第10章ー実践的教育は高専の独占物ではないー

 高専教育の残る拠り所は、「実践的」「実習重視」「即戦力」ということになる(この章を読めば、企業の採用担当者が言い、高専関係者が真に受ける、高専生の専門性とやらがどの程度に位置づけられるかを理解するヒントになろう)。実習重視は設立当初から行われてきたことであり、確かに時間数が多い。高専は、大学との差をこのような教育目標に求めてきた。ところが、このような、教育目標は、実は、明治時代に体系的な工学教育が始まったときから言われていることなのであり、何も高専発祥のものではない。確かに、各種の工業系の学校が大学に昇格するにつれて、この「実習」「実践」「実技」の価値が薄れていった時期はあるが、これが致命的な効果をもたらしたのであろうか?ここでは『東京工業大学百年史 通史』(以下『百年史』)を題材として選び考えてみたい。工業教育史・研究史には厚い研究が積まれているだろし、下記の内容程度のことは理工学を学んだ者なら周知のことであろうが、仮定的に以下のような問題点を指摘しておきたい。

1.製作学教場から東京職工学校、そして、実業専門学校へ。

 『百年史』では、始めに、東工大の前身である工部大学校の編成上の主義としては、ドイツ・フランス流の「学理中心の教育」とイギリスの「実技中心の教育」の折衷がなされたのだという(9頁)。ところが、大学制度が確立されるにつれて様相が変わってくる。実技も大事であるはずの工学教育において、実技的要素が大学教育の現場から薄れていったのである。そこで、かの手島精一は自らが守ってきた「製作学教場」の理念を引き継いだ中等程度の工業技術の教授を目的とする工業学校の設立を熱心に建議し、ついには、東京職工学校設立に至ったのである(24頁以下)。この職工学校の教育編成には、「実技」「速成」なる用語が見え、職工学校は実習中心教育、速成教育が明確に謳われていて、帝国大学とは役割が異なった(89頁)。

 その後、「職工」という言葉へ誤解と教育内容の実際から、校名は東京工業学校となる(113頁)。さらに各県に(中等)工業学校が設立されていくにおよび実業学校令が制定される一方、実践的な工業教育の先駆者である東京工業学校は専門学校令による実業専門学校になった(193頁)。ついには、大学昇格運動が起こり、東京工業学校は戦前には東京工業大学となることは周知のとおりである。この大学昇格に際して専門学校的なカリキュラムが見直され、工業に関する広範囲な研究と教育を目的とするにふさわしいカリキュラムとなっていった。

 一方、戦前において、実業専門学校の全てが大学への昇格したわけではない。各地方には特色ある実業専門学校が設立され確立されていた。この実業専門学校のうち工業系は、実験実習(製図を含む)が重視され、週39時間の授業のうち、3分の1程度がこれに当てられたという。また外国語を除き教養科目はほとんどなかった(天野郁夫『高等教育の時代(下)』231頁~233頁)。言うなれば、東京工業学校的な教育理念は各地に波及していたのである。また、地方の実業専門学校において重要なことは、成長する産業資本のより直接的な人材養成が深くかかわっていたことである。例えば、秋田県における鉱山、群馬県における染織は有名で、その地区の工業専門学校は校名にその分野の産業名を冠し、かつ、その卒業生はその産業分野のリーダーとなっていったのである(天野郁夫『大学の誕生(下)』154頁)。

2.旧制工業専門学校の理念は新制大学工学部で失われていない

 以上に概観したように、日本の大学レベルの工業教育が、最初から、実技教育を軽視してきたわけではない。ヨーロッパ等と異なり、日本では工学高等教育が先ず大学(ユニバーシティ)で導入されたされた自体が重要なのであるが(例えば、この点に関するものとして、参照、功刀滋『なぜ日本の大学には工学部が多いのか』50頁。なお『百年史』はイギリスの実技中心教育に言及しているが、そのイギリスでは、技術教育は「機械工講習所」に始まり、技術カレッジ設置、大学への技術教育導入と進んできたのである(E.アシュビー著/島田雄次郎訳『科学革命と大学』83頁以))、その大学工学教育の内容が、制度の発展とともに学理重視の研究教育に移行していく過程で、逆に、実技教育こそ重視しなければならないとして東京工業学校や実業専門学校が発展していったのである。これらはのちに制度化され高等教育制度を占めるのであるが、それら学校における実習時間数も申し分ない。先ずはこのことを確認せねばなるまい。

