わが道」を行っているとは言いがたいのであるまいか。是非、「高専卒」にもう一度、高専卒の学歴に満足しているかアンケートをしてもらいたいものである。

 但し、このBの中には、そもそも下級技術者や技能労働者になる程度の学力水準である者(入学者の学力低下は既に指摘した)も含まれているから、就職者の何割かは、高専が「分相応」と言えるであろう。企業側からも、この階層は高卒と処遇すれば痛くも痒くもない。複線化・分岐化は典型的に効果を出しており、徴表的である。

 C:大学工学部に編入学した者又は専攻科に入学した者

 大学に編入学したとはいっても、これも既に見たように、彼らの英語力や数学力の水準は低い。しかも、青年期に人文社会的教養を軽視した教育を受けた。そもそも、高校から大学に入っても同じだから、何の意味があったのであろうか。実践的な教育を早期から受けているので、一般的な大卒より、実践力があるというかも知れない。しかし、工学そのものが応用的学問にして実学であるという前提があり、また、工業技術の急速な進歩によって工学教育が大学院まで後ろ倒しになっており、さらには、結局企業に入れば実務で鍛えられる。そうすると、高専からの編入学者と一般入試入学者の間の実践力の差は相対的になっている。むしろ、英語力や数学力の差が絶対的に開いている。

 さらに、このCの中には、大学編入学試験が比較的易しいのを利用して晴れて大学生になった者もいるだろうが、これが高専教育の成果かと問われたときに、何と答えるべきだろうか。

 百歩譲って、1割進学なら、複線化・分岐型を基本としつつ、そこから優秀層を救い出し、その弊害を緩和したと言えるが、現在の大学および専攻科への進学率4割では、複線化・分岐化した意味を失わせていると言ってよい。

8.歪なCooling down、Cooling out、そして、単線型教育制度

 ところで、藤田・前掲書は、書名のとおり「改革」に際して、考慮すべき対抗概念をところどころで示してくれている点で非常に有益である。同書113頁は、複線型・分岐型の国々では、「中等教育の比較的早い段階から生徒たちの進学希望を冷却し(cool down)、競争から撤退させる(cool out)させるメカニズムを組み込んでいる」としている。この重要な指摘は多くの教育制度論者や教育社会学者の共通理解になっているだろう。それ自体は、ドイツにおいては、自分は自分・他人は他人の社会を前提としているため望ましい場合もある。逆にイギリス等では、もろに“階級性”の方便のようにも見える。

 高専は建前として卒業後就職することになっているので、6割の生徒にとっては、cool downとcool outが生じている。次に、建前をはずして、高専の実態を見たときに、4割(とは言っても、専攻科進学も含めた割合であり大学進学は全体の3割に満たないであろう)の高専生にとって進学希望はheat upしている。高専は高等教育だから入った時点でcool downやcool out も何もないというかもしれないが、それより上級年齢が行くべき学校、大学院等の最上位の教育機関へのアクセスが問題となっている以上、そのような理屈は通らない。大学大衆化への歯止めとして高専を利用するとすれば、この高専を増設することによって、cool outとcool downを発生させたいところだが、これを成し遂げるには、先の①「自分は自分、他人は他人」「多様性」の倫理の他に、②制度的には、普通科高校を絞り、かつ、大学を減らし、普通科高校を30パーセント以下、残りを高専ないし職業高校にして、4年制大学進学率を20パーセントとし、③これらを厳格かつ慎重な成績評価に基づいて区分化する、とでもしなければ出来ない相談なのだ。そこまでやるのであれば、大変遺憾ながら高専増設あるいは複線化も認めようではないか。ところが、このメカニズムを理解せず、中途半端に高専を存続・増加させても、数多くの普通科高校と大学がそのまま残り、しかも成績・学力による区分化がうまくいかず曖昧なままだと、cool downとcool out、そしてheat up高専にイビツな形で現れるに過ぎないのである。つまり、高専には、高専の「宣伝」によって本来ならしかるべき大学に進んでもよいにも関わらずcool down・cool out させられている層が大勢いる。少なくとも大勢いた。逆に、近時は学力水準が低い層も大勢含み始めているにも関わらず、大学教育へのアクセスがheat upしている。例の宣伝文句である「大卒よりも高専卒の方が優秀」などは論理が逆である。優秀であれば大学正規の一般教育と専門教育を受けるべきなのである。大学よりも優秀?を自称しておきながら、その後は大学で学問研究しましょう、という矛盾。 これでは、複線化の一類型としての高専に何を期待しようとしているのか、生徒がどのような境遇となるのか、教育制度論として、さっぱり不明ではないか。逆に企業側からすれば明確である。6割強あるは専攻科を含めた7割以上の「cool downした、そこそこには優秀層」を大卒未満で下級技術職・技能職に配置できる。学力の低い層については、ちょっとは専門のことを知っている高卒として処遇してしまえばよいし実際そのような者も多い。大学進学者のうち最優秀層は、高専優秀説の広告塔になってもらい、逆に、多くの生徒をcool down・cool out に誘って頂く、あるいは、制度のガス抜きか? 高専が近時は進学機能も充実しているといっても、高専の大学進学率は同じ学力水準の生徒の大学進学率に比べれれば遥かに低いことは依然として変わっていないのである(偏差値65以上の高校は9割以上が大学に進学、全高校生でも5割強が大学進学するのに比べて、高専大学進学率は25%程度で、40パーセントという進学率は専攻科進学が15%いるのを含んだ数字である。また、「進学」については第三章10(一部進学校化した高専の数字が影響し、高専全体の進学率や難関校輩出率をやや高く見せているが、進学率は専攻科を含めて30%程度・大学へは20%以下という高専も数多い)も参照されたい)。7割のcool downされた(大学進学から撤退させられた)層を無視して「進学希望者」の内では・・・等とやりはじめたり、国立大学や有名大学進学リストを掲げ、これをアピールするのも高専なのである。一部の「進学高専」を除き、そのような大学の合格者数頭数は、高専の近くにあり競合する地域の進学校の方がはるかに充実しているはずなのにである。

