「高専生は1年生から物理を微積分を駆使して解く」の類のウソを信じる愚者たち

 筆者は、第4章5において、高専制度及び高専生をめぐる「典型的」にデタラメな言説を挙げておいた。その他にも、「都市伝説」が独り歩きし、これを信じる愚者たちがいるので紹介しておこう。都市伝説は放っておいていいのではないかと思われるかもしれないが、意外にも、これに一応は知識人と目される者たちが引っかかるのである。

1.「高専生は1年生から物理を微積分を駆使して解く」

 早期教育を誇る(?)高専であるが、さすがに、1年生の初っ端から「微積分」「解析」を学ぶわけではない。一方、「物理」の授業は1年生から開始されることがほとんどである。先ず、表題のようなことは不可能である。そもそも、高専においては、1年生「物理」を指導経験豊富な元高校教員に頼っているケースも多いのである。

 もちろん、微積分から始めるべきという、あるいは、微積分や数式によって、物理学は理解できるというのは確かにそうである。しかし、教育的配慮によって、後期中等教育では、力学などの古典的な理解、先ずは物理現象というものの面白さを観察することが、重視されるべきであるという考えも根強い(筆者は、終章において、「地球物理」学者・竹内均が書いた「物理」の受験参考書を紹介してある。同氏による著名な科学雑誌はグラフィック雑誌である)。一部の早熟な者や超難関大学の理学部を目指す者以外の高校生は、そこから始める。そして、大学に入ってから、あの物理現象が美しく数式化されることに感動するわけである。そして自らも数式を駆使するようになっていく(これが実践的な方向に向かえば「工学」となる)。はたして、やたら「即効性」が好きで「即物的」な高専や高専生が、そのようなことまで視野に置けているかどうか。この点は、高専の工学教育にも響いてくる。確かに、都市伝説と異なり高専1年生の物理の授業が微積分を駆使して行われるわけではない(博士(理学)とやらが、自分の高校時代を忘れて、趣味的にやろうとすることはあるが、そこまでの学力はない高専生のほとんどは撃沈するのがオチである)。しかし、既に”工学実験”と”電気回路”の類の演習が「よくわからんが」「おっぱじめ」られているため、現象「そのもの」への感動や現象の直感的な理解や説明はさておかれてしまう。そこに目が向けられなくなる。あるいは「地球物理学」をやろうにもやれないし、5年先までもレールが敷かれている。高専の工学教育は「基本的な」部分が欠けており、高専生も意外と応用力がない、知識の広がりがないと言われるのはそのためである(中級以下の技術担当者。ある現象が起きているときに、マニュアルや理屈がよくわからない公式に落とし込もうとして、なぜその現象が生まれるのかを根本から考えることができない)。高専によっては、学科振りを2年次以降にするところもあるようである。しかし、1年だろうが2年だろうが、2年生までに数学をすべて終わらせて、3年生から物理(それなら、かの都市伝説は成り立つ)、4年生から学生実験を含めた工学をやり、あえていうなら、人文知・教養知をもって広く視野を持つ時期を挟まない限り、何がどうなるものではないことは常識的にわかろうとういうものであり。つまり、「5年一貫」「大学工学部相当」「一般教育の無駄を省く」「くさび型」という高専イデオロギー自体が欠陥性を帯びているのである。生き残るのは、ごく例外的な者たちだけであり、どこの世界にも例外というものはあるというそれだけのことである。

 これまでの話にはオチがある。現在では、高専からの大学工学部への編入学が以前より多くなっている(といっても、実際は、高学力層としては、非常に抑制されたものであることは既に指摘した)。大学受験などは無駄だ!教養科目は無駄だ!俺たちは3年生で応用物理をやっているんだぞ!と豪語してきた高専生が、編入「物理」の受験対策をどうするかというときに使う問題集は、受験物理の問題集として名高い『良問の風』『名門の森』(河合出版)である。

「多くの工学部生が落ちこぼれる分野について、高専生はみっちり仕込まれて大学に入ってくるらしい。高専の教授陣の指導力はすごい」

 高専自体で既に多くの者が落ちこぼれているではないか(大量の留年退学)。あるいは、専門科目を先行させそれにうまくフィットした「優秀」な「少数派」生徒が大学に入って、落ちこぼれようものなら、それこそ単なるバカである。むしろ、最近は、大学工学部への編入学が増えてきたため、編入生の中に成績が芳しくない者も多いというのが実情である。

