追記③ 『高専教育の発見-学歴社会から学習歴社会へー』書評

 私筆者は、前章までを書き終えた後、矢野眞和ほか編『高専教育の発見-学歴社会から学習暦社会へー』を入手し目を通した。

1.第1章「この発見に向けて」

 高専制度発展の概観。神戸高等工業学校からタコ足化した神戸大学教養部・工学部への変遷過程を例として、産業界から不満のあったとされる新制大学工学部を扱っており、これには興味深い部分もあった。また、旧制工業専門学校からの新制大学工学部への転換期ではなく、あるいは1960年代の高専創立時と同時に大学工学部の大増設が重なったことの問題とも異なる「大衆化した大学工学部が機能分化を進めその一定部分は中級技術者となった」(20頁)局面を迎えているのは、近時の高専関係者の問題意識である。その確認。      

 しかし、「意図せざる教育実験」(21頁)は腑に落ちない。私はこれに引っ掛かりを覚えながら本書を読み進めた。これについては、本書を読み進めて最後に言及することになろう。

 神戸高等工業学校の変遷の他に、本章について、私筆者なりに興味を覚えたのは、OECDのコメントである。これが本書批評の第一になる。本書2頁以下では、OECDレビューが高専制度に高評価を与えていることに加えて、次のような高専の学生に対する評価を与えていることが引用されている。

 

「理論上は高等教育向きではない生徒も、中学を卒業した時点で高専に入学して、その後5年間から7年間にわたって工学や経営学の応用面に力点を置いた教育を受けることができる。・・・・他のOECD諸国では、かれらのような生徒は高校に進学しても中退してしまう可能性がある。中等教育段階および高等教育段階における日本の若者の選択肢の多様性には瞠目すべきものがあり、日本の教育システムの長所の一つである。」

 

 このOECD評価に対して、高専で企業や経済に関する科目を担当しているという著者は、「とくに学生に対する上記の認識は、さっぱり理解できなかった。高専のカリキュラムは工学教育の基本に忠実で、筆者担当の科目などは“異端児”である。『経営学の応用面に力点』はなく、筆者もその必要を感じなかった。また、高専の学生は中学の成績も上位で、高専卒業後に国立大学工学部へ進学する者も多い。かれらが高校を中退する層であれば、日本の高校には誰もいなくなる」という。

  だいたい、OECDなど国際機関は外国制度の把握がそもそも不正確か、不正確と知ってトンチンカンな提言をしてくることも多いのである。私筆者は、高専の生徒はそんなものではない、という著者の懸念もわかるが、しかし同時に、OECDの指摘もある程度は理解できると考えた。

 第一。高専は専攻分野を拡大して経営学や経営情報学の分野を有しているが(高専全体から見れば微々たるもの、しかも、単に実験的にあるに過ぎないのだが・・・。この点、私筆者の文章の第5章5節及び第6章。以下、( )内の章は私筆者のこの文章の章)、OECDが言う経営学云々は、この専攻としての経営学のことではなかろうか。この著者が担当しているという概論科目としての経営学のことであれば、高専において、これをして応用面に力点を置くことは単に“不可能”か“無意味”であるに過ぎない。必要性を感じる以前の問題である。

 第二に、それは一部あたっている。①従来からの留年退学問題と②学力の二山化問題である。

 第三は、大学システムへの抑制と撤退の観点。少なくとも狭義の大学システムへのアクセスは抑制ないしこれから撤退させるべきというのは、ヨーロッパやこれに影響を受けた諸外国の教育制度に組み込まれた考え方である。これを単純明快に実現できる仕組みが複線型教育制度である(第9章8節)。このような理解からは、通常の大学進学コースー日本で言えば普通科高校からの大学受験。ヨーロッパではギムナジウムやリセを経て、アビトゥア・バカロレアなどの試験を受験ーから抑制・撤退させられるべき層が生じることになるが、しかし、彼らに専門的教育が不要なわけではなく特に職業に重点を置いた教育が必要となる。我々はOECDが暗にある前提を持っていることに気付かねばならない。OECDにおいては、大学システムとは別建ての教育機関には「理論上は高等教育向きではない生徒」を流入させるべき、あるいは少なくとも、高等教育機関を学力層によって差別化させるべき、と考えているのである。このような前提があるからこそ、日本の高専制度では、抑制・撤退させられべき層が高専制度に流入し高度の専門教育を受けることが出来ていると解釈しているのである。