 次に、確かに、東京工業学校は戦前にいち早く大学となり、実業専門学校も戦後ほとんどすべて大学となり、上述のようにカリキュラムが大学の研究教育用に編成されていくから、実技的要素が薄くなった可能性はある。しかし、工業教育の変遷や伝統を見たときに、実技・実践を軽んじる風潮が蔓延したとは言い難いし、そのようなことは工学の研究教育において不可能なのである。

 例えば、制度上は専門学校である早稲田の理工科が当初は「実用」を重視し高等工業をモデルにしていたが、「大学」の名称に憧れた学生からその実用重視や高等工業学校出の教員に不満を持ったりしたということもあったが(天野郁夫『大学の誕生(下)』108頁)、これは早稲田の「大学志向」が一時的に実用教育を軽んじようとする風潮を生み出したことを示している。同様のことは、地方の官立実業専門学校にも見られる。官立の旧制実業専門学校が大学に昇格する際には、大学昇格にふさわしく「一般教養の重視」するカリキュラムが組まれた。例えば、後発・戦時に設立されたものではあるが、官立の旧制実業専門学校からの歴史を有する新制鹿児島大学工学部のカリキュラムは、教養科目が1年半54単位である一方、専門科目が2年半93単位・うち実習科目が4分の1程度であるから(神田嘉延「鹿児島大学工学部の創設期の教育状況―稲盛和夫の学生時代の背景」鹿児島大学稲盛アカデミー研究紀要の巻末に掲げられた昭和35年・同大学工学部応用化学科カリキュラム表。これは昭和35年時のものであるが、証言から昭和20年半ば頃とほとんど変わっていないという。実際のカリキュラム表が掲載されていることから引用した。但し、本稿には、用語・固有名詞に混乱が見られる)、旧制実業専門学校に外国語を除き教養科目が存在せず、3年間で実技が3分の1であったのと比べると実技の割合が少ない。しかし、この鹿児島大学工学部の例で見たときに、実技科目は減ったが、決して致命的ではなく一定水準は保っているし(専門科目単位の4分の1)、実験に力が入れられなかったのは、昭和30年を過ぎてもなお日本は貧しく実験設備がままならなかったことも考慮すべきである。逆に、器具も無い、何も無い中で、教授と学生が協力して機器を手作りしなければならないという(前掲・神田263頁。実は、このような実例は戦前からの旧制工業専門学校の歴史を有する新制大学工学部において、多く見られる)、ある意味では、最大限に「実践力」を要する場面に向き合えたのである。さらに、この鹿児島大学工学部の例で見逃せないのは、他学科の科目を自由科目として履修できることで、ツブシが利く結果にもなった。

 早稲田の例は早稲田らしいと言えばそうかもしれないが、この鹿児島大学の例は、おそらく、多くの戦後直後に設立の新制大学工学部や私立理工系大学にもあてはまるのではないだろうか。仮説的だが、東京工業学校がそうであったように、昭和30年以降も新制大学工学部は、教養部設立にもまれながらも、学理偏重への反動を内包し続けてきたのではないか。これが工学という学問の性質上当然起こるべくして起こるのではないか。先発の官立工業専門学校の後継校はどうだったのか。先の秋田大学鉱山学部はどうだったのか。あるいは、群馬大学信州大学繊維学部はどうだったのか、あるいは東京農工大学はどうだったのか、あるいは東京や関西の伝統理工系大学群はどうだったのか、を丹念に調べていく必要があるだろう。

 もっとも、仮に大学工学部卒に実践力の低下が見られるとしても、その実践力の低下は、企業社会の実地に入れば縮まることも考慮すべきである。日本企業における企業内教育やOJTは有名であったし、高度成長期の時期では、とにかく人が入ってくれれば、どうにかモノになる人材が育っていったのである。そして、現在では、科学技術の急速な進歩によって、工学教育が長期化・後ろ倒しされている。現在の修士課程の教育は工学者になるためのあるのではなく事実上「実践」の場となっている。大学院修士課程修了者の大量採用はこれを反映している。早め実技を教えるメリットが少なくなっているのである。また、教養部改革によって専門科目の導入に工夫が見られるようになった。例えば、専門科目の基礎を前倒しして、学部後半は実習や研究に大きな時間を取ることも可能になったのである。