 全章を通じて述べてきた高専制度の歪さに高専教員の指導力問題も加わる。企業出身者や博士課程修了者が、後期中等教育にある生徒への学習指導や生活指導をうまくできないという問題もあるのである(第4章)。

 最先端の研究をしながら、昨日まで高校生だった、教養課程にいた学生を「みっちりしこみ」エンジニアに育て就職の世話までしてくれる日本の大学工学部教授の指導力の方にこそ注目すべきである(アメリカでは必ずしもそうではない)。2年前までは中学生だった大学工学部志望者に、あまねく微積分や古典力学を教え、工学教育の基礎を作ってくれた日本の高校教諭にこそ感謝すべきであろう。

 

 愚者は愚者なりに、もっと常識を働かすべきである。

 

 

 

 

高専制度は成功していない

1.実は厳しくない進級

 高専は、2割にも及ぶという退学率、4割にも及ぶこともあるという留年率を誇るが、この高い退学留年率は、高専の進級要件が特段厳しいからではない。このような学校を成功例などとは呼べない。

・赤点が高い、出席率が問われる

 当たり前である。受験勉強をしなくてよいと喧伝されているのであるから、それぐらいは当然である。高校生の場合、一発試験の共通テストで平均60%とれなければ、どこの中堅大学にも入れないのだから、そちらの方が酷である。高専の場合、その科目を理解できていようが理解できていまいが(この点は後述)、ただ普通に勉強していれば60点にはなるという試験に対して、試験前にしか勉強しない、一夜づけしかしない者もいるのである。このありさまで、赤点が60点で・・・などと言っているのである。

・レポートを出さないと留年する

 とにかく授業に参加して出しさえすればよいものを出さないのであるから、当たり前である。

 高専で退学・留年する理由を、学力問題にだけ(逆に言うと学力問題があるのである)に帰するというのは短絡思考である。そもそも、ご丁寧に15歳から20歳までクラス担任がおり、ホームルームまであるという高専では、実際は、忠告、警告、再試などもあるのに、それでもなお留年してしまうのである。そして、留年した者の多くは「退学」の道を選ぶ。

2.退学・留年は、高専制度に内在するものである。

(1)早期に専門を決めることの弊害

 学力が一定水準以上の高校生は、18歳までのスクリーニングを経て、専攻分野を決めていく。中には、早くからコンピュータやロボットをやりたい、趣味でやっている生徒もいるが、別にこれに凝り固まる必要は全くない(科学部などでやればよいのである。化学が好きなら、化学の授業を大切にし教師にどんどん質問すればいのである。嫌になったら志望を変えればいいから、心理的圧迫はない)。高専の場合、①15歳というあまりにも「早期」に、「比較的高い」水準の理工系の内容をもつ職業教育・技術教育を時間的に「厚く」受けさせられる。、高専は、赤点が60点という厳しい教育を課しているから、高い水準の教育を「達成」しているというのではない。 ”中学校を卒業したばかりのさほど早熟とも言えない生徒に、本来なら18歳までのスクリーニングと段階的な教育課程を経て施すべき「工学」の内容を、わからないのはお前が悪いといわんばかりに、いくつもの試験とレポートを課して追い込んで、多くの不適合者を生んでいるだけなのでる。では、生徒側に同情すべきかというと必ずしもそうではない。生徒側は、これぞ理工学というのではなく単なる訓練と割り切って、さしあたり試験を受け60点を取り、かつ、レポートを出しておきさえすればよいものを、「中だるみ」も絡んでそれさえもしなくなるのである。ちなみに、とりあえず試験はギリギリ、レポートはとにかく出してきたという生徒は、製造企業にとっては、出世させる必要のない使い勝手の良い労働力となるであろう(もしそれが目的なら、堂々、「専門学校」と宣言するか、あるいは、分岐型・複線型教育制度の導入によってすべきである)。②このような教育課程が「5年先まで」「制度化」されていることも問題である。専門分野適合に不安を抱き始めた生徒は、これまた高専制度の「閉鎖性」も絡んで、何かに閉じ込められているような感覚に苦しむようになる。これが、いつしか、専門科目への嫌悪、そして完全に不適合をきたし、勉強ができなくなるのである。そして(筆者はこれを否定しないが)高専制度そのものに嫌悪を抱くようになる。以上、多少は伸びしろがあろうかという生徒に、こういう教育設計をしているのは、高専だけである。

