高専問題ー序章-

 

1.はじめに

  高等専門学校高専)という学校がある。

 今更、なぜ高専を取り上げるのか。その筆者なりの理由は終章を見て頂きたい。

 設立当初から問題の多かったこの学校制度だが、今日に至ってもなお、構造的な問題は残ったままである。そして、その問題性は今後も有効に解決されることはない。なぜならば、その問題性とはこの学校制度に「内在する」、言い換えれば、この制度が少なくともそのまま存在する限り回避できないものだからだ。したがって、高専という学校制度は、政策的に解体し再出発しなければ今後もなお犠牲者が増えるだけという厳しい現実が待つだけの存在といってよいと思う。高専という学校制度の問題性は、その出身者や問題意識の高い高専教員の一部、教育関係者の一部から、小さく目立たないながらも厳しく問い続けられている。

 高専という学校制度がマイナーでありその実態について万人の関心が薄いため、これを紹介したり入学者を誘おうというときの美辞麗句が一人歩きしてしまう傾向がある。また、特殊な学校制度であるため教育関係者や教育学者さらには外部出身校長(ほとんどが国立大学工学部教授出身の外部出身者である)等が「面白がって」理解し、逆に、その背景にあるものを見逃してしまっている。さらに、この学校の教員の少なからざる割合の者が狭い特殊な世界にあって世間と自分たちの常識を照らし合わせてみる努力を怠っている。逆に、その環境にあって自分たちの問題として優れた見解を示される方も多いのだが・・・これは結構勇気がいることである。大きな重要な制度の問題なら、思想の自由市場的な淘汰によって正しくかつ多数者を納得させる意見が残ることも多いであろう。しかし、マイナーだが問題のある制度というのは見過ごされてしまうか、狭い範囲でしか通用しない正当化論理が化石のごとく生き残ることになる。

 高専制度についての美辞麗句で固められた論評の多くが以上のような性質のものであることをお分かり頂くだけでも、多少の意味があると思う。これから述べる程度のことは、実は、関係者が紀要ときに教育雑誌などで問題にしてきたこともあったが、概して、外部に向けては宣伝用の美辞麗句が先行してしまいがちであったことも否めないのである。そこで、一応は高専に関わったことのある者として分析的な視点と実感として感じてきたことを擦り合わせながら、しかも、これをネット社会においてネット上で述べておくことは、多少なりとも意味があると思う。繰り返すが、高専制度がマイナーな制度であるため、その議論も狭い範囲の者でしか論じられないからである。また、マイナーであるがゆえに無用の同情を買い、勝手な宣伝がまかり通り続けることも許されないのであるが、この学校の入試倍率が下がる度ごとに、このような宣伝が定期爆撃的に行われる傾向がある。また、6、7年に1回、忘れたころに雑誌等で紹介がされることがあるが、そのほとんどが高専の上っ面だけを見た浅はかな記事である。また、高専関係者の話を鵜呑みにした学者・新聞雑誌記者等が高専を礼賛するという残念な例も少ないものの散見される(こういう人は、もちろん大卒で、自分の子弟はちゃんと中高一貫高や名門県立高校に入れたがっていたりする)。企業側のリップサービスや思惑を真に受けるということも当然にあった。教育制度論というものには、理想・建前と自分及び自分の子弟は別という論理が内在しているのであるが、これは多くの教育学者の実感であろう。

  関係者や教育制度論者にとっては周知のことだが、高専教育には以下のような問題点がある。一般の人はこれを念頭に読まれるがいいと思う。高専は、中学卒業後5年間で大学工学部の専門的学力を身に着けさせようとする。また、内容的には実験実習を比較的多く取り入れている。しかも、そのカリキュラムは入学当初は一般教育を割合的に多くし、楔形に専門科目や実習を組み込でいくが、

(1)15歳という早期に専門を決め、しかもこれが20歳まで続く課程になっているため、専門科目に不適合を起こす者が少なからず存在する。

(2)5年間という大学より2年短い期間に多くのことをやろうとするため、特に一般科目の時間と内容が疎かになる。

(3)以上のような教育内容にもかかわらず、高専が入学者を誘う宣伝文句は、かつては露骨に「大学工学部と待遇が同等」、現在ではやや表現を変えて「大学工学部と同程度の専門的学力」である。こうした表現に魅力的に感じた特に経済力が高くない家庭の中学生は、高専では大学より2年短い期間で大学工学部程度の内容が学べ、大企業に行けて、大学卒と同等と扱われる、と信じて入学する者も多い。