 私筆者は、高専制度は比較的優秀層を集めているが、単線型教育制度の元では逆にこの優秀層に抑制と撤退が生じてしまう。一方、わざわざ別立てのルートを作りその同じルートに閉じ込めたにも関わらず、低学力層も含むにもかかわらず、高専の一般大学への進学率が過熱しているのは矛盾だとも指摘した。一方、上述の通りOECDの見方では、高専制度は、大学ではないが比較的高い水準の「専門教育」システム又は大学とは異なるアプローチの教育を行うシステムと理解し、これに、余り学力の高くない生徒が流入しても、あるいは流入させても、相応の教育を完結させることが出来ると考えているわけである(大学システムへは抑制・撤退、非大学システムにはwarm up 昴揚 )。なぜ、同じ教育システムに対してこのような見方の差が生じるのか。それは、-繰り返しと確認になってしまうがー、高専側が、大学システムへの抑制と撤退をさせたうえ職業教育システムに分岐化・多様化するための複線的制度を、何としてでも大学「相当」と位置づけようと「宣伝」し続けた歪な「努力」のためなのである。高専を単純に大学システムと切り離された職業教育システムときちんと位置づければ、ここに流入する学力層はせいぜい中上位程度であり、少なくとも、学力層と教育内容は整合的になるはずだというのに・・・。著者が言う「工学の応用面」云々についても「大学工学部並み」だの「創造的」だの、さらには教育スローガンに「応用力」という言葉をそのまま用いたりと、してきたの高専側であるから今更「基本に忠実」というのは頂けない。

 次に、高専の人気が落ち、OECDが言うように「高等教育向きではない」「高校に進学しても中退してしまう可能性」がある層が集まる気配を感じたときに、高専は何をしたか。自分らで大学同等システムと称しておきながら、今度は、通常の大学システムにさらに接ぎ木できるとしたのである。高専制度が成熟した後は、この措置によってこそ、高専は生徒の質を何とか保ち、かつ、現に多くの大学工学部への進学を見たのである。

 確かに、著者が懸念を示したように「理論上は高等教育向きではない生徒も、中学を卒業した時点で高専に入学して・・・工学や経営学の応用面に力点を置いた教育を受けることができる」というOECDの指摘は必ずしも正しくない。高等教育向きでない生徒に、工学や経営学の応用面に力点を置いた教育を施しても「身に付かない」からである。この感覚は、現に教育に従事する教育者であってこそ始めてわかる。あるいは、そういう指摘をするなら、大学が大衆化した日本では「理論上は高等教育向きではない生徒も、18歳時点でどこかの大学工学部や経営学部に入って工学や経営学の応用面に力点を置いた教育を受けることができる」とでも言うべきであったろう。その意味では、OECDは日本の高等教育システムの全体を把握できていない。しかし、このようなOECDの理解こそが、高専制度がねじれていることの表れなのである。理論的に高等教育向き、大学システム向きの生徒には、素直に大学システムへアクセスさせればよいのである。わが国では、研究型の最上位大学とは言わないが、中堅上位の大学群が「工学や経営学の応用面に力点を置いた教育」を正に「実学」として担ってきたからである(第10章)、それどころか、冒頭で著者が言ったように「大衆化した大学工学部が機能分化を進めその一定部分は中級技術者となっ」ているという現実さえもあるからである。矛盾の上に矛盾を重ねて、見えなくしたつもりが、OECDのコメントによって、うっすら見透かされたとも言えないか。

 なお、アメリカは単線型教育制度であるが、実は、コミュニティカレッジが高校卒業後の進路を抑制する機能を持っているともいわれる。あるいは、複線的な教育制度をとっていた国においても、大学・高等教育への流入は増加しているか、むしろ複線モデルに対する反省もあると言われる。しかし、仮にそうであっても、高専のように複線型モデルにもかかわらず、「法制度」とその「運用」に、「学力」による「区分」に、歪さをもたらしている点は、散々指摘した通りやはり重要であって、以上の問題意識は必ずしも間違っていないものと考える。