 別のグループもある。高専にも学力が低い層はいる。あるいは、高専に来たがために勉学への姿勢を見失い、一般的な学習能力が下がる者もいる。この者たちにとっては、高専の「比較的厚い」専門教育(大学工学部相当などとうそぶいている手前、そうせざるを得ない)は、当然苦痛であり、やはり勉強ができなくなる。

(2)中だるみ

 「5年」長期の過程であるため、中だるみがおこる。また、クラス編成をしているため面々が変わらず、環境も同じであることもこれに拍車をかける。2年生後半から3年生にかけて、それを乗り切ったにしても4年生前半あたりという、世間の高校生がもっとも勉強している時期に襲い掛かる。つまり、ただ勉強しなくなり、基礎学力が不足したままに留まってしまう。これも、留年問題の元凶である。この「中だるみ」が(中学卒業時、比較的成績がよかった彼らであるが)非行まで生むのだから厄介である。

3.高専は「科学技術」教育、「教育一般」の失敗例である

 ある高専教員は、厳に「高専不適合症候群」というものがあると言ったが、いい得て妙である。逆に「高専適合症候群」というものもある。技術者・研究者と称しているが、基礎教育や人文知を極端なまでに軽視・蔑視し、あるいは、それもなお「教育」などとうそぶき社会に流布していくなどは、最低の所業である(あるノーベル化学賞受賞の工学者が「無用の用」「哲学・文学に触れる機会」「大学1~2年生の余裕」を説いていたのと正反対である。あたかも、高専には高校2年~3年生の年代における「中だるみ」はあるが、大学1年~2年生の「余裕」がない)。「不適合」「適合」問わず、また、一部に中だるみによって自堕落的態度の者や非行をなす生徒まで生み出している点も取らえれば、そのようなものを生み出す学校制度は決して成功例などではない。「成功例」と言いたければ、企業の中下級技術者養成・企業の下請的教育機関としては成功しているのであり今後もこれに徹するというなら、潔いのだが、どうも世間も高専も、この「成功例」とやらと「科学技術教育一般のあり方」「教育一般のあり方」とを混同しているようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高専からの進学率は高くない

 大学進学率についても矛盾している。

 高専の見かけの高校入学偏差値と同等の高校は、ほぼ全員が大学に進学するはずである。一方、高専からの大学進学率は2割5分に過ぎない。筆者は、現在の我が国の高すぎる一般大学への進学率は問題と考えているが、これと高専を比するのは間違っている。現在においても、なお、中学校卒業時同等の学力で少なくとも中堅上位の大学に進学できる層の進学意欲を抑制しているのは間違いないのである。高専からのこの進学率が「適正」というならば、高校からの大学進学率もその程度にする基盤・根を作ってから言いたまえ。

 しかも、以上の数字は、極端なまでに進学率が高い「進学高専」(8割以上・しかも進学校ばりの進学体制)が高専全体の大学進学率を引き上げた数字であり、一般的な高専からの大学進学率は2割程度に過ぎずー2割というは学科で一桁以内の席次ということである。ちなみに、高専の学科で席次が5位以下だと、学力はガクンと下がるというのが筆者の観察である。大学側が編入定員を増やせばこれより下の者たちを受け入れるハメになるからヤメテおけとは、既に忠告したことである)、残りは、無試験同然のうえ一般教育が相変わらず不足している専攻科1割5分ないし2割と見てよい。これは認定学士であり大卒ではない。

 高専はマイナーな存在である。そこでの成功例に生存者バイアスが働くことは既に述べてあるし、それに早くから気付いている者は多い。その最たるが、高専→難関大学工学部への進学効率である。進学「効率」はうまく編入出来た者にとってはお買い得=「易しい」と言えるが、全体としてみれば、1校あたりの旧帝大・東工大進学者数は、特筆できる数ではない(一般的な地方高専で2~4名)。いわゆる自称進学校も含めてそれくらいの高校ならいくらでもある。地方国立大学でも、その編入定員が例えば学部定員400人中20名となっていれば、その地方の高専生の多くは出身地の大学工学部へ進学できないことになり、高専内部の問題として考えれば、イス取りゲームにはなっている。

 進学意欲を抑制するのが目的であると言われればそのとおりであることを私筆者は指摘してきたが、①抑制しようというシステムであるにも関わらず、編入試験の容易さもあって進学が過熱している、②逆に、その抑制が優秀層にも及んでしまっている、という矛盾があると言っているのである。筆者はこれを「欺瞞」といってきた。