(4)以上の大卒相当の言葉とは裏腹に、編入学で大学にも行けますとし、これを宣伝する傾向も大きくなっている。

 もちろん評価されている点もあり、例えば、企業側から見て「大卒に比べても専門的学力も遜色ない」「実践力があり、即戦力として使える」「素直だ」など、生徒側からみて「大学受験がないのでじっくり学べる」等であり、高専生の就職率も高い。こうした面は高専の入学者向けパンフレットでも見てもらえばよいだろう。ただし、筆者の意図は、これら評価されている項目の背後にあるものを、一般の関心のある人にわかるように分析的に説明しつつ、かつ、美辞麗句を並び立てる多くの高専関係者に対して批判を向けるものである。従って、高専の問題点のみをあげつらっているのように見えるだろうが、これまで積み重ねられてきた宣伝用の美辞麗句の方こそが大問題である。全国50数校で50年以上繰り広げられたこの美辞麗句に比べれれば筆者の批判などは取るに足らない。高専制度については原典資料や一部に優れた論文・論評が存在している。あるいはウェブ上にもしかるべき尊重に値する論評や資料が存在している。しかし、筆者は、高専制度について、一部に学術書を引用しつつも新書や選書をも多く引用して、より端的、より一般論的、より常識論的に、高専制度の問題性を炙り出していきたいと考えてるわけである。高専制度はもっと本格的に研究されなければならない、などと(一部で)叫ばれてはきたが、それに対しては単なるカリキュラム研究や教授法研究などが乱発されてきた。あるいは、端緒的に問題を鋭く指摘しつつ、しかし、制度論的洞察にまで行き渡らないことも多いように見受ける。近時は、高専のパンフレットそのまま転載したような書籍や安易な手法で高専制度を評価するものまで見られる。

 関係者には周知のことを偉そうに言っているように見えるかもしれない。しかし、筆者の批判は高専の紀要等と違って遠慮がない。言うまでもなく、ネットにおける匿名性を利用しているからである。