 あの「実践的教育がよかった」と思うのは全く自由だが、旧制工業専門学校の歴史を有する地方国立大学・私立大学を無視して、宣伝に使える文句ではないのである。筆者もよくわかるのだが、高専においては特に初期から中期にかけて、旧制工業専門学校出身教員が多数存在した。彼らの多くは企業で技手から出発して技師となった経歴を持っていた。彼らが、高専生に向かって「中堅技術者たれ」と言っていたのでる。また、高専には地元の国立大学工学部の修士や博士を出た教員も多かったが、彼らも、自分たちが大学で受けたような実験とレポートを生徒に課してきた。むしろ、後述するように、若い博士が、高専の教育に活気を与えたりした。このように、人的にも高専は大学工学部の実践的部分について大きな影響を受けてきた。最近では、大学工学部による実践的教育の試みを高専側が勝手に「大学の高専化」???(高専内部でしか通用しない概念)などという説明をすることがあるが、歴史を見れば明らかなのである。それは「大学工学部の旧制工業専門学校的な実践教育への回帰」「大学工学部の本来のあり方」とでも称すべきものなのである。

3.高専の意義は何だったのかー旧制工業専門校と代替する存在ではないー

 確かに、産業界は、旧制専門学校等に比較しての新制大学工学部卒の専門的能力に不満を抱いていてもいた。これが、新たな学校設立の契機となっている(天野郁夫・前掲『日本的大学像を求めて』214頁以下)。ところが、上で見たように、旧制工業専門学校の伝統を有する大学工学部の内包化された実技志向もあって、産業界と同じ問題意識をもった、あるいは産業界の要請を受けた大学関係者や当局の取り組みがタイムラグを生じながらも功を奏し、産業界の不満は意外に早く解決され、その継続期間も短かったではあるまいか。また、高専設立の昭和38年頃には、旧制実業専門学校の伝統を持たない新設の国公私立大学工学部も大量に増設されているが、これらの新設大学工学部が産業界の要請を無視したはずがないし、そうした大学工学部の学生数は高専よりはるかに多く厚くなっていった。

 大卒も実技教育を受けていないわけではないし、むしろ、実技教育に回帰し、さらに彼らが企業で実務を積むうちに、実践力の差が縮まってくる。そうこうしているうちに、工学教育の主流は大学院修士に移っていくことで、産業界の不満は時の経過とともにいよいよ薄れていく。産業界特に大企業が、その後大学工学部卒に対して不満を表明し続けたのであろうか。また、高専卒の中には研究開発部門における実力を認められた者も多かったであろうが、何しろ、大卒大量採用の時代であり、高専の割合は大きくないので全体における効果のほどが計量しがたい。新制大学工学部卒に不満を持ったはずの産業界は、新制大学工学部卒に“代えて”まで、そのすばらしい高専卒のさらなる“大量供給”を要求してはいない。「実践力」「実技」の能力の差は大卒と高専卒とで相対的に留まったのである。そして、野村氏も指摘するように、「中堅技術者」を定義できなかった高専は1981年に至ってやっと高専は「実践的技術者」を養成する学校であるとしたが、逆に言うとそれまで、高専は明確な教育目標を持っていなかったことになる(野村正實『学歴主義と労働社会』98頁)。しかし、その「実践的」という目標既定についても、筆者は疑いを持っていると言いたいのである。歴史的には、高専側は自分たちの教育を大学工学部相当とか、卒業生の能力はおおむね大学工学部学部卒等と標榜してきた。年限が短く文理の基礎教育は薄いため、結果的には、大学工学部圧縮省略版となった。確かに実習が多かったが、「大学」相当などと称して入学者を誘い、とにかく教育だけでも「大学」に追いつけとやってきた高専が、自分たちの実習教育と大学工学部の実習とがどう異なるのか、説明できたのであろうか。説明しようとしたときに、何とか出てきた言葉が「実践的」だったわけであるが、その概念と実態は大学工学部と高専を相対的に画するに過ぎなかった。