 いやいや、高専では実習に追われ、それなりの努力をしているから、上位層にとっては試験は比較的易しくてよいというのは、視野狭窄の至りであり、都合が良すぎる。知的水準さえ疑ってよい。一般の大学工学部生は、人文社会系の試験を含めた(少なくとも高専よりもは多く学んでいる)ハードな受験勉強を経たうえ、場合によっては、高校時点で既に興味のある分野の自主研究までして、その後大学に入ってからも実習・レポートに追われるのである。

現在の高専卒は優秀とは言えない

1.ネット上などでは、「高専優秀説」を高専生や高専教員が唱えることがあるが、あえていうならこれは嘘である。否、嘘である以前に、高専の事がネット上などで話題になると、関係者が大量に優秀!優秀!といってたかってきているだけのことである。

実験実習に追われ忙しい、などと言うが、彼らは大学受験勉強に追われた経験がない。また、実験実習に追われるのは大学工学部・理学部おいてこそそうである。否、看護学校でもそうである。試験をしてみれば、英語はもちろんこと、数学・物理・化学いずれも、大学工学部を目指す者が解けるものを一般的な高専生では解けないであろう。国語や社会などは、やっていないに等しく論外である。ただ専門科目を「先行」しただけで悦に浸っているのである。「志」だの「個性」ましてや「勉強」だのの言葉は高専生のためだけにあるのではない!むしろ、就職がいいから高専へ行くのであってそこには技術者としての「志」などはなく、学校や学寮では「個」は押しつぶされ、受験がない上就職先だけはいいため「勉強」はしない高専生の方が圧倒的に多いのである。

 「〇〇式教育」「社会実装教育」などの標語も空虚である。専門教員の水準が一般的には大学教員よりも低く、定員も小さいうえ、実験設備が貧弱である高専よりも、大学工学部研究室の方が、一流企業や特色ある企業との共同研究さらには世界をまたぐ研究が格段に多く、人的にも様々な背景をもった共同研究員や大学院生がいるなど、社会との接点や多様性をより強く意識できるであろう。高専が唱えるそのような教育は、蓋を開けてみれば、研究を諦めた教員による独りよがりで一方通行の課題の押し付けや単なる反復演習だったりする。

 高専関係者や高専礼賛者は、なぜ、事実を無視して、標語に飛び付くのか?特定の価値(産業社会、IT、AI、innovation、start up・・・どれも高専発祥のものではない)を勝手気ままに、高専制度(高専卒はAI社会の申し子であり?、社会をイノベートしてきた?、(都会の大企業就職を自慢しながら)地域の課題解決をしてきた?などの標語を並び立てる)に結び付け、分厚い大学教育や大学制度、さらには専門学校まで無視するという(そのくせ編入学だけはさせろ、という)、高専論法の問題性も既に指摘したところである。近時に至っては、「AIの進展→普通科から私立文系への進学は危険→高専の時代の到来」の類の短絡思考をして恥じない評論家もどきもいる。つまり県下一番の進学校から早稲田大学や慶應義塾大学へ進学するのは危険であり、英語教師になりたいという思いがあっても同志社大学文学部に進むのは危険であり、高専に進学せよと言うわけである。まぁ、私立文系ではなく理学部(AIやCSを進歩させてきた勢力の一つは数学者である)を含めた理系大学(理系大学の出身母体の大半は普通科進学校である)へ行こうとならない理由、私立文系でなく国立文系ならよいという理由がよくわからないとうこともあるが、この種のプロパガンダは、伝統的に経済力の高くない家庭における「手に職」論と同じか、これにも失礼な思考の欠落であり、この種の論理が子どもの進学意欲と社会上昇意欲を抑制してきたことは既に指摘したところである。早慶は一流商社や銀行の経営管理層の供給源である。上層の私立文系は教育界に多くの人材を送り込んでいる。高専に進学すればこれに取って代われるとでもいうのだろうか。そもそも、どの学力階層にどのような教育をほどこすべきかという議論やAIが高専側が標榜する中堅技術者や高卒現業職の仕事を奪うのではないか、むしろ不要となるのはプログラマーやCS専攻者ではないのか、という議論を全く経由せず以上のようなことを言うのは無責任極まりない。