2.先ずは、俗説を拝す 

 高専について詳しく論じる前に、高専関係者やそのお追従者には、以上のような高専の特質に関連させ、以下のようなことをいう人が多い。これらについて、先ずは端緒的にコメントしておきたいーThe road to Hell is paved with good intentionsー
①「大学入試がないので充実して学べる。大学一般入試への挑戦はほぼ無理」
 大学入試や入学者資格試験がないので、概して、英語や数学などの一般的学力が低い。その他の一般科目はそもそも時間数が圧倒的に足りないので、エッて言うようなことを知らなかったりする。大学入試についても、やりもしないで無理と決めつける。非常に不利なのは間違いない。しかし、高専出身者でも腹をくくって挑戦すれば意外に突破できるし、突破してきた者も多い。高専制度がそう仕向けている、ときに、自身の怠惰によって、英語などやるべきことをやっていないから自信がないのである。
②「貧しい家庭の子でも行ける。成績が良ければ、授業料免除がある」
 貧しければ、一般教養を軽視した教育でよいとでも言うのであろうか。一流大学にも貧しい家庭の出身者は一定数いる。むしろ、彼らの方が入試にしろ大学入学後の生活にせよ、不安に打ち勝っている。貧しい家庭の出身者がわずかに師範学校に行くルートがあるが如き、戦前の極端に高等教育の門が閉じられている時代ではないのである。奨学金や各種の援助、あるいは高等教育の無償化の動き(これ自体には、筆者は疑問があるが)もあり、優秀ながらも貧しい家庭の出身者が高専に行く必然性はなくなっている。
③「高専は自立して自分から行動できる人が行く学校で、高校生は、まだ進路を決めていない受身の人が行く学校である」
 受験勉強は受身では身につかない。高校生でもクラブ活動や科学コンテストに参加する。そして、学習能力に乏しい大学の学生には自立心のない人間が大勢いるかもしれないが、ちゃんとした高校生なら大学生になったら自分で行動するし自立心が芽生える。実は、高専生の方こそ比較的成績が優秀な層を集めているにも関わらず「自立心が乏しい」と広く論評されている高専には「あなた方は学生です」イデオロギーが存在するが、実際は全く逆に作用している。
④「教養がないなどと言われるが、そもそも教養は自分で身に付けるもの」
 学校教育における一般教育・教養教育を軽視しているのが高専である。一方で厚い一般教育・教養教育を受ける層が存在するのに、そういう教養軽視のシステムに優秀層を誘っていいのか。自分で身につけるというが、自分で身につけていないから、教養がないと揶揄されるのである。高専の一般教育は浅い。高専卒は教養が無い」というのは勉強しない人の言い訳だという人もありそうだが、そもそも制度論上一般教育が浅いのは間違いないのだから、それこそ言い訳である。ついでに「英語ができない」。
⑤「高専は「基礎」を叩き込み、「応用」は社会での各自の取り組みや大学で期待されている」 
 前項を見よ。要するに簡略・切り捨て教育と宣言しているに過ぎない。世の数多くの大学理工系(国立大学理工系に限っても高専よりはるかに多い)は法令上、応用と研究を期待されているのに、同じ高等教育の範疇に入れられているにも関わらず高専だけこれらが期待されていない。普通は、下級技術職になるためだからそうしているのではないかと感じたり腹を立ててもいいのに、そういうふうに感じる感受性や論理的思考力がない。
 また、重要なことは「基礎」さえ怪しいということ。中学の時同じ学力水準である者同士で比べたら、まさに基礎である数学力や言語的能力が高校経由の国立大学工学部卒より格段に劣る。実験教育が基礎というなら、そんなことは明治の昔から大学や旧制専門学校でやっている。、さらには、上述の法令に従ったとも、開き直りとも言える宣言がある一方、学校ごとの教育スローガンには何故か「創造的」「実践的」「応用力」が叫ばれるという矛盾さえ犯す。
 だいたい高専の上半分程度は、中学校時の成績水準からすれば、一般入試で国立大学工学部を目指せる層だが、都合が悪い事実や論理を突き付けられたら、Fランク校よりマシ、という屁理屈を持ち出すのも高専関係者である。ちなみ、その中学時成績優秀層は、悲しいかな、高専の中だるみに漬かって勉強しなくなり、それこそFランク校の学力水準になってしまう者も少なからず存在する。退学してくれればいいのだが、以外にしぶとく卒業したりすることも多い。逆に、最優秀にもかかわらず高専卒で就職し泣きを見る者も多い。ただし、卒業時・卒業後も優秀な者が一部存在することは否定しない。昔の高専生なら、我々の頃はそうではなかったというかもしれないが、高専がどういうものか確立されるにつれて、そういうものに落ち着いてきつつあるとご報告申し上げるしかない。
⑥「学歴的には低いが、学歴社会は終わっているし学歴で人間性を判断できない」
 学歴で“人間性”そのものを判断するのが、学歴主義ではない。日本の企業には厳として学歴主義が存在するし、欧米などでは、むしろ、能力と学歴がリンクしている(知的職業で修士号や博士号を要求するなど)。欧米を含めもっと厳格な学歴社会の国は数多い。高専の校長、最近の学位の持った教員なら、欧米では学位がないと学会でかなり肩身の狭い思いをするケースがあることを知っているはずだ。確信犯である。
⑦「出世や給与は大卒より恵まれないことも多いが、就職先がいい」
 就職「先」さえよければ、自分の評価などどうでもいいのであろうか。世の大卒には企業の規模に関係なく、やりたいことができる会社を選ぶものも多い。就職先がいいのは、学校推薦のようなルートがないにしても、平均的な国立大学や中堅上位以上の私立大学でも同じである。
⑧「女子が少ないが、女子がいない一流進学男子校もある」
 男子校で進学校は、勉強で縛るし教師の権威を保っていることが多い。高専は男子が比率的に非常に多く5年続くから退廃的になり、講堂の集会で騒いだりすることさえ見られる。