 大学と高専は規模も能力も存立基盤も異なるが、敢えて比較の対象とすれば、理論と実践において「大学教育と高専教育の相対化」という言葉もかろうじてだが許されるだろう(もちろん、その言葉は高専関係者発祥の言葉であるが・・・)。しかし、その中で、期待される能力と立ち位置が曖昧な高専卒は、企業の「学歴主義」に従い、時には現業職に近い部門に、時には中間部門、時には研究開発職にと、企業側に穴埋め的・階層的に使われたのではあるまいか。ここで敢えて問うならば、高専卒の実技能力・実践力と職層・職階・労働内容との関係性あるいは無関係性の実体はどのようなものなのか。次第に今度は、大学工学部卒も企業内で大衆化され、どこにでも行かされる大学工学部卒が増えてくると、「実技」「実践」力を養成してきたと定義しなおされた高専卒が、企業論理に従って、周辺的・補助的・現業的部門・作業的・反復的業務といった部門に配置される結果となったのではないか・・・。新制大学工学部は旧制工業専門学校の伝統と理念を残したまま発展拡大・大量供給されていったのであるから、結果的に、高専が旧制工業専門学校と代替したわけではないのである。教育課程面でも旧制工業専門学校生が旧制中学卒業後に専門教育に入っていったことと比べると、高専生の一般教育は、さんざん指摘するように薄すぎることからも、比較の対象を誤っている。

   ここで、私の実感を述べさせて頂く。高専専門科目・理系科目の教員の多くは現在では学位取得者となった。ところが、ひと昔前の高専教員には、大学学部卒で企業に入り一線を退いて管理職になった元技師又は元研究者(殆どは巨大企業グループ・大企業出身であった)も結構多かった。彼らの企業内における実績は十分優れたものであったろうし、さすがは企業管理職であり修羅場をくぐってきたなりの人間的な魅力にあふれた人もいたと思う。また、基礎研究から生産技術に至るまで実務経験を持っている人もいたことも特筆できよう。一方、高専設立中期以降は、博士課程修了の学位取得者もちらほら揃い始めてきていた。生徒を専門知識においてリード出来たのはこの二層の教員たちであった(第三層の結構な割合で存在した不適格教員については終章)。ところが、これら企業出身教員が高専の初歩的、教育用の実験設備で「実践的」「実技的」なことを指導したり具体の開発課題を与えることができたかというと、そうではなかったのである。企業出身教員は大企業で最新鋭・特殊の設備に接してきていたため、逆に、一線を退いて管理職になったりすることもあって、初歩的な設備や器具を使って指導したり何かを作り出す感覚が落ちていたのである。あるいは、大企業の高級技師・管理職であった彼らは、多くの高専出身者の職階を知っており、こういうことも経験させておけば役立つだろう、ぐらいの教育を行う者もいた。自らは純然たる研究者とも言えないので研究指導は難しい、ここの生徒に開発課題を与える意義も見いだせないしそういう設備もない、しかし、企業の実際を知っているから何某かの実務的感覚は伝えられるから重宝というわけである。一方、若い学位取得者(ちなみに高専出身者ではない。また、大学の万年助手や万年助教授出身者のことではなく、博士課程修了後高専に若くして赴任した者たちのことを思い出している。)の方はどうかというと、高専よりははるかにマシとはいえ大企業よりは設備が整っているとは言えない状況で(例えば、ある地方国立大学工学系研究科出身者は化学系の実験でビーカー代わりに“ワンカップ大関”を使っていたと言っていたー大学工学部の窮乏ぶりを揶揄するためによく取り上げられる事例であることは後に知ったー。電気系では真空管まであったというー真空管は今でも利用価値があるがー)、研究開発に従事してきたため、逆に、初歩的な実験器具を使って生徒を指導したり、その中で、どういうモノを作り出せばいいかを指導できる人もいたのであり、一部に存在する、優秀であり、かつ、こういうことをやってみたい、実践したい、という意識を持った者たちを引き付けたのは、むしろ、この学位取得者の方に多かったように思う。実験室も明かりが絶えなかった。つまり、工学において実践的・実技的なことをやってきた教員が実践的・実技的なことを教えられるとは限らない、逆に、純然たる工学研究者が実践的・実技的ことを教えられないわけではない。ましてやーこの拙論のもう一つのテーマであるがー「早く」始めたからと言って「実践的」な人材として優れるということはない。そんなことを言えば、工学部でかなりの割合を占める大学理学部出身者が工学部で研究教育をできないことになってしまう。そもそも理学においてさえ実験・実践はある。ちなみに、これら大学院博士課程修了者や学位取得者(繰り返すが、高専出身者ではない)こそが「高専生は就職やすぐ役立つことばかりに興味を持ちすぎている。もっとこの分野でこういうことをやりたいという気持ちをもって欲しい」などと赴任した矢先に言っていたのを思い出す(確か、その人物は後に大学に移ったはずである。もちろん、高専生の多くが数理的手法に疎いー当たり前だがーことを小バカにする者もいた。しかし、彼らは彼らで正直であった)。筆者が前項で後発の旧制工業専門学校を前身にもつ新制大学工学部の事例論文を挙げたのは、このような観察があったからなのである。手を動かし、汗をかき、かつ、頭も働かすのは、大卒・院卒技師、博士も同じなのだ。