 以上の問題に気付いてか残る価値である「早期」教育、「実践性」を誇張するが、「早期」には大きな弊害(すくなくとも「早期」の教育など経なくても立派なエンジニアにはなれるし、むしろそうしてきた)、「実践性」には曲解があるのである(工学そのものが実践的な学問なのである)。その代償として高専生は教養がないと揶揄される有様であることはこの文章の第1章から真っ先に指摘したところである。「高専増設」などは、政治家が教育制度の在り方(本文章でさんざん述べた)、否、産業社会(高専とは関係なく進んできた)、科学技術の進歩(高専をたくさんつくっても科学技術は進歩しない。つくるなら大学院・博士・研究所である)というものを真剣に考えようとはしていないことからくる愚策に過ぎない。愚策ではあるが、この愚策を進めて今後、仮にも10校増設したところで(おそらく100年スパンでそれが上限であろう)、人口比率的には多くの生徒にインパクトは与えない。多少の心理的インパクト(教育制度の多様化イデオロギー)は与えるかもしれなが、結局は、これに騙された人口比率1%(高専を増設したところで、これも上限である)の子どもたちが苦しめられるだけ、例外的適合者が視野狭窄・無教養な「技術者」「研究者」とやらになるという結果が待っている。

 皮肉なことに、高専出身者が「中学卒業時」に比較的成績がよかったがために、付け焼刃の専門教育でもそれなりには対応し、一応は企業の下級技術職としてはそこそこ使えるようになることが、一定の評価につながっている。企業の人事担当者などが「優秀」などと言っているのは、この限定された意味においてであるに過ぎない。逆に言うと、高専は入学時は比較的優秀だが(最近はそうでない者もいる)、入学して以降の学力はあまり伸ばせず(敢えて言うなら、自慢の専門科目の学力も、基礎学力が低いため、さほど高くない)、下級技術職に収まるわけである。この促成栽培教育がすっぽりはまる例外的な人もいるが(多くて高専卒の3%程度のごく上澄み、もともと「頭がいい人」たち)、その者たちは高専そのものを誤解させる要因にさえなっているだろう。

 高専出身者が言いがちな「現場での実践力なら大学生を凌ぐ即戦力的な存在」などは笑止千万である。入社したばかりの場合はそういう可能性もあるが、大卒院卒の能力が現場で顕在化しだすと、現場力さえもすぐに縮まりアッと言う間に追い越される-何事も無かったようにー。高専卒は「現場の比較的易しく単純な業務を、そこそここなす、大卒院卒技師とは違った役割を担わされるインスタントな存在」と言い換えた方がより実態に合うだろう。実態というよりも、高専出身者が不得手とする「言語」というものの理解と運用力の低さが、このような言説を生むと言ってもよい。仕事はしっかりやり遂げる、熟慮断行、などは社会にある者として当然の態度であり高専卒の美質などでは断じてない(むしろ、閉鎖社会で専門?科目に凝り固まって、先ずは実習レポートだけは出すように育ってきた高専卒は、幅広い思慮が足らず、社会の中で一歩立ち止まってみる勇気、組織の中で意見する勇気を持たない)。こうしたことを高専卒の美質などと称している者に限って、皆が通らなければならない道を回避して「楽」して一流大学の工学部に入れました、これがベストのルートであるなどと言いがちなのである(結局、偏差値の高い大学卒であることが自慢。だが、その割には、あまりにも教養がなく、英語も出来ないし、さらには、数学さえそれほど出来はしない。恥知らずとはこのことである)。そんなことを「地道」な努力をしてきた一般の大学工学部生の前で吹聴しようものなら、軽侮されることぐらいは気づいているのだろう。だから、ネット上でイキる。イキりまくる。学生実験は明治時代から大学工学部で行われてきた。汗をかいてきた。血を流した時期もあった。一流大学工学部卒や院卒は勉強ばかりしてきたから汗をかかず、高専卒は油にまみれてきた(油にまみれたくらいなら、技術者であることを放棄した筆者にもいくらでも経験がある。医者は油ならぬ、血にまみれて仕事をしている)。そうした図式を勝手に作り出しては悦に浸る。あんたの何が偉いのか全くわからんが、イキる、やはりイキりまくる。皮肉なことに、高専という閉鎖社会で育ってきた者こそが、大学という世界を経由して世界を知り、世界にはいろんな凄い人がいることに驚くのだが、それらの人々は高専などは経由していないことがわかり我にかえる。高専卒の言説などはその繰り返しである。

2.あまりに高専の実態を知らないがため(学校自体がマイナーであり、学校側は学校側で実態をさらさないのであるから、やむを得ない部分もある)、高専卒は優秀であるなど、ネットやSNS上で顔までさらして言っている者もあるが、愚かである。