 2.第2章「見えない『高専卒』学歴の効用を明らかにする」

 本章は、前章「高専教育の実践性?」で私筆者が引用した「『実践性』から見た高専教育」論文の著者と同一人物によるものである。47頁以下、同一データを根拠に、「社会全体の中に位置づければ、高専卒の学歴は、大企業・技術職への就職しやすさを介して、一般に望ましいと認識されている職業キャリアへのアクセス・ルートを提供している」と結論付ける。にもかかわらず、なお、「高専本科没落説」が受けれいれられてしまう原因は、ある呪縛があるからではないか、それが「大卒同等説」「初期高専像」の呪縛である。しかし、筆者はこの呪縛からも解放されていると見るべきかもしれないという。例えば、(1)高専への進学動機には、かつて大きな割合を占めた経済的な理由のほかに、①就職のしやすさ、②技術に興味があったから、というのも増えてきている。(2)「給与」や「昇進のチャンス」が「とても適切」と答えたものが約7割いる、ことを指摘する。

  このあたりが、本章の要約であろう。データの取扱いについては、私筆者の前章におけるコメントを参照するとして、しかし、上記の結論と理由付けに対しては批判せねばなるまい。

(1)「社会全体の中に位置づければ、高専卒の学歴は、大企業・技術職への就職しやすさを介して、一般に望ましいと認識されている職業キャリアへのアクセス・ルートを提供している」ことなどは、「一般に望ましい」かどうかは別として私筆者は百も承知なのである。あえて言うなら、「見えない」どころか経済力の低い家庭の親や子弟にはその“黄金の橋”が「見えて」いた。日本では給与が所属企業の企業規模で決まりやすい。その有難い大企業に受け入れやすい適度な学歴と教育を得させ、下級技術職・技能職・現業職を独占させるという構造に、本来ならしかるべき高等教育にアクセスできる層を巻き込むというシステムを問題にしてきたのだ。

  1. 「社会全体」の中ではなく、「同一学力」「同一企業グループ」の中で比較すれば、そうではない。
  2. 待遇云々もさることながら、その能力を持った者が受けるべき得るべき教育内容、最終の社会的地位の問題としても把握されなければならない。
  3. 社会システムの妥当性。(ⅰ)大学高等教育のバランス問題、(ⅱ)企業規模による給与決定システムが妥当かどうか、(ⅲ)技術とは何か。

 例えばどうであろう。中堅より下位の大学工学部を全て高専にしたとき「大企業・技術職への就職のしやすさを介して、一般に望ましいと認識されている職業キャリアへのアクセス・ルート」が皆々に行き渡るかどうか。大学システムにアクセスした者が相対的に損をするというのであれば、大学を減らせばよいだけである。もちろん、高専を増やせというのは著者の主張ではないし、むしろ増設策には慎重であるべきという(後述)。しかし、この”きわどい”バランスのうえに高専が成り立っていることを著者は知っているはずである。

(2) 「大卒同等説」の呪縛? 「大卒同等説」「初期高専像」を喧伝してきたのは当の高専側ではないか!「大卒同等説」こそが高専制度を形作りこれに生徒を招き入れてきたのである。

 その待遇に満足というのは、高専卒は高専卒だから、待遇は大卒・院卒とは異なる独自のものとして確立されたからに過ぎない。まさに、大卒同等説から逃れればそのように言える。そして、もちろん、制度に対する「満足」度は、このようにしか計測できない、ということは私筆者は理解できる。しかし、どうせ高専なぞはそんなもん、あるいは、大企業に勤められればそれでよいし高度の科学技術やそこでリーダーシップを取ることをあきらめている、という意識も背景にあるのではないか。かつて、工業高校の入学者の質は高く、企業にも技術職で入社できた時期があった。ところが、ある時期から、ほとんど現業職としてしか採用されなくなった。それは、工業高校出身者と工業高校の地位の低下をもたらした。そのような歴史を有する現在の工業高校生徒で大企業現業職になりえた者に「満足度」のアンケートを取ったら、軽く7割以上が「満足」と答えるであろう。では、現在の工業高校を、職業教育のモデルとすべきと単純に言えるだろうか。現在の工業高校出身者の「多くに」満足度が増すであろうか。私にはそのようなことを頭に浮かんできている。