 また、悲しいかな、高専入学者の学習意欲までがcool downする現象がある。それが16歳から18歳ぐらいにかけて襲い掛かるのは極めて深刻である。もっとも知的能力が伸びようというときに、その後の勉学の礎を築かねばならないときに発現し、しかも気づいたときには19歳20歳で、後期中等教育の教育内容は理科系を含めて身につかず専門科目を付け焼刃してでそのまま都合よく社会に組み込まれる。筆者の観察では、高専では一度落ちた学習意欲はなかなか上昇しない。周りの環境は全く変わらず、しかも、そこそこやってそのまま就職できるからである。この点は、大学とは異なる。大学教養課程で遊びなれた大学生でも、一応は大学受験あたりで基礎科目に習熟しているので、その後2年半の専門課程や修士課程に入るにつれて徐々に復活していくのとは全く異なる反対の風景なのである。もちろん大学にも堕落する者は大勢いる。しかし、その割合と深刻度は(同じ学力水準で比べた場合に)高専の方が圧倒的に大きい。一部の高専適合者を除き(一部が、何とか専門分野への勉学意欲を保ち続けて、ごく一部のみが高専モデルにすっぽりはまる)、学習意欲や専門分野への関心の低下については、実は、高専内部からいくつかペーパーが出ており、高専教員も肌で感じ取っているはずである。「全体」としてしつつ「一部」というのは、理屈にならないと思われるかもしれないが、現にそうなのだから仕方がないことである。

 最後に、近時は少なくなりつつあるが、優秀なわが子の進学意欲をcool downさせようという経済的に恵まれない家庭の親も一定割合でいることも指摘しておかねばなるまい。ここでもやはり、野村・前掲書を参照できる。野村氏は、同書・106頁以下「初期高専生と通俗道徳」の節で、「しかし、経済的に余裕のない社会層においては、通俗道徳は高い学歴を求める欲求を抑える役割を果たすであろう。初期高専生の多くは経済的に余裕のない家庭出身であった。彼らは親から通俗道徳を教え込まれたり、あるいは通俗道徳を実践している親を間近に見ていた。彼らが中学から進学先を決定するときに、できるだけ早く自分の生活は自分で成り立たさなければならないという通俗道徳的な判断が働いたことは間違いない」。この指摘は今日でもいくらかの高専生に当てはまっているだろう。何を隠そう、筆者がそうだった。また、筆者のクラスメイトの少なくとも約半数はそうだった。もちろん、制度的なcooling downやcooling outが、社会意識的な意味をもつ「通俗道徳」とどのように関連付けられているかについて考察する力量などは筆者にはない。しかし、高専関係者が高専制度の美点をひたすらに強調して「大学受験に影響されず、高専生は早くから技術教育を受け、いち早く社会に巣立っていく」などという言説は通俗道徳的ですらあるように思えてくるのである。「通俗」とは必ずしも悪い意味ではない。しかし、このような「道徳」が、逆に、「非道徳的な」帰結をもたらしているのではあるまいか。学力による区分化を奇形化すると、大学受験における過当競争問題よりも深刻なえぐり方で問題が顕在化するのが高専制度であると言えまいか。

 ここまで言えば、お気づきになるだろう高専側が盛んに強調し逆に筆者が批判してきた「早期」「長期」「専門」「一貫」「就職」「実践」の性質がことごとくCooling downとCooling outに向けられていることをである。

「早期」に専門を決めるため進路の多様性を見えなくする。

「長期」5年にわたるため中だるみがおこり勉学意欲が落ちる。

「専門」科目に圧迫され後期中等教育・一般教育が軽視され視野が狭くなる。

「一貫」性が一般大学受験制度からの隔離と閉鎖性をもたらし進路選択機会を奪う。

「就職」が中下級職としては良いため進学する必要性を感じなくなる。

「実践」の曲解がすぐに役に立つことにしか目を向けなくする(大学・学問は無用)。

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 やはり、複線化には確たる社会基盤―日本人は本当に自分は自分、他人は他人と割り切れるか?―と覚悟が必要なのである。また、確かに日本はドイツのような社会基盤もなければイギリスのような階級社会でもないが、しかし、経済力だけでない親の意識や職業等の「階層」と教育達成の問題も見逃せない(この点については十分述べられなかったが、苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』等を参照したい)。日本は、大学進学率50%に踏み入った。その半分を今更ながら職業専門大学にするにしても、否、そうであるからこそ、高校卒業後に本格的な学問や職業教育を受けるという単線型教育制度を継続する姿勢が確認されてしまったのである。もはや、大学進学率を増加させておいて、わずかにある高専を礼賛するという、二枚舌政策を許すべきではない。問うべきとすれば、高専が作られた1960年後半頃の大学増設、1990年後半からの大学増設の時期に問うべきだったのだ。我が国が、基本的に単線型教育制度を取ってきたことを忘れて、そこに、高専一つ複線化したため、高専は常に矛盾の中におかれた。そして、これを覆い隠すための欺瞞を繰り返してきたといえば、言い過ぎか。歴史上、二枚舌外交が(筆者はその国自体は尊敬しているが)、百年の悲劇を生んだ事例は皆の知るところである。