 ところで、もし、「実技」「実践」の価値を“技能”“器用”“定型的業務への習熟”の趣旨に理解しているなら、そのような学校であると明確に誤解のないように標榜してくれればよいまでのことである。そういう教育を行うのは比較的たやすいことであるから、それに特化すれば、そういう結果が生まれやすくはなるだろう。また、そのような仕事は「一定枠」としてなら存在する。あるいは「実技」「実践」が高専が従来から標榜してきた某かの「中堅」的意味と言うならばー当人らはよくわからないまま使っているように思えるが、“理論”と“技能”、“本質へ洞察”と“実現”、“思弁と経験”、“無用”と“有用”の範囲内に位置づけられる某かということか?ー、そのような力量は、大卒・院卒技師でも普通に持っていると言っているのである。筆者は“某かの範囲”と言ったが、理工学者・技術者諸賢は、その某かの範囲内に「実践」や「中堅」を定義づけようとするとき、正に「工学」の定義になることに気付くであろう。

 高専の内実を知らない外部出身者やマスコミ、政治家などで産業や科学技術に対する知見を持たない者-意味も分からず「モノづくり」に感心ー、は高専の教育の表面を観察して、実験・実習が多くてすばらしい、さすがは実験・実習に裏付けれた教育である、などという妄想を抱く。さらには、滅多に出くわすことはないが、たまたま出くわした(実習だけは強引に反復練習だけさせられているので、意味はよくわからないが、そつなくこなす)一見「優秀そう」な高専生をも勝手に礼賛する。そうした感覚は、中学生なら体験入学の時に抱く実感程度のものであり、大人としては、俺は汗はかきたくないから”お前らはそういう仕事をしていればいいんだ”、という意識に支えられたものであろう。そうでないとしたら、ただの無知である。ところが、そのような実験・実習は学問の府であるはずの大学でも見られるし、あるいは、教科としての実習そのものの時間は少なくても、卒業研究で、それが研究と銘打たれているにもかかわらず実習的要素の学習が得られているのである。さらに、逆に、大学が本気になって1年次2年次から実験実習を多めに取れば、高専が目指す教育目標は、ほどなく大学の方にこそ達成されてしまうだろうし、そういう私立工業大学は存在する。専修学校・専門学校でも、実習と就職を意識して教育を提供している。要するに、諸制度との比較なし、あるいは、比較の対象を誤って(例えば、三流私大の文系よりマシ、逆に、研究機関としての意味合いが強い旧帝大等に比べるなど)、さらには「量」の定型的観察で、高専を評価しているケースが非常に多い。

 理論と実践は両輪である。敢えて言うなら、理論さえも実践で得られる。「実践」力は、その意味するところを考えればわかるとおりカリキュラムで得られるとは限らず、それこそ、徹底した理論学習の後に実際の研究や開発をしている教授や院生を手伝いながら徐々に得られることもあるのである。