⑨「より学びたければ大学編入すればよい。大学編入後に違う目で見られることもないし、編入試験も難しい」
 確かに、大学工学部の研究室は色んな人が出入りするから変な目で見ている人などは殆どいない。普通に付き合って行けるだろうとは思う。しかし、その大学での出会いは1年生のときにはじまるので一歩遅れる。一般教養時代の自由も謳歌できない。いろんな専門分野の人に出会い、哲学書や物理学の専門書にじっくり取り組めるのも教養時代である。あえて言うならば、遊んでもよい。高専の一見自由はは真の自由ではない。制度的にも自治権がない。
 入試面でも、一部の大学を除き特に一般入試を受けるものより科目数や語学等の面でハードルが低いのは間違いない。一部の優秀な高専出身者の本来の学力からすれば、ハードルが下げられていることを憤ってもいいくらいである。ちなみに、大学理工系への編入学者の増加は⑥や⑦の言動と矛盾する。
⑩「編入後に成績がよい」
 編入学者がかつてより劇的に増えたので、上位層と下位層に分かれているというのが現実である。下位層は当然、留年比率が高まる。一体何をしているのか。専門科目を早くからやっているから専門分野の能力が高くなるというのは、一時的にはそうだが、長い目で見れば間違いである。
⑪「専門分野でなら大学工学部に相当する」
 成績優秀な中学生を誘って、有無を言わせず専門科目を教え込んだら、そういう人間が生まれる、あるいは、これに馴染まない者は排除されるという、それだけ。逆に、そこそこやり過ごす生徒も多い。(国立)大学工学部には程遠い。ある元高専生の言を借りると、”そういう教育機関であるというだけで、スゴイのでも何でもない”。けだし名言である。
 大学工学部というなら最初から大学工学部へ行きなさい。高専関係者は、このように「大学工学部相当」場合によっては「大学工学部より優れる」などという言葉を吐く一方で「より『高度』の技術者・研究者になるため進学する人もいます」などと同じ文章の中で平気で言う。生徒のことなどはさておき、教員自身はほとんど大卒以上近時は博士である。「大学工学部より優れる」などという言説は実は決して大学工学部関係者に対して発せられることはない。入学者向けの言葉である。逆に企業側からは高専に対してのみ発せられる。
 この点も⑥や⑦と矛盾する。
高専教員は学位をもっている。充実して学べる。
 現在の高専教員が学位を持っているのは正しい。しかし、ここ15年の話である。
 高専の50年以上の歴史の中で、高専創立35年経過ぐらいまでは、一部の高専を除き、専門学科教員10名中に博士号取得者ゼロないし2、修士号取得者は若手中心で3~4名、教員一人当たり生涯研究論文数は数編、しかも、査読付き論文なし、という有様の高専の方が圧倒的に多かったと思われる。大学工学部「相当」などと称していたが、教員レベルの比較論で言うと、一部の教員を除き、大学工学部教員には及ばない、という負の歴史も長かったし現在でもそうである。しかも、その負の歴史は高専制度の根本的欠陥と表裏をなしてきた。 
⑬「他の専門分野でも高専を作り広げればよい」
 中退率の高さは高専制度に内在するものである。全国で証明済みである。これが増えるだけである。また、他の分野の教育体系や学問の性質、産業構造などへの視野の広さ持っていないから、あるいは、人間性への洞察力が欠けているから、こんなことを平気で言い出す。例えば「鉄は熱いうちに打て」の論理で中卒後医学の外科教育を施すなどは到底考えられないであろう。
⑭「みんながみんな大学へ行く必要はない。優秀層のみ大学へ行けばよい。ここで、高専に意義がある」
 これは、高専関係者ではなく、教育制度になんなかの複線化をもたらしたい、あるいは大学大衆化に歯止めをかけたい政治家や教育学者が言いがちのことである。しかし、高専制度は一見してわが国唯一の複線型学校にも見えるが、実は、逆にそのような複線化とは反対の作用または”ねじれ”をもっていた。
 つまり、当の高専は、自分たちを能力に応じて複線化されたルートの学校ではなく、大学並みと称して、そして宣伝して、中学生を集めてきたのである。その中学生の中には普通に高校から国立大学工学部へ進める層を多く含んでいるのだが、彼らが高専卒で就職した場合の職種や待遇については通常は大卒と異なっており、能力的に損をしている(もっとも近時は、いわゆる二山化・二極化が起こっており、学力の低い者もかなり含まれている)。また、最近は大学工学部への編入学を目玉にしているどころか、こちらの方がお得かのような宣伝も行っている。
 能力に応じた複線化ではなく、かつ、結局は大学進学機能に重点を置きつつあるので、単線型ルートと差別化されているとはいい難い状況にあるわけである。高専は大学の研究者ではなく高度技術者や中堅技術者の養成の教育機関として意義があるなどという人もあるが-そんなことを言っているのは高専関係者の中にのさらに一部であるに過ぎないのだがー高度技術者養成は研究者養成と両輪で大学が中心的役割を担ってきたおり、実態と異なる。中堅技術者の「中堅」についても同様の”言葉遊び”をしてきた歴史がある。逆に高専から大学の研究者が生まれたりでもすれば、ハシャいで自慢したりする。
 国や政治家に一言申し上げておくと、大学をどんどん増設し大学進学率5割を超えさせておいて、高専1人(高専に進学するのは同学年の1%未満)複線化、つまり、大学制度や短期大学制度から隔絶させるのは矛盾している。大学や大学進学率を増加させておいて、いまさら多くの人は大学に行く必要はない(中学卒業したら多くは高専みたいな学校に行けばよい)とは恐れ入る。政治家憂国の士よ、国を想うてこそ、そのような矛盾の言は謹んでもらいたい。その矛盾はそのまま犠牲者を生む。ちなみに職業高校は3年制で特殊ルートではないから、高専のような複線化に伴う問題(早期から始めて”長期”に”特定”専門分野に縛り付けることのデメリット)はあまり起こらない。

