追記④ 朝日新聞高専記事「(いま子どもたちは)高専で学ぶ」

 平成30年10月28日から、朝日新聞高専に関する記事が掲載され始める。

 この記事が、たとえ「子どもたち」にとっての高専というアプローチであっても、高専制度の歴史、実態も踏まえた、多角的な視点を提供する、従って論評に値するものであるかどうか観察していく予定である。確か、日経新聞でもシリーズの高専記事があったかと思うが、日経に続く「特集」となっている(後記・注)。

 第一回は、相も変らぬ、お題目が並べられる。「5年間トコトン」「実習重視」「生徒ではなく学生」と呼ばれる(がクラス担任がいる)・・・などである。あらゆる高専関係の記事・宣伝活字の出だしは、いつも同じであり、朝日もこれに倣っている。こうしたお題目の背後にある問題性は既に"トコトン”述べてきたので、敢えて繰り返すまい。また、高専生の一部の学習活動を取り出して、実践的なことを教える素晴らしい教育機関らしいというところも、ワンパターン極めり、である。しかし、そのこと自体はまだよい。問題なのは、これぞ高専、とやってしまう愚である。

 この記事には、ロボット創作などに打ち込んでいるという輝ける生徒が出てくる。「大学入試がないので、やりたいことがやれる」のだという。はっきり言っておく。一般の工学部志望の高校生は、大学の工学部で「やりたいことをやる」をやるため受験勉強をし、就職活動も、その企業でやりたいことをやるため採用試験を受けるのである。否、普通の高校生でも、科学研究部などで、やりたいことをやっている。数学や物理の難問を解くことが今の所やりたいことで、これを将来やりたいことに繋げようという子もいる。

 そのロボットの生徒も、専門分野を深めるため大学に編入したいのだという。では、逆に問わなければなるまい。大学編入に「入試」はないのであろうか?また、専門分野を深めるためというが、多くの工学部生は、その「深い」専門分野にその大学の4年通常のカリキュラムに従って、自然に入っているのである。さらに、現在、大学工学部で「深さ」を求めようとしたら大学院に行かねばならない。そうすると、若年時の専門性の高さは相対的なものに、むしろ、基礎科目を軽んじるために、一般知識の欠落、専門分野についても広さと深さがなくなる。

 高校課程や受験勉強を通じた一般科目の勉強は長い目で見れば人生の糧にもなる。この記事に即して言えば、彼らも「子どもたち」として輝こうとしているのである。少なくとも国立大学工学部や中堅以上の私立理工系学生、つまり理工系学生の圧倒的多数・主力はそのようなプロセスを経て理工学に接近していくのである。高専では早くから専門科目に接して能力を伸ばせる、そして専門科目で工学部に編入学できるのに対して、高校から工学部に行こうとしたら受験勉強やら古文やらまでやらなければならず、大学に入ったら入ったで、無駄な教養科目やサークル活動にうつつをぬかすのが落ち、という勝手な二元的理解では困るのである。早くから専門科目に接して能力を伸ばせる?生徒の数倍の人間が高専制度に押しつぶされてきたのだ。早くから専門科目に接して能力を伸ばしてきたと称する高専生の一般教養はお粗末なものであったのだ。受験がないのでゆとりあるサークル活動ができるなどという宣伝を行っておいて、大学生はサークル活動にうつつをぬかしているとは何事か!自分は趣味の金のためにアルバイトにうつつを抜かしながら、編入学だけはさせろ、というのか?「古文」をやらずに済んだではなく、古文は不要というのではなく、高校からの国立大学工学部志望者こそ高校で古文をやったのだから、試験を緩くしてやればよいことなのである。高校生が工学部を志望する、そのことだけで立派なことではないか。ならば、その者たちを育ててやればよいではないか。