3.第3章「高専教育の成果は豊かな職業的キャリアをもたらすか」

 「高専で学んだことは仕事に役立つ」ということを高専卒業生データから示すことが本章の役割であるという。それが示されたからといって、高専の、高専生による回答の、高専のための分析、などと揶揄してはいけないだろう。こういうアプローチは象牙の塔であり「役立ち」を前面に出さない大学工学部の方こそ活用したら面白いし、後述するように、本研究もそれを前提としている。もちろん、これに依拠して、大学が「役立つ」ことだけやれといのでは「工学」にとっても重大な危機をもたらすだろうから、あくまで参考資料であるか、あるいは「役立ち」を強調しない方が逆に長い目で見て「役立つ」ことを証明してくれるかである。

 ここに掲げられたデータについて、やはり本書の終章と絡めて言及したい。

 さて本章では「高専でよい成績をとることは、学歴を統制した上でも所得を増加させるような効果を持ってる」として、高専自体での勉学が所得によい影響を与えていることを指摘する(58頁)。一方、同時に「高専本科業後の進学が有意に所得を高めている」として進学の効果も認めている。しかし、「『高専卒』と修士以上の学歴をもつ者とで、企業側から異なる賃金カーブが設定されている」可能性を指摘して(59頁)、「所得・所得についても・・・学士卒学歴との間には有意な差は見出せない」とする(73頁)。つまり、進学することは有意だが、所得格差が現れるのは、高専卒と修士卒との間においてであるというわけである。

 結論として、「企業規模やキャリア選択が同一水準であると仮定すれば、本科卒業生は確かに学士卒よりも相対的に低い賃金を受け取るが、実際はよい企業に勤めよい選択をすることがで、そのハンディを挽回している」(73頁)。第2章とほぼ結論と同じである。その結論については、私筆者は前項でコメントしてある。 

4.第五章 専攻科は高専を変えるか

 高専専攻科の現状分析である。

 必ずしもよく知られていない高専専攻科の実態であり、高専専攻科あるいは高専制度そのものをよく知らない人には、興味深い内容となっているかもしれない。私自身は高専専攻科を経験はもちろん見聞も殆どしていないので、逆に興味深く読んだ。

 ここで目に付いたのは、所得データ分析で専攻科を修了して学士を取得したことの効果は極めて小さいとされる一方、就職後の定着率や開発設計職への就職率は、本科よりも専攻科が高いということであった(109頁。高専本科卒の離職率はかなり高いと言われている)。一方、大学編入の場合は学士取得の効果が現れているとされているという(119頁(注)書き)。

 著者も指摘するとおり専攻科は「中途半端」かも知れない。しかし、私筆者は、中途半端というよりも、高専が内包してきた問題を専攻科もまた内包しているのではないかとの印象を持った。かつて、初期高専卒を含む所得調査において特に目立つ企業側の回答は「職務能力同等の場合に、「業務は大卒同等・給与は大卒以下」であったはずだ(『国立高等専門学校30年史』61頁。野村『学歴主義・・・』102頁でも引用)。このことは高専の歴史において高専生が最も不満をもってきたところではないだろうか(職務区別、給与区別ならまだしも)。上記の結果は、まさに、それに適合している。また、そうすると、高専生側にとって所得における重要な分岐点は、学士かどうかよりも大卒かどうか、ということにもなる。もちろん、別の可能性もある。著者も示唆するとおり高専専攻科卒の地元志向である。大都市に出るよりも比較的給与は低いが、開発設計職について中心的存在に近い立場になるという選択肢を敢えて選んでいるのかも知れない。但し、そのことは、地方大学工学部にも言える。特に地方国立大学を出て地元大手または大手の地元事業所に就けば、たとえ学部卒であっても技術者としてもそれなりの地位が得られる。あるいは中堅以下の大学工学部でも地場・地元工場からの引き手はある。むしろ、学部卒でそのまま地元に就職するメリットはこれらの点にある。そうすると、専攻科卒か大卒かの比較、大卒のどの階層と比較対照とされ得るかの問題はここでも発生することになるわけで、単純には行かない。

 高専が期待を込めて作ってきた専攻科もまた高専ならではの問題が生起するところに、問題の根深さを見る。高専制度が成立するときがそうであったように、高専専攻科もまた玉虫色の策であったのであるから(第10章5節)、当然と言えば当然の帰結かも知れない。高専関係者ー特に研究意欲が強い中堅若手教員ーの中には、専攻科は一流大学大学院へのバイパス(大学院に行く為の専攻科、大学院に行かなければ専攻科に行っても意味が無い)と割り切っている者も多いとも聞くが、それが私筆者の一つしかない見聞である。