(1)その者たちが見ているのは高専卒の上澄みである。

(2)語学や社会性などまで含めたトータルな評価ができていない。

(3)そもそも人間や社会を見る目が欠落している(者がたまたま高専界隈にしゃしゃり出ているだけ。マイナーな高専世界にしゃしゃり出て何か言えば目立つ)

のいずれかであろう。

3.高専卒で「優秀」と言えるのは10%未満である。つまり高専卒一般は優秀でもなんでもない。ただし、その優秀層は、優秀であればこそ大学正規の高等教育を最初から受けるべきであった。高専卒は大卒よりも優秀である、というのは論理が逆である。

4.高専は「高等教育機関」である、というのは創立以来言われてきたことである。これに対して、私筆者は、「専修学校専門課程」も「短期大学」も高等教育機関であるから、その誇張に意味はないと言っておいた。専修学校は1条校ではないのに対して、高専は1条校である、という比較は無意味である。1条校であること自体は文教政策上の意味はあるだろうが、その裏返しで、幼稚園・小学校も含まれる概念であることからも容易に理解できよう。

5.以上のことは、この文章の端々で(しつこく)いってきたことであるが、近時、エセ評論家どころかマスコミにまで「優秀な高専卒」などの言説がはびこるに至っては、敢えて「現在の高専卒は優秀とは言えない」と言っておかねばならない。この種の無責任な言説-「高専」に飛び付いて何か言えば目立てるという程度のことか、良識がないかのいずれかであろう-がいたいけな中学生を地獄に引きずり込み、高専生を思い上がらせてきたのである。また、優秀と目される者も語学や人文知を欠いており、また、それを何とも思わっていないとすれば、真の意味で断じて優秀とは言えないということも繰り返し言っておかねばならない。

 

高専を教育制度の多様化モデルとするのはやめよー自称知識人・専門家の愚かさとそれがもたらす悲劇ー

 高専の実態は全て述べてきた。例えば、努力量の比較だけで言っても、普通科進学校から大学工学部を入学した者より、高専生はさほど努力していないし、一般的学力も低い。散々例として挙げてきたように、実習模様に写り込んだ彼らの姿は、そのごく一面を捉えたものである。はたして、大学工学部では寝る間も惜しんでもっと厳しい課題に立ち向かっている。

 高専の学位問題とからめて、まんがや農業分野への進出など高専教育の拡充策が模索されているようである。しかし、これまでも、高専教育の拡充策の発表があったが、大抵の場合、おざなりであり効果も得ていないのであり、同じ結果を生むだろう。

 1回だけそのとおり実現された、国立高専における経営情報学科や国際ビジネス学科設置などは全く意味のない措置である。高専卒の製造業下級技術者としても遇しがたい、銀行の窓口業務を担わせるにも扱いずらい、せいぜい、経済学部などへの裏口的編入学の機会を提供するくらいである。私立高専には「起業」を主としたコースがあるようだが、欧米のビジネスエリートは、ギムナジウムやリベラルアーツカレッジで一般教養を修めたあと大学院レベルで経営学を学ぶのが常識である。日本の大企業のビジネスエリートのほとんども入試を経て経済学部や法学部に進む。高校1年生から「起業」ないしこれに関わる「科目」を「専門」として5年もの閉鎖空間の中で学んだところで、(自称)ビジネスマンとしては教養がないことはもちろんのこと、曲がった人間が出来上がらないか心配しているところである。起業家精神は必要である。しかし、子供にこれを教え込むことは残酷である(安定しているから公務員になるよう小学生のうちから仕込むのと同質の「浅ましさ」でもある)。たとえ子供がそれを望んでもこれをたしなめるのが大人の責任である。

 天才的な起業家候補生は大人がたしなめても起業のことを考えるだろうが、それはごく一部の奇才のなせることである。どうしても若くして起業したければ、いっそうのこと「学校」という枠やら山奥に引っ込んでいないで、また、同じ人間とばかりつるんでいないで、つくりもの(筆者の理解では、高専は起業ならぬ企業のための「つくりもの」である)の世界からも抜け出し、「世界」に飛び出してみよ、「異国の人」と触れ合ってみろ、「なまの姿」に目を見開いてみよ、それがかなわないなら、屋台でも引いてみろ、家業を一旦ついでみよ、それでも学びたいと思うなら、最高学府をめざせ、と言ってやった方がすっきりする。

