追記①-専門職大学法案成立に思う、外国記事に思うー

 専門職大学法案が成立した。これに関連して、思うところを述べていきたい。ついでに、ある外国新聞記事にも言及しておきたい。

1.高専との整合性はついに論じられなかった

 筆者は、高専専門職大学制度に合流すればいいのではないかと述べた。その中で名を取り実も取るー皮肉にも内容が空っぽの新制度なのであるから、大いなる反省と蓄積ノウハウを活かして実質化出来るーというふうにすればよいと考えた。しかし、これには重要な前提が一つある。高専が非大学型高等教育として、どのような矛盾を帯び、しかしその中で良くも悪くもどのような役割を担ってきたか、を徹底して総括(あまり好きな言葉ではないが、こうとしか言いようがない)した上で、新しい制度につなげるべきである。たとえ、新しい大学制度のみをつくるにしても、高専制度との整合性は議論されるべきであったが、「高専は中学卒業後5年」の教育課程に特徴があるから、大量の高卒者の入学は予定できないとだけ述べられただけだった(もう一つの重要条件は、既存の大学の半分を一般大学制度から引き離し、専門職大学へ転換させることである。専門職大学制度が作られてしまう以上そうすべきである)。

 高専制度への反省や高専制度との整合性は何ら議論されないまま、この度、新しい大学制度“のみ”が出来上がった。そして、そのこと自体も大きな矛盾を引き起こす。専門職大学制度は、「職業」「実践的」という高専の法律上の目的規定と事実上の教育目標と同様の学校制度である。ところが、専門職大学も一応大学であるから、高専制度にはない言葉である「研究」「応用的な能力」が入っている。

(1)この専門職大学には、一部大学からの移行も考えられるが、専修学校からの転換が考えられる。専修学校が要件を満たして突如として「研究」「応用」のある「大学」になるのである。しかも、学位授与権もあるという。高専制度を徹底批判し、ある意味では無くしてしまえとさえ思っている筆者であるが、これでは余りに高専に酷である(但し、高専制度を慮って言ってるのではないことは念を押しておく)。高専はこれまで、矛盾を帯びながらも、一般科目を大幅に削るなどしながらも自分たちを大学工学部相当の教育を行うと称し、二極化・二山化の傾向があるとはいえ比較的成績がよい者も多く中には抜群の頭脳を持つ者もいる。教員についても、当初は名門大学や実力を蓄えた旧制工専出の企業出身者-かつては、彼らを中心に高専でも専門学科の教員の4割以上に実務経験があったはずであるーや大学教育経験者を採用し(但し、その後の教員集団の劣化現象について前章を参照)、専攻科設置が決まってからは、学位取得者を採用しなければならなくなった。目的規定に「研究」「応用」がない高専に事実上研究義務を課し、かつ、応用的な能力を持った教員や技術職を輩出しながら制度的にはそのまま、一方、専修学校が格上の学校になるのである。おそらく、既存の大学は専門職大学への転換を渋るだろうから、その過程で専修学校からの昇格が甘くなり、専修学校上がりの専門職大学は増えるだろう。大学工学部の大量増設、短期大学への学位授与権付与、大学増設と大学進学率の増大、と次々と高専の存在へ対抗する事象が生じてきたが、またしても、危機がやってきた。今度は高専と同様の教育目標を持った学校制度が出来るのである。

(2)高専関係者は、専門職大学制度に対して、具体的な対応や方策を掲げたのであろうか。今のところ確認していない。転換せよとまでは思わなかったかもしれないが(後述するように、5年一貫楔形にこだわる限り合流・転換は出来ない)、せめて、高専制度と間で「ねじれ」を生じることを声を大きくして主張すべきではなかったか。こういうときに、国立大学工学部定年退職出身校長が少しは役立つというものだが・・・。いくらかのコメントを発したのは一部の労働組合系の団体だけであった。

 高専は一応、社会にであるための学校である。目的規定がそうだし、実際、6割は就職する。このことを忘れ、国立大学工学部「編入」に活路を見出し対岸の火事のように思っていまいか。まず、その編入学自体が制度との矛盾を帯びている。次に、最近は編入学自体が定員面と試験内容面でやや甘くなっており、かつ、高専生の学力低下もあいまって、大学工学部での高専出身者への評価が変わってきていることも考慮しなければならない。また、早期のエリート理工系または技術教育機関に成りあがろうとしても無駄である。法律の規定や社会と教育行政上の要請がそうなってはいないし、そうなっていない機関に優秀な生徒は来ないし、来てはならない。そもそもそのような教育編成は既に本論で述べたように重大な問題を引き起こす。逆に多くの人たちはこのような教育課程に学ばなくてもしかるべき工学者や技術者に大成している。このような目論見は、高専制度初期に中堅技術者養成機関であるはずの教育機関に極めて優秀な者たちを誘ったことや、大学教育には及ばない教育課程なのに大学工学部なみの教育と卒後の待遇を宣伝し続けた矛盾と欺瞞の同一線上にある。