5.第4章、第6章から第8章

 第8章は前章「『実践性』からみた高専教育」に重なる部分があるが、著者が異なる。その他の章は、第6章を除き(注)、教育調査としては有意味だとしても高専教育の本質との関係では特に知見は得られなかった。第4章は「女子」を扱っており、最近ホットなテーマであるが、ここでは論評しない。

6.終章「学歴社会から学習暦社会への道―「高専モデル」の提唱」

(1)著者は、厚生労働省「賃金構造基本調査」が短大卒を含むものとして、必ずしも高専卒の実体を表していないことに懸念を示す。政府統計が大卒・院卒が高専・短大卒より30パーセントも給料が高いことを示していることに対しては、本書第三章の分析データも持ち出し、実際は、大卒は高専卒より8.8パーセント給与が高いだけ、修士院卒は、高専より24パーセント給与が高いだけ、なのだという。

 まず、前章「高専教育の実践性?」で引用した「『実践性』から見た高専教育」あるいは第二章における給与は何だったのだろうか。本書第三章のデータは統計解析によって得られたデータであるが、こちらの方が信頼できる数字だというわけである。しかし、まあ、これはよいだろう。別にデータを入れ替えたわけではない。問題にすべきはその評価である。大卒は高専卒より8.8パーセント給与が高い、修士院卒は高専より24パーセント給与が高い、というのはかなり大きな数字に見える。学歴取得に要する費用とその後の就業年数が給与差に見合ったものかという分析は、それこそ、この著者の得意分野のはずである(第9章6節)。せっかく、ここまで大々的な調査をしたのであるから、それを示してくれれば、わざわざ大学に行く必要はない、高専卒も学歴として武器になる、といえることになろう(もっとも、私筆者のたっての望みを聞いて頂き、仮に望ましい結果が出たにしても、筆者は高専の「教育内容」を皆様におすすめすることは出来ない)。

(2)次に、言う。本書第2章の論考を元に「所得だけでなく、学業成績や職業移動からみても『高専没落説』は必ずしも現実を表現していないことが明らかになった。これは大きな驚きであった」(220頁)という。

 何が驚きなのか。この章のデータには問題が多いことは既に指摘した。「呪縛」「没落」の捉え方についても既に批判した。しかし、ここで、話を引き伸ばすとするならば、次のように言うことが可能であろう。「初期高専」からすると確実に没落している。では、定常期に入った高専はというと没落も発展もせず、わずか同学年1%に満たない生徒を巻き込みつつ、社会の片隅にそういうものとして存在してきたに過ぎない。しかし、見えないところで没落は始まっている・・・。

(3)224頁以下「『いい学校を卒業して、いい会社に就職したい』という見えるところだけ見る学歴競走に拍車がかかる。教育内容を空疎にするこうした学歴競争は決して健全ではない」として、①職業資格制度導入と②仕事の経験を学歴に逆写像するという発想を提案する。

 ①はドイツ等との比較において、わが国の職業教育政策上かねてから問題とされてきたことだし、②自体は例えば論文博士制度などで一部取り入れられてはいるが、日本では、確かに希薄な意識である。確かに①②自体は理念的には正しい面もあるかもしれないが、しかし、そもそも著者が問題とする「いい学校を卒業して、・・・」というのは高専にも当てはまることを忘れてはならない。「高専卒という学歴を得たら大きな会社に行ける」というのは、高専の宣伝に使われてきたし、特に経済力の低い家庭の子弟を引き付けてきたのである。あたかも、第2章の著者が「高専卒の学歴は、大企業・技術職への就職しやすさを介して、一般に望ましいと認識されている職業キャリアへのアクセス・ルートを提供している」と結論付けたことは既に述べたが、このことはこの終章の著者によれば「教育内容を空疎にする」と形容されることになってしまうだろう。私筆者が第2章において批評した点は正にこのことなのである。

(4)さて、著者は、高専研究の旅は「生涯教育の発見」に辿りついたとしつつ(217頁)、「社会実験としての高専モデル」の節(226頁以下)で次のように述べる。

 