 そのロボットの生徒は、優れた資質を持った者に違いない。大学入試があれば簡単にそれを突破するあろう。そして、大学に1年から入っても、やはり、ロボットをやるだろう。それを批判材料に使うのは酷というかも知れない。しかし、彼を、高専制度一般の美点を説明するためのサンプルにするならば、高専批判のサンプルにもされるということである。「子どもたち」にとっては酷なことであるが・・・。

 記事中、『高専教育の発見』(本文・追記③で批評済み)の著者の一人である高等教育論の研究者によると、高専は一人当たりに公費の投入が多いが、これは、高専が現在の規模に留まっているからであるという。実は、かつて、筆者は、教務主任か誰かが講堂集会の講話で、「公費」投入の相対的な高さを説明されたことを覚えている。中だるみで勉強しない者が非常に多く見られ、退学する者も多いが、公費は国民の税金であることを考えよと。筆者は、その研究者なり、かつての教務主任なりの言葉に違和感を覚えている。公費投入が比較的多い学校とは言うが、それは、高校と比べてのことで、大学工学部には到底及ばないのではないかと。大学工学部は貧窮しているという。しかし、高専の実験設備は大学工学部よりも遥かに貧弱であり、研究室・講座に、助教も、独自の技術職員も、大学院生も、研究員も、いないし置けない。おそらく、高専と大学は目的が異なるという主張であり、公費も「教育」公費の相対的高さを言っているのであろう。しかし、「工学」系で、人材の厚みが足りない、実験設備が貧弱というのでは、ここでの教育を選ぶ子どもたちに、あらゆる面で不利をもたらすであろう。だから、進学するのだということの矛盾については、既に述べた。ましてや、これを増設するなどもってのほかということになろう(増設すれば、現在の高専教育の内容さえ維持できない、というのは「発見」であった)。

 この記事の表題は「子どもたち」ということであるが、その子どもたちを「学生」と呼んで表面上そう扱うことについては、グロテスクな事象とご都合主義的な面があることも再度確認しておこう(第2章、第4章5、終章)。

 ワシントンポストの記事は、高専制度の把握こそ表面的だが、欧米人が高専制度をどのように把握しているかという点で興味深かったから触れた(本文・追記①)。この朝日の記事も読んでいくことにするが、これから展開される高専および高専生の姿及びその背景にあるものは、全て筆者のこの文章で説明できると思っている。説明できないことがある場合のみコメントしようと考えてる。筆者が何も言及しなければ論じるに値しないものとして黙殺していると思って頂きたい。偉そうに、と思うだろうが、筆者は朝日の人たちと違って、高専に身をさらしたことがあるから、この程度の傲慢さ(新聞記者には及ばないが・・・。しかし、傲慢さは新聞記者には必要悪である)も許されると考えている。

 

(注)令和5年11月29日付け日経新聞にも特集が組まれている。相変わらずワンパターンな記事である。筆者はこれを高専による「例によって例のごとし」の「定時爆撃」と考えている。日経、NHK、朝日が高専機構側の宣伝を真に受けて垂れ流す例でもある。

 記事の「内容」はいちいち論評に値するものではないが(既に、筆者がその背景にあるものについてことごとく批判してある)、高専機構理事長が臆面もなく”1学年1万人の学生数は著名大学の学生数を上回る”などと言っているのは(27面)、高専論法、井の中の高専論法である。高専一般と、勝手に特定の大学を比べる「意味」は何か。どういう「比較」なのか理解に苦しむ。県下の工業高校入学定員は、当地の大学工学部入学定員を上回る(現業職と技術職の割合)、私立理工系はもちろん、国公立理工系と比べてもはるかに少ない入学定員と教員構成(高専の規模と人員の貧弱さ)という比較ならまだわかるが。高専教育の「内容」の他にこの種の「論法」についても既に筆者が言及したところなので、各章を参照されたい。

 なお、高専出身者として挙げられている人物中1名は中退・大学工学部一般入試受験者である。さらに、同日の日経新聞に出てくる一流企業で開発設計職にあるという”半導体人材”は高専出身者などではないことも付言しておく。