(3)一般大学、そして、専門職業大学が出来ると、高専は正真正銘、第三群以下の高等教育制度になる。(1)でも述べたとおり、法律上、高専は「研究」「応用」さらには「知的」であることを期待されていない。専門職業大学へは職業高校からの進学も考えられるから、高専出身者はその法律上の目的どおり5年制の工業高校出身者になる方向へ押しやられるのではないか、既に、そうなってはいまいか。

 以上思い当たることを述べてきたが、高専側にも非がある。結局、いまだに「中学卒業後5年一貫楔形」思考で自分たちや制度を縛っているため柔軟な制度的対応ができない。また、マスコミや国際機関に対して、中学生に対して行ったの同様のアッピールをし、その無批判なリアクションを、さらに高専の正当化根拠に使う。それどころか、新しい大学制度の議論に食い込むことさえせず、黙殺したのである。せめて高専なら高専で懐疑の精神を示すべきであった。この「中卒後5年一貫楔形」のお題目をどれだけの高専関係者が信じているかはわからない。しかし、当局は、このような考えを持った関係者がいること幸い、高専制度についての実質的な議論や昇格・制度的転換意欲を冷却化する、したがって、下級技術者需要を満たすことが出来ると考えているのではあるまいか。筆者にとって、専門職業大学設立は、今更ながらに高専制度を考えてみようと思う契機となった。この制度が出来ることを知る時、高専制度にいくらかの考察を加えようとする者は、この専門職業大学を完全肯定するか、完全否定するからいずれかの道に分かれるであろう。

 筆者は陰謀史観を取らないから、それもまたよしである。一種の政策である。しかし、高専制度に、もはや優秀者を誘うことは出来ない・・・それを許してはならない。そのような制度なのである。それが皮肉にも外部的要因によって確定したのだ。そのまま残したければ残すがよい。高専が永遠の矛盾と苦しみに巻き込まれていくことも、その犠牲者にとっては、愉快なことなかもしれないし、わずか1パーセントにも満たない者の間でだけ繰り広げられるというのであれば、それも許されるというのであろう。

.ある外国新聞記事に思う

 近頃、高専関係者が、高専ワシントンポスト記事で「評価」されていることを宣伝に使っているのを見るようになった。

 しつこく繰り返すが、高専の就職がよいのは、高専制度がすばらしいからではない。同じ教育成果は、同じ学力水準で、高校3年+2~3年の専門教育で十分得られる。例えば、ドイツの複線型の教育制度は、この論で言及するまでもなく、有名である。しかし、そのドイツに、若者の雇用問題が生じなかったかといえば、そうではなく、ヨーロッパでも有名な高失業率を誇っていた。制度がそのまま結果に直結すると見るのは早計である。教育内容的にも、専門教育を早めに取り入れることのメリットは同時にデメリットも生んでいることを高専関係者も知っているはずである。理論的によくわからいまま実験をしたり、数学や物理学の理解の必要な分野もあるのに、専門科目の方が先行してしてしまい、非効率的になる、理解が浅くなるなど。英語が疎かになって最低限の英語文献さえ読めない。 

 このような教育が曲がりなりにも一見うまくいっているように見えるのは、高専入学者の学力水準が比較的高くしかるべき大学工学部に入学できる層を含んでいるからであり、かつ、企業側がそのような水準でもとにかく実技が出来れば構わないと考え、そのような職種が現に「一定枠」あるからである。高専出身者がオールマイティに有能というなら、同時に大量の院卒や有名大学出身者を採用するわけがない。

 ワシントンポスト記事は中々興味深い。もちろん、産業と職業に直結した高専教育を評価したものではある。高専が行ってきた宣伝を額面通り受け取った部分も多いが、しかし、ここでもいくつかの二面性を指摘することができるがゆえに興味深いのである。目につくところにコメントしたい。