 「『高専モデル』を設計するのが有力な社会実験である。学習暦社会の新しい展開を設計する上で都合のいい社会資源を高専制度がすでに保有している。何より専攻科がある。・・・・しかも高専は全国に展開され、地元企業からの信頼も厚い。さらに、技術科学大学がある」。

 

 私筆者は、この章の標題を見て、夢も何もなく学歴だけを目的として大学工学部に入ってきた連中に対して、学歴ではなく「実力」で勝負してきた高専モデルを評価すべきである、はたまた、高専卒は学歴競争に巻き込まれず「技術」に若くから親しんできた、などという例の図式を持ち出すのではないかと気構え、それに対する反論を準備しながら読んでみた。ところが、それですらなかった。そこには、学習暦社会がなぜ高専という独自システムとつながるのか、その理由がまったく不明の一節があるに過ぎない。高校も全国にある。短大や大学も全国にある。大学院なぞも一県に理工系を含めていくつも研究科がある。学習暦社会の価値を認めるとしても、より普遍性のある高校モデル・大学モデル・専門学校モデルへにおいてこそ学習歴を積み重ねやすい。実態としても、日本人の圧倒的多数は高校モデルを経由している。むしろ、そのモデルを経由した者からは、5年一貫の高専モデルに対してこそ接近しにくい。まったく意味不明の論法である。

 学習暦社会と整合的な?高専制度を拡大発展させようとしているのかというと、そうではないらしい。それを示唆する文言は一切ないし、繰り返し「社会実験」と連呼していることから、著者は、高専制度に拡大こそ望めないが、この社会実験から大学等教育機関は学ぶべきであり、有意なサンプルも得られると考えているようなのである。あたかも筆者は「高専に限らず大学にも通用する構想」とことわっているし(227頁)、「あとがき」においても別の編者が「本書の高専モデルの提唱は、類似の高等教育機関の拡張を訴えるものではない」と言っている(230頁以下)。彼らも一流の学者である。彼らは、高専制度が"きわどい"バランスの上に"人知れず”成り立っていることに気づいているのである(一流の学者ではない私筆者は、矛盾と欺瞞の上に成り立っていると、理解したわけであるが・・・)。仮に「社会実験」の成果-その論理は意味不明であることは上述のとおりであるがーとやらを認めるとしよう。しかし、実験には「代償」も払われる。本書の冒頭で「社会実験」の語に引っかかりを覚えたことは既に述べた。むしろ、社会実験による代償の方こそ大きかったのではないかとの疑問が、本書の評論を含む私の一連の文章にあり続けたことを今更ながら確認している。

 

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 第六章 高専生の自負と無念さー卒業生の自由記述より

 

・世間での高専への高いイメージと高専卒の誇り

・実験・実習に裏づけられた実践的で幅の広い専門教育

・楽しく面白かった専門教育と理論・基礎への興味

              

・大卒より安価な労働力とブルーカラー化の進行とうい現実

・大卒と比べて基礎部分が不足し、深さを欠くとされる専門教育

・レベルは高いが専門科目や仕事とのつながりが見えない数学

・人文社会系に弱く、英語力は絶対的に不足

・ものづくりへの自負の一方で、アイデア・課題解決・本質把握は要改善

 

 前者が高専の美点・目標・アッピールポイントあるいは高専生の自負であり、後者がそれに対する論者や高専不適合者の批判と思われるかもしれない。

 同書による大々的なアンケート調査(その内容は同書の巻末を参照)には自由記述欄があった。実は、そこに「卒業生」が書き連ねたものの教育学者による章立てがこれだったのであるが、これらは高専に対するシンパシー(高専教育への満足度及び現在の仕事に対する満足度が高い層)が相対的に高い卒業生によるものであるというのである。ちなみに、高専に対するシンパシーが高く、しかも、おそらく高専優秀層である彼らと違い、私筆者は高専では優秀ではなかったし、高専に対するシンパシーなど欠片もない。またこの章の執筆者と違って、その声のも耳を傾けるべきであるとか(同220頁)、「高専という曖昧な峡狭間から独自性の発揮に向けて」などという章立てをすることは無意味だと思っている。

 私筆者がこれを取り上げて云々するのはフェアーではないかもしれない。そこで、あえて注書の形で触れた次第である。