4.高専専門学科教員
(1)ここで、学位を持つという高専専門学科教員について述べておこうーもちろん、工科系の専門学科においてのことだから、その学位とは博士号のことである。
 序章でも述べたとおり、高専の50年以上の歴史の中で、高専創立35年経過ぐらいまでは、一部の高専高専教員を除き、専門学科教員10名中に博士号取得者がゼロないし2、修士号取得者が若手中心に2~4名であることが多かった。つまり、高専によっては、学科に博士号取得者がゼロ、修士号を持った者が2名という組み合わせが十分あり得たのである。昭和50年代から60年代の地元に有力大学がない高専ともなると、学位取得者は大学工学部教授出身の校長のみということも珍しくなかったはずである。教員一人当たり生涯研究論文数は数編から十数編、しかも、査読付き論文がゼロないし2本(氏名は末尾)、という高専も多かったと思われる(筆者は、一部の教員を除き・・・と言ったが、高専に学位取得者が赴任したり、高専教員が高専教員のまま非常な努力をして論文博士で学位を取得したりすると、まさにスター扱いで一目置かれたものであることを覚えている。一部の高専を除き・・・とも言ったが、圧倒的多数の教員が学位を持った高専にはー私は、それらの高専は教員や校長の意識が他の高専と異なっており、かつ、大都市圏との人材交流があった高専ではなかったかと考えているーいち早く専攻科が設けられている)。
 さて、学位を持った教員がいるというのは、よほどヒドイ大学工学部でない限り入学難易度底辺の大学工学部でも同じであるか、そちらの方が学位取得効率が高く研究論文発表数が多い。おそらく近く解消されるだろうが、現在でも高専の方にこそ博士号を持たない者が散見される。学生数も高専より圧倒的に多いし、大学院まである。就職問題もあって教育に不熱心ということもない。高専教員は学位をもっている、充実して学べるから高専に行こうというのは、リクツにならない。
 大学工学部「相当」などと称していたが、教員の研究レベルの比較論で言うと、一部の高専と教員を除き、大学工学部教員には及ばない、という負の歴史も長かったし、現在でもそうである。そして、理工学分野における研究力は教育力にも当然に影響する。その負の歴史は高専制度の根本的欠陥と表裏をなしてきた。高専中期までは、実務家教員比率が多かったことと理工学専攻者の大学院修了者そのものが少なかったことが原因であるが(実務家教員には企業技術者・企業研究者としての優れた実績があった。当時の実務家教員には形式的に学位を要求するのではなく別の考慮が必要であろう)、しかし、実務家教員が多かったこと等だけが教員の研究力が低かったことの原因ではない。ほとんど研究せず、できず、あるいは、あきらめた、という教員比率も最低でも6割ぐらいはいたと思われる。現在でも、学位を取りきれない教員が散見されたり、年齢が進むにつれて研究が息詰まる教員が多い。大学工学部では博士号をとってやって研究者としてスタートできるのであるが、高専では修士で助手・助教になって、学生指導に熱心な者に限って博士号が取れないということや、高専に長くいると設備や環境で大学教員にあっという間に追い越されてしまうことが多くみられる。専門学科にもかかわらず、(おそらく研究テーマと研究設備が乖離することもあろうが)時に学位が科学技術に関する論文ではなく教育論文である例さえもある。そもそも組織体としては研究が非常に小さくしか期待されていないのが根本原因であるが、その構造は今も変わっていない。逆に言うと、高専教員はその能力を十分発揮できていないとも言える。
 専攻科設置で、学位を持たない教員も在職中に学位を取得しなければならないとなった時に、その機会を与えてくれたのは、遅れて博士課程を持つに至った地方国立大学工学部であることも多かったはずである。あるいは、中堅私大も博士課程があったから、そこで学位を取得したもの者も多いはずである。高専教員の中には、高専は地方国立大学工学部と同等などと言いう者もいたが、わかっていたこととはいえ、この時は、しみじみ思い知ったはずである。しかも、いくら手塩にかけて生徒を育てても、高専からは学士学位は出せない。学士が一応は学位と呼ばれるようになった今日においては、そのことも身にしみるだろう。
 皮肉にも、余剰博士も高専教員の博士号取得率が高まったことに一役買っていたことも指摘せねばなるまい。そのことも含めて、専攻科設置で教員が博士号を持つようになったというのは、自身の学位取得をむしろ他に(大学)委ねなければならなかったことと、高専が学士学位も出せないという、厳然たる事実を確認させられたという皮肉な側面もあるわけである。
(2)少なくとも学歴的には大学よりも低い地位にある高専において、その教員間では「学歴主義」が存在していたのではないか、と思われることがある。以上の高専における学位の例の他に、例えば、①国立大学出身者特に当地の国立大学出身者が非常に多かったこと、②大学卒であれば、紀要に何篇か書いていれば自動的に教授に昇進できることが多かった一方、③企業などで実務経験がある工業短期大学や夜間部出身の教員が万年助手や万年助教授である例が多かったこと、④最終学歴高専卒の教員が1~2割いたが、その教員は学位や査読付き論文がなくても教授に昇進できたこと、⑤企業出身教授については、多くが大企業の高級技術者・上級管理職出身であったが、それらの者も多くが一流大学出身者であったこと、⑥校長は博士号を持った国立大学工学部教授出身者で占められていたこと、などである。③と⑤の例は大企業の学歴主義を反映しているとも言えるだろう。高専でさえ学歴主義が徹底しているのに、④のような事例があるのは、単に身内に甘い、高専だけは特別という思い上がりであるという程度のことである。
 ここで筆者は企業出身教授(前項も参照)についてあることを思い出している。一般に大学工学部では教授を頂点とした階層があり、しかも、学位取得が当たり前であり、学位のない者が一段低く見られるていると言ってよかろう。だが、高専においては、必ずしもそうではなかった。一流大学工学部出で定年を前に大企業の高級技術者や上級管理職から転身してきたあった者が、大学工学部教員から流れてきた教員にコンプレックスでも抱いているかというとそうではなかったことは言動や身なりから確実に伺えた。企業出身教授は、「大学教員から流れてきた高専教員」のうち誰が大学で昇進見込みのない万年助手や万年助教授、転出を前提に一時助教授となった者であるかどうかぐらいは見抜いていたのである。また、自らは大企業で研究開発をしていたことや上級管理職であったことに大きな自負を抱いていたわけである。さらに、比較的高齢であった企業出身教授は大都市圏で子弟の教育は終わっていたので、高専などは全くの別世界。大学教員から流れてきた比較的若い高専教員は丁度子育て世代で、むしろ彼らこそが、あえて、いわゆる進学校へ子弟を送り込もうとしていることが、ありありと分かった。それはお前の主観だ、などと言ってもらっても困る。狭い田舎の高専世界では、どの教員が子弟をどこの高校に通わせている、中学受験させている、ぐらいのことは手に取るようにわかるのだ。
5.旧制専門学校の大学昇格熱の冷却―高専と同じ轍―