 だいたい、現在も、高専側は伝統的な大学工学部へ何とか近づこうとして、また、そうである自称して、またそのような大学への編入学を目玉にして、正当化、権威付けを行おうとしてきたにも拘わらず、「まんが」とは恐れ入る(「まんが」そのものはバカにされるものではないし、筆者も読むが、「高専」でしかも国立高専で「まんが」をやるのは、バカそのものでる。むしろ、「まんが」の作者にとっては、教育の多様化イデオロギーに使われていい迷惑である。)。

 このように、教育制度の多様性をもたらしたいのであれば、単線型教育制度では後期中等教育を終えた後の専門学校を拡充するのが常識である。例えば専門学校に「自動車学科」「電気科」はもちろんのこと「まんが学科」があっても誰も文句は言わない。「高卒後」に俳優養成団体に所属するのは、本人が茨の道を歩む覚悟があるなら、自由である。高専を含めて複線化・多様化したいのであれば、普通科と一般大学進学率を圧倒的に下げてから言うべきであろう。もっと言うならば国民の意識がそうであるという基盤と根がなければならない。そういう「基盤」「根」がないところに、勝手気ままに「多様性」を継ぎ木しても、そこに巻き込まれた子供たちを苦しめるだけであるとは、西尾幹二の言葉である(第6章)。また、結局、苦しめられるのは、ごく例外的な教育制度の中にあることをいいことに興味本位で「社会実験」にされる高専生のみである(追記③)。

 もっとも、複線化・多様化を試みたところで、「中学」卒業後5年もの「長期」の「専門」教育を施すということ自体が、多くの留年・退学者を生むという、厳然たる事実が突きつけられるだけである。これに気付かず、高専制度を中心に職業教育を充実せよ、などと吹聴している者は学識はもちろんのこと良識・常識がない。高専生のメンタリティは、この教育がスッポリはまる例外的な人材を除き、①この道でいいのかなと思いながらも、どこかに就職できればいいやと、アルバイトに精を出しつつレポートだけは出して5年をそこそこやり過ごす、②この道があっているかも知れないが、あわよくば進学しよう、③もうこんな勉強したくない(退学へ)、というものであり何のための複線化・多様化なのかその存在意義が問われる事態になっているのである(こうなることは「5年」「専門」というタームだけから十分予測できる)。そして、高専が増えれば増えるほど、「落ちた」高専生による留年・退学問題が顕在化・社会問題化するであろう。

 以上は、批判の型が古いというのではない、今起こっている安易極まりない愚かな言説と施策に対する古くて新しい問題意識なのである。

 

 

 

 

高専の学位

 高専本科卒に学位を授与することが検討されているようである。これは、どうでもよいことである。高専生には実力があるからとか、大学とは別の実践的高等教育機関だから学位は関係ない、という高専生が言いがちなことを信じてのことではない。大多数の高専生には実力はなく、大学と別というなら、学位などはそもそも論ずるに値しないという単純な話だからである。

 高専生に学位を!と言い出しているのは主に高専出身者である。以下の記述は、そういう高専出身者を揶揄しているように見えるだろうが、その通りである。ただし、筆者が論じた(罵詈語が多すぎるにしても)高専への制度論的批判とパラレルに理解すれば、必ずしも揶揄だけではない意味が含まれていることに気付かれるだろう。

1.現在、若年層の半数以上は、「学士」であり、「準学士」はそれより下位の少数派の学位であることが晴れて確認される。

2.産業社会において重要な役割を果たしてきておりこれを評価すべきであるから、学位授与は望ましいという論理は、間違いである。社会における重要性(厳に「学術的」に「重要」という限定をつけなければなるまい)と学位は関係ないし、そもそも高専生の存在の独自性・重要性にも疑問がある。高専生は、①もともと優秀だったから最初から高校・大学工学部でよかった、②そうしなかったため、高専卒は企業にとって都合の良い大卒以下の補助的・周辺的業務を担わされるに過ぎなかった。企業にとっての「多少」の「重要性」はそこにある、③仮に、大卒に匹敵する能力を発揮した者がいたにしても、この者たちは、大学工学部卒・学位があると言うにはあまりに一般教育を欠いている、④近時はあまり学力が高くないため、高卒化・現業職化している、⑤現在の優秀層は、結局は進学校化している高専に便乗できるので、学士になりたければなれる、からである。