 まず、同紙は、高専の就職がよいことを指摘するが、しかし、高専出身者はワーキングクラスの家庭出身者が多いことを指摘している。つまり、この記事は、暗に、高専(KOSEN)をワーキングクラスを主に対象とした教育機関とみなしているわけである。エスタブリッシュメントやエリートと異なり就職に困るかも知れないワーキングクラスを場違いなUniversityではなくKOSENに誘えば就職問題が解決するとでもいうのであろうか。もっとも、この点は、従来から高専関係者が暗に認め続けてきたことではある。また、求人倍率云々については、大学工学部からの就職経路と、高専(あるいは、工業高校もそうだが)からの就職経路が異なっているという背景などは理解されていないだろう。そもそもアメリカでは一斉卒業、一斉入社の慣行がない。おそらく、この記事を書いた連中は、日本海側にある(かつては)博士号も出せなかった小さな国立大学工学部卒がトヨタソニーにエンジニアで就職していると聞いたら、日本には既に戦前に旧制工業専門学校を有していたことに大いに驚くであろう。戦前から戦後、彼らあるいは彼らの先祖が見て驚いた日本の工業力は旧制大学旧制専門学校出身者によってこそ成し遂げられたのである。

 次に、抽象的なことではなく、「手を動かす」技量を軽視せず「実践的」トレーニングを得たものが中流の賃金を得られることこそ重要と指摘する。このような視点に対して、筆者は第10章で問うた。日本の工学系学生(特に地方国立大学工学部や伝統中堅私大工学部、そして、新興私学の工学部)が一切手を動かさずに、実践的なことは何もせず、技術者になろうとしているのであろうか。彼らはどこにも就職がないのであろうか。一体、一部の理学的な研究を除き、手を動かさずに出来る技術者の仕事があるとでもいうのか。日本の大卒技師の給料がやっと中流程度かそれよりやや上程度に過ぎないことを知っているのか。逆に、アメリカのA&M大学は、まさに、実践的高等教育のモデルではないか。プラグマティズムアメリカの教育に大きな影響を与え続けてきたではないか。アメリカでは実践力のない技術者は即座に解雇されるのではないか。つまり逆に言うと、この記事は、先の高専生を階層的に見るのと同じ視点で、その仕事内容をあまり理論的な視点や応用的能力を期待されない、中流の賃金を得る?ロウワーミドル的な仕事水準に位置づけているように思えるのである。つまり、下級技術者である。そして、中堅・下級技術者はさほどポストが多くあるわけではない。本記事でも指摘される大学大衆化や日本の下層の大学が気取って安易なアカデミズムを標榜することのバカバカしさは筆者も認める。しかし、高専を増設しても、同記事が指摘するSkill Gapが技術系で解消するわけではない。Skill Gapは文系大学はともかく、既存の大学工学部の教育で解消できる。逆にその下級技術者枠でならemployabilityを発揮できるというわけである。日本の大学工学者・大卒技術者がこの記事の段落を読んでも、同じ指摘をすると確信する。また、同記事は、高専を(高専教員のはかない思いとは裏腹に)科学技術政策的にではなく、ほとんど労働政策的・職業教育論的にしか見ていないようであるー法的には正しいのであるがー。

 一方で、優れた実績を残す高専生や才能豊かな高専生が存在することは指摘されている。これもまた、上記の記述とは矛盾しない。概して、階層的に扱われる高専生だが、一部に優れた者がおり、これは常に高専側に宣伝材料に使われてきた。

 すべての道が、学位や大学につながる必要はない。ーこれも日本では、外部の識者が強調してきた。繰り返すまでもない。そうではなく、高専関係者は高専は大学相当なのだ、大学にも行けるのだと言って優秀な生徒を集めてきたのである。そして、結果的に下級技術者枠を埋めていく。すべての道が、大学につながる必要がないというなら、同じ、単線型教育制度の参照例としては、専修学校がよろしいし、アメリカならコミュニティカレッジという基盤がある。

 高校と比べた場合の教養教育問題もちゃんと言及されている。ところが、これに対する高専関係者の回答は「高専生にとって、多すぎる教養教育は時間の浪費、才能の浪費である」というのだ。教育学の概念にはあるにはあるのだろうが、「高専生」にとっては「浪費」などといとも簡単にぶった切ってしまう威勢のよさをみよ。外国人記者が外国制度の本質を捉えることは誠に難しい。しかし、日本人が外国人に向かって 「本音」を言ってしまうという面白い例である。今後は、国内でも、そういう学校であることを正々堂々嘘偽りなく示していけばよかろう。

「親たちは、子どもが高専を卒業すれば、いい仕事がまっていることを知っている」ので生徒募集には困らないという。「いい仕事」とは何か。なぜ突如「親」が出てくるのか。そこには、エンジニアたろう者の矜持も何もない。いい仕事がまっていることを知っていて、2割もの生徒が退学drop outするのである。