⑮大学は低学力化・大衆化している。より実践知を教えよ。高専を見習え。

 かつて一部のエリートにのみ当てはまった旧来の教養を、現代の大衆化した大学の大学生に教えても馬の耳に念仏である。しっかりとした中間層や堅実な職業人をを育成するためにも「実践知」を教えるべきである。これを行ってきたが高専である。今大学となっている学校の多くは「高専」であった。今、高専が注目されている・・・・・の類の論調である。

 第一に、その大学とやらを大衆化させずに専門学校をたくさん作ればよいだけのことである。単線型教育制度のもとでやるならこれである。逆に複線化するなら、3分の1づつ3コースに厳格に分ければよいだけのことである。半端が矛盾と悲劇を生む。その内容は次章以下で説明する。第二に、大衆・学力中下層を大学にではなく高専に誘ったら最後、比較的高学力層を下級技術職に落とし込むというメカニズムが崩壊し、高専は企業にとってうま味がなくなる。まさしく5年生の職業専門学校として他の専門学校等と差別化できない。第三に、高専は、所詮、大衆化・低学力化した大学としか比較されていないようである。また、高専は無用とされる教養を教えてないことに意義があるようである(馬の耳に念仏だからか?)。第四に、大学が実践知とやらを教えるようになったら、同じ教育方針をもった高専の方が崩壊する。その大衆化した大学は一応4年制で(実践知とやらに置き換えらるにしても)教養課程があるし、その数は高専よりはるかに多い。そもそも高等学校の教育内容が省かれている高専教育の方が”実践知”を教える教育課程の圧縮版となるし、また、マイナーな存在となる。つまり、その大衆化された大学にさえバカにされる。第五に、単なる無知。高専の就職先は昔から比較的よい。矛盾に巻き込まれながらも・・・。その矛盾を自称知識人たちは昭和の昔から理解できていない。第六に、旧制高専旧制高等学校旧制専門学校)と現在の高専高等専門学校)は歴史・存立基盤・学力内容さえ異なる。略称が同じであるだけである。それがわからない人間は自称知識人ですらない。もっともなご高説に聞こえるが、安易安直、浅はかとしか言いようがない。仮に、これが知識人の「善意」であるとすれば、この善意こそが悲劇を生む。