3.高専への学位授与が、過ぎたる大学進学意欲を抑制することになるというのも間違いである(自称知識人たちが、教育制度の複線化・多様化を、安易にも高専に飛びついて理解しようとしたため、デタラメな言説を生んできたことにつき序章・2.⑮)。「準」学士というのはまさしく学士に準ずるということである、端的に言えば上述のごとく、下位・少数派の学位である。「高専学士」と称したところで同じである(日本語がオカシイというくらいの問題は残る)。そのようなものに自ら飛び込むぐらいなら、それこそ学位は要らないか、どうせ学位を得るなら「学士」へとなろうというものである。

4.現在では余り学力の高くない層が集まる短期大学の「短期大学士」も学位である。それと同等であることが確認されるにすぎない。「高専学士」〇〇と言ったところで・・・と筆者は言ったが、「『高専』学士」は「『短期大』学士」と同じ言語イメージがありどのみち「学士」ではないことを連想させるであろう(決してbachelor でもなければ、〇〇-bachelorでもない(そんな名称は英語にはない。それこそ詐称である。以下6.)。

5.おそらく学位を授与するのは高専本体でなく、学位授与機構であろう。つまり、学士や短期大学士と異なり(省庁管轄の大学校は除く)、高専自体に学位授与権などはない。大学の自治、大学教授の権威に基づくものではなく、歪な措置である。さりとて、将来、高専自体に学位授与権が与えられることはないであろう。自治権のある大学ではないからである。

6.高専卒が学位でないことによって、これが国際的には学歴「詐称」問題と扱われてきたとの報道があった(例によって、訳も分からず高専大好きな「日経」記事)。つまり、高専は制度的「欠陥」を重く内包してきたことが確認されるのである。大学ではないものと大学相当と称してきた高専側の罪、否、その価値を無邪気にも信じてきた者の罪でさえある。

 海外大学へ編入学で困ることがあるそうである。そうであるなら、頑張って1年から大学に入ればどうか?しかし、そういう努力はしたくないらしい。教養がない、と言われているのであるから、丁度良い機会ではないか。都合が良すぎる。修士までなら6年か4年、博士までなら9年か7年の違いである。さらに、一昔前なら、高卒で企業に就職し工学部二部で1年生から始めていた人はザラにいた。勝手な制度を作り喧伝し、それを真に受けてきた者たちは、その人たちを見習ってはどうか。

 論じ方が間違っていると言うかも知れないが、ここは確認しておかねばならないのだ。筆者が指摘し続けてきた高専「制度」の欺瞞性と全くパラレルに、個人レベル(高専制度が作り出す高専生のメンタリティについては指摘済みである)で「大学受験しなくて済む」「いい会社に入れる」「大学ではなく高専に」「一般教養などは無駄だ」と考えたのは高専生自身である。設立当初ならまだしも、情報あふれる現代なら、進路を考え直す機会はいくらでもあったはずである。余裕ができたらから海外大学へ編入学でも・・・というときに学位がないことに気付いたら、とっさに”学位を渡せ゛という浅ましさを見よ。

 7.同じ理屈なら、専門学校の高度専門士なども、学位としなければなるまい。高専出身者は同時にこれも要望すればどうか。これだけは、まっぴら御免だ、というのが高専生のメンタリティである。また、短期大学士といっしょにされても困ると言い出すものがあろう。他者からすれば同じ穴のムジナである。

 

何を読み誤っているのか

 本文でも述べたところを、もう一度確認しておく。なぜ、高専制度やその実態が誤解されるのかは、以下の視点を欠いているからである。      

①高度の科学技術教育もまた、一般教育・教養教育という土台の上に立たなければならいという要請(高専はこれを欠いているにすぎない)。

②あまり学力が高くない層を健全な職業教育に誘うという要請(それ自体は認めるが、高専では高学力層の進学意欲を抑制してしまっている。逆に、そのような制度なのに、自称進学校化している)。

③技術と技能の違い(境界線の引き方は難しい面もあるが、日本では、単純なことしかしていない人の処遇が、大企業にいるというだけで、高くなりすぎて、技術系中小企業への差別になっている。高専制度はこの”ねじれ”と企業側の思惑に乗っかかっているだけである)。

④中小企業やその技術者の処遇問題への無理解(中小・中堅企業にあまねく大卒技師がいることで、日本の工業は支えられていることを見過ごし、高専は、おめだくも、大企業就職を”売り”にしている)。

⑤高専は依然としてマイナーな存在である(が、そこでのイビツな成功例に生存者バイアスが働きがちである)。