 ここで、旧制実業専門学校のついて、ある事実を見ておきたい(以下、天野郁夫・前掲・『高等教育の時代(下)』334~335頁)。

 大正10年教育評議会において専門学校改革が議題にとりあげられた。そこでの議題の主なものは専門学校における①学士号の授与と②専攻科設置問題だった。天野によれば、この専攻科設置の狙いは専門学校卒業生の向学心を満たすことではなく、官立専門学校の間に高揚した大学昇格熱の冷却をはかることにあったという。

 まるで、現在の高専における問題と同じことが既に大正時代に旧制専門学校で起こっていたのである!高専における専攻科設置とは、この大正時代の措置と同じだったのではあるまいか。専科大学が専攻科にすげ替えられた経緯からはそのように断定してよろしい。そして、我々は、前章で挙げたcool downそしてcool out がその中身の学生に対してだけでなく、高専という学校制度そのものにも向けられていることを知るのである。

 高専関係者が好む「5年一貫」「楔形」の主張も、結局は、後期中等教育の年代を含む青年が存在することを理由に昇格を冷却させる根拠となるだろう。それだけならまだよいし、筆者も高専が一般大学に昇格することや、一般大学増設に価値を見出していない。また、確かに高専における「実技」「実践」科目の割合の多さは多少の評価材料にはなる。しかし、工学教育において多くの人に共有され続けてきた「実技」「実践」の価値が、高専のそのままの“存続”と“冷却”の隠れ蓑に使われることは憂慮している。これは戦前から既に科学技術立国・ものづくり大国であった我が国そのものにとっても許しがたいことなのだ。