 高専と大学を比べて、高専生は高専入学時の学力は後に大学生となる者の学力より少し低いが、卒業時には大学工学部卒より優るようになる・・・などと言っている例もある。よく使われてきた伝説的とも言える論法であり、近時も、三流大学教授だがテレビでお馴染みの理系学者がそう言い、入試を全廃すべきと、メディア上で言っていた。高専制度の本質と現実を知る者としては、こういうことを言う人に対しては、たとえ東大を出ていようが元は一流大学の教授であろうが“アホばか間抜け大学教授”としか言いようがない(書誌学者の故・谷沢永一教授にあやかって)。なるほど、その三流大学工学部と比べれればそうと言えるかもしれないし、むしろ、そういうところこそ入試や学力試験が機能していないのであるから、入試を廃止しても影響はあるまい。あるいは大学入学試験資格試験を課したが最後、その大学に学生などはいなくなるだろう。初期高専生の中には大学工学部の専門的学力に匹敵ないし勝るものもいたかも知れないが、彼らは高専入学時の学力も極めて高かった。突如として、その著名な大学教授の例を挙げるのは奇異に思われるかも知れないが、実は、高専の現実を知らない者、否、教育の価値を忘れた者に限って、こういうことを言うことが多いので敢えて言及した。第一に、異なる制度で最底辺と上位を比べるのは間違っている。第二に、百歩譲っても、せっかく大学入試で学力を担保した学生たちなのであるから、彼らを徹底して鍛えれ良い人材が育つ。それをしないで入試のせいにするのは、まさに教育の価値を忘れている。また、普通以上の大学ならその程度のことはやっている。第三に、入学時も優秀なら卒業時も優秀である、入学時の学力が低い者は卒業時もやはり学力が芳しくないという層も厚く存在するはずである。当の高専においても、入学試験で数学の出来が悪いものは卒業時の成績も芳しくなく留年退学していく。異なる制度間の一般論として比較した場合、むしろ、高専制度においてこそ、比較的学力が高い層の学習意欲や進学意欲が冷却化される現象が目立つ。

⑯「中堅」技術者、大学工学部「並み」

 諸外国でも教育制度に多様性があり、高専に似ている学校は存在する。
 上述のことに関連するが、より重要なことは、これに「中堅」や大学「並み」という言葉遊びが加わることである。
 諸外国では、特殊な教育制度・複線型教育制度を作る場合、一般の教育制度と隔絶した本当の優秀層のための超エリート教育機関を作るか、または、あまり学力の高くない生徒の進学意欲を冷却化して職業教育や初級技術職教育に誘うという目的のもとに行われる。しかも、後者の場合にはこれに全体の2割や3割等の人間を入れ込む。日本の「KOSEN」が歴史的に行ってきた罪は、「中堅」技術者というあいまいな言葉を、あたかも中心的技術者であると錯覚させたり、学位授与権なし・概して研究貧弱・教養教育大幅削減した学校なのに「大学工学部並み」という宣伝を続け、これに同学年の1パーセントに満たない程度の、しかも、比較的優秀層を誘ってきたことにある。仮に、彼らが下級技術者になれば、高専の言説は嘘になる。但し、企業側にはコストパフォーマンスが高い使い勝手の良い労働力になる。仮に、彼らが上級技術者になれば最初から正式の「大学」に行くべきだったという矛盾を生み出す。中下級技術者にしたいなら最初からそのように明確に位置づけるべきである(日本の教育制度に照らせば、高等等学校職業科+短期大学工業科出の位置づけであることを明確化する)。近時増えつつある初級技術職にさえ及ばない層は、現業職(その多くは作業的労務である)にしてしまえば企業は別に困らない。名称と位置づけがあいまいで特殊なまま、しかも1パーセントもいないので、生徒が同水準の学力層から隔絶され本来の優秀な生徒層まで自分の能力に気づかず大組織の周辺(逆に言うと下級職を独占できる)に追いやられていくのであるーあたかもそれが目的であるかのようにー。「編入学」があるというかも知れないが、多すぎる編入学は教育制度の複線化と矛盾する。これは既に述べた。
 
 以上のような言説のウラに何があるのか、何が問題なのか、筆者のコメントがどう理由付けられるのかという視点も持っていただければと思う。

 

 

 

文献は、章ごとに全タイトルを掲げた。したがって、章をまたがる文献については、ある章で使った文献が、次の章でも出てくる場合、かかる次の章では同じ文献のタイトルを再度掲げてある。この引用方針が不適切な部分は順次更新していく。